BRアンベードカル

 インドの偉人といえば、大抵の人が「インド独立の父」マハートマー・ガーンディーを思い浮かべるだろう。確かに、インドが英国から独立を勝ち取る過程において彼の貢献は甚大であり、その功績に疑いの余地を差し挟む余地はない。ガーンディーが掲げたアヒンサー(非暴力主義)やサティヤーグラハ(真理の主張)の理念は国際的に高く評価され、現代までインド国民のプライドになっている。しかしながら、現代においてガーンディーと同じ、あるいはそれ以上に熱狂的な支持を集めながら、日本ではそれほど知名度のない偉人がいる。それがビームラーオ・ラームジー・アンベードカル(1891-1956年)だ。一般に「BRアンベードカル」「ドクター・アンベードカル」「バーバー・サーヒブ(Baba Saheb)」もしくは単に「ビーム」と呼び習わされている彼は、独立インドの初代法務大臣を務め、憲法起草の中心を担った法学者であるが、それ以上にその出自が彼を特別な存在にしている。映画の文脈でも彼の名前、彼の肖像、彼の理念などは特別な意味を持たされることが多い。ここでは詳しく彼の生涯や業績について解説する。

BRアンベードカル
BRアンベードカル

「アンベードカル」誕生

 ビームラーオは1891年4月14日、インド中央部の軍都マフー(現在のマディヤ・プラデーシュ州ドクター・アンベードカルナガル)にて、カースト制度では最下層またはカースト外に置かれるダリト(不可触民)の一種マハールの家系に生まれた。祖地は現在のマハーラーシュトラ州西部ラトナギリー県のアーンバダウェー村にあり、信仰する宗教はヒンドゥー教である。元々はサクパール姓を名乗っていた。

 一般的にダリト出身というとその日暮らしの極貧家庭を思い浮かべるが、サクパール家は代々英国の軍隊に仕える軍人家系であった。彼がマフーで生まれたのも、当地にあった軍駐屯地に父親ラームジーが配属されていたからである。

 サクパール家の属するマハールは村の境界を守る仕事に従事する、いわば「警備員カースト」であった。マハールは遺伝的に体格や身体能力に優れていたため、英国によって軍に積極的に登用された。特にラームジーは軍学校の校長を務めるなど、重用されていた。軍では実力主義と平等主義が浸透しており、インド社会では被差別階級だったマハールにも昇進のチャンスがあったのだ。最終的にラームジーはインド人の軍人としては最高位の准将に上り詰める。そのため、サクパール家はダリト家系といえども例外的に安定した収入が得られる比較的裕福なダリト家庭だったといえる。また、ラームジーは子供の教育に熱心だったとも伝えられている。

 ただし、ラームジーはビームラーオが3歳の頃に軍を退役しており、別の仕事を見つけ、しばらくの間サターラー(現マハーラーシュトラ州に所在)に落ち着いた。ビームラーオが本格的に教育を受け始めたのはこのサターラーである。マフーにいた頃は軍隊という英国式の規律に守られた安全圏にいただろうが、そこから一歩外に出ると凄惨な差別が待っていた。また、5歳の頃にビームラーオの母親が亡くなっており、兄弟と共に叔母の家に預けられ育てられていた。そういうこともあって、サクパール家自体は経済的に安定していたものの、ビームラーオの幼少期は決して羽振りのいいものではなかった。

 彼はサターラーの公立学校に入学する。元軍人の子という肩書きは学校入学の際にいくらか助けになったようだが、いざ入学してみると、ダリトの子ということで椅子に座る尊厳を与えられず、教室の隅で麻袋に座って授業を受けていたという。また、彼は学校の井戸から直接水を汲んで飲むことを許されておらず、用務員に上から水を垂らしてもらって、それを下で受け止めて飲んでいた。用務員が欠勤すると、彼は水なしで過ごさなければならなかったというエピソードが伝わっている。

 しかしながら、サターラー時代にビームラーオは運命的な出会いも果たす。彼の通った学校には、クリシュナジー・ケーシャヴ・アンベードカルという進歩主義的なブラーフマン(バラモン)教師がおり、彼は頭脳明晰だったビームラーオをとてもかわいがっていた。そして、将来ビームラーオが最大限才能を発揮できるように、自分の名字を与えたのである。「アンベードカル」姓は一般的にブラーフマンのもので、名前だけ見れば彼はブラーフマン扱いしてもらえる可能性があった。以下、ビームラーオをアンベードカルと呼ぶことにする。

