2004年6月11日から公開の新作ヒンディー語映画「Dev」を、PVRアヌパム4で鑑賞した。監督はゴーヴィンド・ニハーラーニー、音楽はアーデーシュ・シュリーヴァースタヴ、キャストはアミターブ・バッチャン、オーム・プリー、アムリーシュ・プリー、ファルディーン・カーン、カリーナー・カプール、エヘサーン・カーン、ミリンド・グナージー、ラティ・アグニホートリーなど。
ムンバイー在住のデーヴ・プラターブ・スィン警視監(アミターブ・バッチャン)は、法と秩序の遵守を絶対とする真面目な警察官であった。デーヴの親友、テージンダル・コースラー警視監(オーム・プリー)はそれとは対照的に、悪への過度な憎悪と、権力への従順さを持った警察官であった。ムンバイーにはヒンドゥーとムスリムのコミュナルな対立が深まりつつあり、テージはテロ対策本部の長に任命される。 一方、イスラーム教徒のファルハーン(ファルディーン・カーン)はヴァローダラーで法学部を卒業して、父親アリー・サーハブの待つムンバイーのヌールマンズィル(ムスリムが集住するアパート)へ戻ってきた。ヌールマンズィルでは、ファルハーンの恋人アーリヤー(カリーナー・カプール)も彼の帰りを待っていた。ヌールマンズィルは、イスラーム教を巧みに政治に利用するラティーフ(エヘサーン・カーン)に支配されていた。アリー・サーハブはガーンディー信奉者で非暴力主義だったのだが、ラティーフによって反対運動の指導者に担ぎ出され、デモ行進中に警察官に射殺されてしまう。それを指揮していたのがデーヴであった。ファルハーンはデーヴに対して復讐を誓い、テロリストとしての訓練を受ける。ある日、ファルハーンはデーヴ暗殺を実行するが、失敗してしまう。 ファルハーンは警察に捕らえられるが、デーヴは彼を見て、死んだ息子のアルマーンをなぜか思い出した。アルマーンはテロリストによって殺されたのだった。デーヴはファルハーンを釈放する。しかしラティーフはファルハーンがすんなり釈放されたことを疑い、彼を殺害しようとする。ファルハーンの乗ったバイクがガネーシュ寺院に着いたときに大爆発するが、ちょうどバイクから離れていたファルハーンは一命を取り留める。ファルハーンはラティーフに裏切られたことを知る。 ガネーシュ寺院での爆発は、ヒンドゥー教徒に多数の死者を出した。これに怒ったヒンドゥー教徒のマンガルラーオ大臣(ミリンド・グナージー)は、イスラーム教徒への復讐を指示する。ラティーフもそれに反撃し、街はヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動で滅茶苦茶となる。ちょうどそのとき外出していたアーリヤーは逃げ惑い、何とかヌールマンズィルまで辿り着くが、追って来た暴徒によって友達や家族は惨殺される。アーリヤーは包丁を持って暴徒に立ち向かい、何とか助かった。駆けつけたファルハーンは、アーリヤーを病院へ運ぶ。 暴動は収まったが、被害者からの被害報告書が提出されないため、警察は暴動に加わった者を逮捕できないでいた。ラティーフはマンガルラーオと影で交渉しており、誰も被害報告書を出さない、出させないことで合意していた。デーヴはヌール・マンズィルへ出向いて被害報告書の提出を求めたが、ラティーフに脅されていた住民たちは、誰も提出しようとしなかった。しかし、そこへ1人だけ前へ進み出る者がいた。アーリヤーだった。アーリヤーは勇気を持って被害報告書を提出し、マンガルラーオ大臣が暴徒を率いていたことを報告する。デーヴは即座にマンガルラーウを逮捕する。 しかしマンガルラーオをかわいがっていたバンダールカル州首相(アムリーシュ・プリー)は、彼を釈放させてしまう。アーリヤーとファルハーンはデーヴの家に匿われるが、マンガルラーオはすぐさまヌールマンズィルを焼き討ちする。テージはその焼き討ちを黙って見守っていただけだった。現場へ駆けつけたデーヴは、テージの制止を振り払って住民を助ける。事件後、デーヴは事件の報告書を州首相に提出し、事件を静観した親友のテージを訴えた。ところが、裁判所へ向かうデーヴを、テージは暗殺する。その後、テージ自身も自殺してしまう。
