Baththa (Tamil)

4.5
Baththa
「Baththa」

 2026年10月1日公開のタミル語映画「Baththa」は、インド映画でよくあるスターシステム依存のギャング映画と思わせておいて、中盤以降まさかの展開を迎える、驚きと感動に満ちた作品である。

 プロデューサーは「Jawan」(2023年/邦題:JAWAN ジャワーン)などのアトリー。監督は「Naduvula Konjam Pakkatha Kaanom」(2012年)のバーラージー・タラニタラン。音楽はサーイ・アバヤンカル。

 主演はヴィジャイ・セートゥパティ。他に、マスター・サーイー・プリトヴィーラージ(子役)、リジョーモール・ジョース、ベイビー・サハスラ・シュリー(子役)、シャーンティ・バーラチャンドラン、ハリ・クリシュナン、ヴィシュヌ・ゴーヴィンダン、アルジュン・チダンバラム、アジャイ・ゴーシュ、ディーパー・ヴェンカト、ラミヤー・パーンディヤンなどが出演している。

 1986年、マドラス。バッター(ヴィジャイ・セートゥパティ)は近所で恐れられている乱暴者であった。3年生のサバリ(マスター・サーイー・プリトヴィーラージ)は、夏季休業中で閉まっている学校に忍び込み、職員室で先生から没収された玩具を取り返そうとする。そのときに学校のトイレを使い、使用後に扉に錠をしたが、誤ってバッターを中に閉じこめてしまった。サバリはバッターに殺されるのを恐れ、扉を開けなかった。だが、バッターが餓死するのを防ぐため、毎日ラスクを届けていた。

 バッターの妻カンニマ(リジョーモール・ジョース)や、彼の子分デリー(ヴィシュヌ・ゴーヴィンダン)とドゥライは、バッターが突然行方不明になり、町を探し回るが見つからない。バッターには敵が多く、誰かの仕業だと思われたが、コンダ・レッディー(アジャイ・ゴーシュ)など、心当たりのあるライバルもよく知らないようで、謎は深まった。

 こうしてバッターが閉じこめられて8日間が過ぎ去った。サバリは、母親セルヴィ(シャーンティ・バーラチャンドラン)が彼を連れて実家に帰ろうとしているのを知り、トイレの扉を開ける。だが、中からは誰も出て来なかった。サバリが中に入ってみると、バッターが倒れていた。サバリは人を呼び、バッターは病院に搬送された。

 バッターは毒蛇に噛まれて気を失っており、あと少し遅かったら命を落としていたところだった。目を覚ましたバッターやカンニマは第一発見者のサバリに感謝し、彼を息子同然に扱うようになる。だが、デリーとドゥライがラスクを手掛かりにして犯人を探し回っているのを見て、サバリはいつかばれるのではないかと不安になる。

 サバリは機会を見つけてバッターに自分が彼をトイレに閉じこめたことを打ち明ける。バッターはサバリの正直さと勇気に感服し、ますます彼を気に入る。そして、なぜ彼があのとき学校にいたのかをそっと教える。バッターは歌が好きだったが音痴であり、歌の練習をするために学校のトイレにいたのだった。サバリはバッターに、彼の娘テンモリ(ベイビー・サハスラ・シュリー)の初潮祝いのときに歌うように促す。

 テンモリの初潮祝いが盛大に祝われ、バッターのライバルたちや、彼の初恋の人ジャヤンティ(ラミヤー・パーンディヤン)なども駆けつけた。バッターはステージに上がり、「Chellame Magale(愛しの娘)」を歌い出す。依然として音痴だったが、最後まで歌いきり、人々から称賛を受ける。バッターはサバリを抱きしめる。

 「Baththa」のポスターを見てほしい。厳つい表情でこちらを凝視する主演ヴィジャイ・セートゥパティの顔を中心に、いかにもハードボイルドなギャング映画の雰囲気を醸し出している。ヴィジャイの演じるバッターのイントロダクション曲「Ooroda Oththa Don」も、いかにも腕っ節が強くて周囲から恐れられながらも面倒見は良く部下から慕われる親分肌の人柄を歌い上げるものだ。ここまでは完全に「Pushpa: The Rise」(2021年/邦題:プシュパ 覚醒)などのノリである。ヴィジャイのスター性に依存し、それを磨き上げ積み上げることを主眼とした、典型的なスター中心映画がまた始まったと信じ込まされる。

 ただ、序盤からバッターと同等かそれ以上に、バッターを恐れる何の変哲もない少年サバリの視点と心情の描写が長く、多少の違和感は感じる。そして、バッターが学校のトイレに閉じこめられるというギャングらしからぬ失態を犯すことで、映画は一気にブラックコメディー化する。

 常に腕力に訴えるためにケンカが絶えず、妻にも手を挙げるとんでもない乱暴者だったバッターが、頑丈な扉によって外界から隔離されたトイレに何日間も閉じこめられ、ラスクしか食料を与えられず、為す術がなくなってしまう中盤の展開は、悪い行いをすれば悪い結果が引き起こされるという因果応報論をなぞっているのかとも思われた。