 13歳の頃、アンベードカルは父の再婚に伴ってボンベイに移住し、名門エルフィンストン高校に入学した。「アンベードカル」姓は確かに書類審査などを通過する際には役立ったかもしれないが、彼の出自はすぐに知れ渡り、差別の対象になった。なにしろエルフィンストン高校に入学したダリトは彼が初めてだったのだ。たとえば彼はサンスクリット語の履修を拒否されたという。当時、サンスクリット語はブラーフマンだけが学べるという特権意識が支配的だったからだ。だが、アンベードカルは差別にめげず猛勉強を続け、マトリキュレーション(高校卒業資格および大学入学資格試験)を得る。これも不可触民としては初の快挙だった。また、彼はサンスクリット語を独学で身に付けた。

欧米留学とダブルドクター

 高校卒業後、アンベードカルはボンベイ大学エルフィンストン・カレッジに進学し、経済学と政治学を修めた。その後、バローダー藩王国から奨学金を受け、1913年から17年の間、米国のコロンビア大学や英国のロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に留学して、経済学と法学の博士号を取得した。ダリトはおろかインド人としても、他に類を見ない学歴だった。非常に短期間での博士号取得であったが、これは、奨学金に年限があったために時間に追われるように寝る間を惜しんで猛勉強した努力の賜物であった。彼を「ドクター・アンベードカル」と呼ぶのは、ダリト出身ながら2つも博士号を取得した「知の巨人」としての尊敬を表明するためである。さらに、彼はロンドンのグレイ法曹院で弁護士の勉強までもしていた。

 米国はインドとは比べものにならないくらい自由で、アンベードカルは生まれて初めて差別から解放され、一人の人間として扱ってもらえた。白人も黒人もアジア人も同じ教室で学び、同じテーブルで食事をし、同じ宿舎に泊まる。誰も彼の生まれを気にせず、「知性」と「努力」だけを評価してくれた。英国でもアンベードカルは、流暢な英語を話し英国紳士のマナーを身につけたエリート留学生として扱われ、人種差別は受けなかった。ただし、現地のインド人コミュニティーからは引き続き差別的な扱いを受けていたとされる。

 アンベードカルは1917年にインドに帰国し、バローダー藩王国で働き始める。だが、やはり職場でも差別を受け、すぐに職を辞してしまう。彼は大学で教えたり週刊誌を発刊したりして生計を立て、グレイ法曹院から弁護士資格が得られると、弁護士として働き出す。

活動家・政治家アンベードカル

 もちろん、アンベードカルが留学までしたのは、自身の食い扶持を稼ぐためだけではなかった。1920年代から彼はダリト同胞の社会的地位向上のための活動を活発化させた。最終目標は不可触民制度の根絶であった。1927年12月25日には、カースト差別を教義化したマヌ法典を公然とマヌ法典を燃やすパフォーマンスを行った。後世になると、アンベードカルの支持者たちは、世界各国でクリスマスが祝われるこの日を「マヌ法典焚書記念日」として祝うようになっった。

 彼の地道な活動の大きな成果が、1932年に英国植民地政府によって発表されたコミュナル裁定であった。宗教・カーストごとに「分離選挙枠」を認め、その中に「被抑圧階級」というカテゴリーが設けられた。これはダリトのための分離選挙枠であり、現在でいう指定カースト(SC)や指定部族(ST)である。

 だが、ヒンドゥー教徒コミュニティーの団結を望むマハートマー・ガーンディーはダリトに分離選挙枠を与えることに反対しハンガーストライキを始める。結局、アンベードカルが折れる形で、ガーンディーの率いる国民会議派の政治家たちとアンベードカルとの間でプーナ協定が結ばれ、分離選挙枠を取り下げる代わりに、選挙の際、ダリトの立候補者には留保枠が認められることになった。

 では、コミュナル裁定の「分離選挙枠」とプーナ協定の「留保枠」では何が違うのだろうか。「分離選挙枠」では、被抑圧階級(不可触民)専用の選挙区が作られ、立候補するのも被抑圧階級だけ、投票するのも被抑圧階級だけになる。既にイスラーム教徒には認められていた特権だが、それをダリトにも拡大することで、ダリトによるダリトの指導者を作り上げるのがアンベードカルの戦略だった。一方、プーナ協定によってダリトに与えられた「留保枠」の制度では、立候補するのは不可触民だが、投票するのはその地域に住む全有権者になった。この変更により、不可触民の候補者が当選するためには、圧倒的多数派である上位カーストの有権者からも票を集めなければならなくなった。結果として、上位カーストや国民会議派にとって都合の良い従順なダリトだけが当選しやすく、アンベードカルのような過激に権利を主張する指導者が当選しにくい仕組みになった。

 1936年、アンベードカルは独立労働党(ILP)を創設し、政治家としての活動も活発化させる。早速行われた1937年のボンベイ管区議会選挙では、自身を含むILPの候補者を多数当選させた。留保枠利用の当選者がほとんどだったが、一般枠の当選者も出すことができた。政治家としてのアンベードカルは、独立前にはおおむね順調だったといえる。1942年にILPはマドラス管区でダリトのために結成され活動していた指定カースト評議会(SCF)と合流し、全インド指定カースト評議会(AISCF)になった。

