ヒンディー語映画の大きな着想源のひとつにムンバイーのアンダーワールドがある。ムンバイーがまだボンベイと呼ばれていた頃から、この商都のアンダーワールドには数々のギャングが跋扈し、栄枯盛衰を繰り返して来た。ギャングたちは映画産業ともつながりを持つことが多く、ヒンディー語映画界は正に当事者であった。ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督やサンジャイ・グプター監督などがアンダーワールドを好んで映画化するが、それは彼らの専売特許ではなく、他にも多くの映画監督たちが実在のギャングたちから着想を得て映画を作っている。
2017年9月8日公開の「Daddy」は、1980年代から90年代にかけてムンバイーのアンダーワールドを支配したギャングの親玉アルン・ガウリーの伝記映画である。1990年代に政治家に転向し、2004年には州議会議員に選出されている。2012年に彼は過去の殺人罪で終身刑となり、現在も服役中だ。彼の全面的協力が得られているようで、アルン・ガウリーが実名で登場する。
監督はアシーム・アフルワーリヤー。過去に数作品撮っているが、メインストリームの娯楽映画畑にいる人物ではない。主役のアルン・ガウリーを演じるのはアルジュン・ラームパール。彼はこの映画のプロデューサーも務めている。他に、ファルハーン・アクタル、主にタミル語映画界で活躍するアイシュワリヤー・ラージェーシュ、「Mumbai Meri Jaan」(2008年)などのニシカーント・カーマト、「Sarkar Raj」(2008年)などのラージェーシュ・シュリンガールプレーなどが出演している。
州議会議員のマートレーが自宅で何者かに射殺された。犯人はギャングから州議会議員になったアルン・ガウリー(アルジュン・ラームパール)と思われた。この事件の捜査を担当することになったのが、過去30年以上アルンを追っている警察官、ヴィジャイカル(ニシカーント・カーマト)であった。ヴィジャイカルはアルンの関係者に会って話を聞き、彼の過去を洗い出す。 アルンは工場労働者の息子で、工場の長期ストライキと閉鎖がきっかけでアンダーワールドの道に足を踏み入れた。窃盗や賭博などの軽犯罪から始め、やがて殺人に手を染めるようになった。ラーマー・ナーイク(ラージェーシュ・シュリンガールプレー)やバーブー・ラシーム率いるバイキュラー・カンパニーの一員となり、彼らが殺された後はアルンがドンに就く。また、別のギャング、マクスード・バーイー(ファルハーン・アクタル)とライバル関係になり、抗争を繰り広げていたが、マクスードがドバイに逃げた後は、拘置所からアンダーワールドを支配した。 服役を終えたアルンは政治家に転身し、地域の民衆の絶大な支持を受けて州議会議員になる。いつしか彼は「ダディー」と呼ばれるようになった。だが、マートレーの死により改めて殺人罪に問われるようになり、2012年に終身刑を言い渡された。
「現在」の時間軸で、ヴィジャイカル警部補がアルンの過去を知る人物と面会、尋問する形で、アルンの過去が、断続的に、時系列を追って語られるという構成になっていた。軽犯罪者がギャングの親玉にのし上がり、刑務所で10年過ごした後は、政治家となって表に現れるという、類い稀な人生を、写実的なタッチで描き出した。また、アルンは、ヒンディー語映画が好んで映画化するダーウード・イブラーヒームのライバルであり、ムンバイーのアンダーワールド史を補完する映画にもなっている。
モデル出身で、業界随一のハンサム男であるアルジュン・ラームパールは、今回は細身のギャングスターであるアルン・ガウリーになりきるため、かなり身をやつして、迫真の役作りをして来た。ファルハーン・アクタルがダーウード・イブラーヒームを演じるのは意外なキャスティングであったが、他にはそれほど有名な俳優がおらず、演技力や土臭さを最優先したキャスティングが心掛けられており、好感が持てた。
アルンに集中的にスポットライトが当てられ過ぎていた印象で、彼と仲間、部下、そして家族との関係は断片的にしか描かれておらず、人間ドラマの部分は弱く感じた。ダーウードとの確執をもう少し時間を掛けて映し出しても良かったのではないかとも感じた。その代わり、アルンを執念で追い続けるヴィジャイカル警部補は非常に渋い描かれ方をしており、良かった。
ヴィジャイカル警部補はエンカウンター・スペシャリストだ。「エンカウンター」という用語は日本人には馴染みのないものだが、エンカウンターの様子はラーマー殺人の場面で垣間見ることができる。インドの警察は、凶悪な犯罪者を逮捕せずに現場で殺してしまうことがあり、それをエンカウンターと呼んでいる。正当防衛が前提だが、ターゲットを問答無用で射殺した後に遺体に銃を持たせて正当防衛を演出することもある。この強引な方法でギャングやテロリストを一網打尽にしてしまうのがインドの警察の常套手段となっている。
登場人物は、台詞をボソボソッとしゃべることが多く、しかもスラングが入っているため、聴き取りが困難だった部分も多い。写実的な台詞回しはいいのだが、台詞が聴き取れなくなるほどの話し方は少し是正してもらえるとありがたい。
「Daddy」は、ダーウード・イブラーヒームのライバルであるアルン・ガウリーの半生を描いた伝記映画である。アシーム・アフルワーリヤー監督の作風なのか、非常に写実的なストーリーテーリングで、全編に重厚な雰囲気が漂っている。ムンバイーのアンダーワールド史を学ぶための教材のひとつとなるだろう。アルン・ガウリーのライバル、アマル・ナーイクの伝記映画「Mumbai Saga」(2021年)と併せて観るとさらによい。