 だが、後半になるとさらに映画の雰囲気はガラリと変わる。バッターは助け出され、サバリは図らずも「命の恩人」としてバッターから感謝されるのである。サバリは、いつ自分が閉じこめた張本人だということがばれるのかビクビクしながら過ごすことになった。一方、バッターはトイレに閉じこめられた8日間で人が変わってしまっていた。彼はもう二度と妻子に会えないと覚悟を決めながらも助かったため、家族に再会できたことを神の恩恵だと考え、まずは以前よりも良き夫、良き父親であろうとするようになった。さらに、目の敵にしていたライバルたちにも低姿勢で臨むようになり、彼の周辺から争いの火種が消えていった。乱暴者が非暴力主義に目覚めるという展開は、「Lage Raho Munna Bhai」(2006年)を想起させる。

 終盤、もっぱら焦点になるのは、サバリが犯人だったということがどのようにバッターにばれるのか、もしくは最後までばれずに済まされるのかという点だ。サバリは、もちろんばれたらどうなるか分からないという恐怖にも怯えていたが、それよりもむしろ、バッターが考えていたほど悪人ではないということが分かり、嘘を付き彼をだまし続けている自分に耐えきれず、良心の呵責に悩んでいた。あるときサバリは決心して、バッターに全てを打ち明けようとする。その寸前にバッターにはほぼばれてしまうのだが、サバリは泣きながらもなぜ彼を閉じこめてしまったのか誠心誠意説明する。バッターがそれを聞いて怒ることはなく、むしろそれまでサバリがどんなに苦しんできたのかを思いやれるようになっており、彼をそっと抱きしめる。感動の瞬間である。

 物語の中でバッターおよびサバリが共通して学んだのは、自分の非を認め謝るということだった。バッターは、今まで乱暴を働いてきた家族に対して反省の言葉を述べ、彼が暴力を振るった敵に対しても素直に謝った。サバリは、故意ではなかったものの、バッターをトイレに閉じこめてしまい、開ける勇気を出せなかったことをバッターの前で率直に述べた。反省し謝るという行為がどれほど偉大であり、そして巡り巡ってどのように自分自身の平安につながるのか、「Baththa」は説教することなしにストーリー本体でもって観客に訴えていた。

 これだけでも十分に感動作だったが、バッターの歌う音痴な歌で物語を締めくくるという、ダメ押しのサプライズも用意されていた。そもそもバッターがギャングの道を歩み始めたのは、歌を否定されたからだった。彼は、幼い頃に亡くなった母親の思い出もあって歌が好きだったが、かなりの音痴であった。その音痴によって彼は初恋の人に笑われ失恋し、その音痴さは町全体にも知れ渡り嘲笑の対象になってしまった。その不名誉を拭い取るために彼は腕力に訴えるようになり、果てはギャングになったのだった。歌と暴力は対極に置かれていた。だが、サバリとの出会いによってバッターは再び歌を取り戻した。音痴が直ったわけではないが、歌を歌うことで人々から拍手をもらえる快感をようやく享受できた。歌を最後まで歌い切り笑顔を見せたバッターからは、かつての乱暴者の面影がすっかり消え去っていた。

 定型パターンの王道ストーリーを匂わせておいて途中でそれから逸脱し意外性を出す試みは、「Baththa」の1週間前に劇場一般公開されたタミル語映画「Dorothy」(2026年)でも見られた。普段インド映画に慣れ親しんでいる人ほど、「Baththa」のこの外し方から妙味を味わえることだろう。あえて音痴を音痴のままにしておき、音程が外れた歌で締めるというのも、歌と踊りを重視するインド映画では珍しいかもしれない。

 ちなみに、「Baththa」では娘が初潮を迎えたときに儀式が行われていたが、これはタミル・ナードゥ州をはじめとした南インド特有のもので、北インドでは一般的ではない。

 時代が1986年になっていたのは、トイレに閉じこめられるというシチュエーションが、携帯電話普及前の時代の方が都合が良かったからであろうか。閉じこめという部分だけを切り出せば、似たような映画として「Trapped」(2016年)や「Mili」(2022年)が挙げられる。また、バッターが乗っていたバイクはYamaha Rajdoot 350だ。「Hero」(1983年)でジャッキー・シュロフが乗っていたことで知られる。当時の若者の憧れの的で、1980年代のインドを象徴するバイクである。

 「Baththa」は、あえていつものギャング映画の雰囲気を醸し出しながら始まりながらも、途中で何度か見事なジャンル変更を経て、最終的には感動的にまとめている。見事な脚本の作品だ。もちろん、主演ヴィジャイ・セートゥパティの演技も素晴らしいし、もう一人の主演、子役のマスター・サーイー・プリトヴィーラージも負けていなかった。興行的にも成功している。タミル語映画の底力を感じずにはいられない、必見の映画である。