ヒンドゥーとムスリムの対立を扱った暗い映画。ヒンドゥーとムスリムのコミュナル暴動、ヒンドゥー教寺院での爆発、ムスリムの住むアパートの焼き討ちなどのプロットは、実際にインドで起こった出来事を連想させる。また、政治家が宗教を利用する様子や、インドのムスリムが置かれている現状なども深くえぐっていた。
一昔前までのインド映画は、娯楽・商業主義映画と社会派・芸術映画の2つに分かれていたが、ここ数年、この2つの流れの中間を行く映画も多くなってきた。「Dev」はまさにその中間点にある。アミターブ・バッチャンやカリーナー・カプールなどのキャストや、ミュージカルを挿入する手法などは娯楽映画のものだが、主題はインドが抱える最も深刻な社会問題である。
物語の中核となるのは、アリー・サーハブとファルハーン、そしてデーヴとテージの関係である。アリー・サーハブは血気盛んな息子のファルハーンに、マハートマー・ガーンディーやガッファール・カーンを引き合いに出して非暴力の道を説くが、ファルハーンは「そんなの時代遅れだ」と相手にしなかった。ファルハーンは父親の死後、復讐のためにテロリストの道を歩み始めるが、デーヴとの出会いが彼を変え、そして暴力が暴力を生む現状を目の当たりにして、遂に父親の言葉が正しかったことを悟る。また、テージは正義感が強すぎるあまり、「ムスリム=テロリスト=悪」と決めつけていた、強硬派の警察官だった。全ての国民の平等を謳った憲法を遵守するデーヴとは意見が合わなかったが、30年来の親友であった。テージは、デーヴがムスリムのファルハーンらを家に匿っていることを面白く思わず、最後には自分を訴えたデーヴを殺してしまう。しかし、デーヴがファルハーンを息子同然に思っていたことを知り、デーヴを殺したことを悔いて自殺してしまう。
あまりにテーマが深刻すぎて、現実に起こった事件に近すぎて、この映画はインド人にとって非常につらいものとなっている。ヒットする可能性は低いのだが、もしもっと積極的な見所を挙げるとするならば、俳優陣の演技である。演技派俳優が多数出演していたこともさることながら、ファルディーン・カーンやカリーナー・カプールなどがベストの演技をしていたのが印象的だった。特に最近のカリーナー・カプールの成長振りには目を見張るものがある。チャラチャラしたイマドキの女の子役を演じさせたら彼女の右に出る者はいないのだが、それに加えて「Chameli」(2004年)での売春婦役や、この映画での落ち着いた演技を見ると、彼女の才能の幅は急速に拡大しているように思える。さらには、この映画中では「Jab Nahin Aaye The Tum」を自身の声で歌っている。つまり歌手にも挑戦している。さすが映画カースト出身だ。ラティーフを演じたエヘサーン・カーンもすさまじい熱演をしていた。舞台劇っぽい話し方が多少気に障るのだが、しかし彼がヌールマンズィルの住民に向けて話す演説は、観客をしびれさせるくらいのエネルギーがある。「Devdas」(2002年)でカーリーバーブー(チャンドラムキーに言い寄っていた男)を演じたミリンド・グナージーは、あの顔あの髭あの雰囲気のまま、悪徳政治家役で出演していた。彼もいい演技をする俳優である。おかげで、主人公のアミターブ・バッチャンは少しだけ影が薄くなってしまっていたような気がする。
ヒンドゥー教徒の政治家などは、サンスクリット語起源の単語を多様し、ムスリムはペルシア・アラビア語起源の単語を多様するので、映画中のセリフを十分理解するには、ヒンディー語とウルドゥー語の知識が必要となる。ムスリムの話す言語は僕にとっても難しかった。
気晴らしに見るような映画ではないが、インドの社会問題を垣間見るにはいい映画だろう。カリーナー・カプールのファンにも、彼女の一味違った演技を見ることができるため、オススメである。