 彼は著作を通してもヒンドゥー教、カースト制度、不可触民制度への批判を激化させ、国民会議派やガーンディーもはばかることなく糾弾した。その一方でこの頃のアンベードカルは、ムスリム連盟のムハンマド・アリー・ジンナーとも共闘関係にあった。二人は、独立インドがヒンドゥー教徒上位カースト者による多数派支配国家になるのではないかという共通の懸念を抱いており、分離選挙にこだわっていたのである。アンベードカルは、イスラーム教徒よりもダリトの方が抑圧されているとも訴えた。1946年の憲法制定議会選挙に際してアンベードカルは、ボンベイ管区では落選したものの、ベンガル管区ではムスリム連盟の支持を受けて当選した。だが、パーキスターンの分離独立が決まったことでアンベードカルとジンナーの共闘には終止符が打たれた。アンベードカルはダリトのための国家までは望んでおらず、独立インドの政体の中でダリトの権利を確保していく道を選んだ。よって、独立前は国民会議派批判の急先鋒だったアンベードカルも、独立直後には政権内部に入り込んでルール決めに参画することを優先した。

憲法制定

 1947年にインドが英国から独立した際、アンベードカルはガーンディーからの推薦もあって初代法務大臣に任命され、憲法制定委員会の委員長にも就任した。彼は、世界最大の民主主義国家の憲法を起草するという大仕事を成し遂げる。最大の功績は、憲法第17条で「不可触民制度の廃止」を明記したことである。彼は、数千年間続いたインドの負の歴史に、法律の力を用いて終止符を打った。インド憲法は1950年1月26日に施行される。

 だが、アンベードカルは1951年には法務大臣を辞任してしまう。元々、国民会議派の政治家に批判的だったが、彼がネルー内閣から離れた直接の原因は、ヒンドゥー教の改革が頓挫したことだ。憲法によって不可触民制度の廃止を実現した彼は、今度は法律によって、一夫一婦制の確立、女性の離婚権・財産相続権の容認、異カースト間結婚の合法化などを成し遂げ、ヒンドゥー教を改革しようとした。だが、彼の提出したヒンドゥー民法法案は保守派から激しく反対され、否決された。

 1952年には新憲法にのっとった初の下院総選挙が実施され、アンベードカルは出馬したが、国民会議派の立候補者に当選を阻まれた。1954年の下院補欠選挙でも落選した。大統領推薦により上院議員にはなれたものの、実はアンベードカルは独立インドで一度も選挙に勝っていない。もしダリトの分離選挙枠が認められていたらアンベードカルは間違いなく当選したと思われるが、留保枠ではアンベードカルほどの知名度と才能と業績のある人物でも簡単には多数派支配を克服できなかった。

 これらの一連の出来事がアンベードカルを失望させ、ヒンドゥー教から脱却しなければダリトに未来はないという極端な思想に走らせることになる。

仏教への集団改宗

 憲法を起草して国家の礎を築き、インド社会の長年の負の遺産だった不可触民制度を公式に廃止に追い込んだだけでも大変な偉業であるが、それ以上にアンベードカルの業績として今でも語り継がれているのが、1956年10月14日にナーグプルで行った仏教への集団改宗である。ヒンドゥー教に留まっている限りダリトの救済や真の平等主義の実現は未来永劫ありえないと考えるに至ったアンベードカルは、他のさまざまな宗教を研究した結果、仏教こそがもっとも平等主義と反カースト主義に根ざした宗教であるという結論に至り、50万人ともされる多数の支持者たちと共に集団で仏教に改宗した。

 ただし、アンベードカルが改宗したのは従来の仏教そのものではなかった。彼は仏教の教義をベースに新たな仏教を作り出たといってよく、それを「ナヴァヤーナ(新乗仏教)」と呼んだ。ナヴァヤーナで最重要とされる教義は、以下の「22の誓い」である。

  1. 私は、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラ(シヴァ)を信じず、崇拝もしない。
  2. 私は、神の化身として信じられているラーマとクリシュナを信じず、崇拝もしない。
  3. 私は、ガウリー(パールワティー)、ガナパティ(ガネーシャ)、その他のヒンドゥー教の神や女神を信じず、崇拝もしない。
  4. 私は、神の化身を信じない。
  5. 私は、ブッダがヴィシュヌの化身だとは信じない。私はそれを全くの狂気であり、虚偽のプロパガンダだと信じる。
  6. 私は、祖先崇拝を行わず、供養もしない。
  7. 私は、ブッダの教義に反する行動はしない。
  8. 私は、ブラーフマンに儀式を行わせない。
  9. 私は、人類の平等を信じる。
  10. 私は、平等を築くために努力する。
  11. 私は、ブッダの八正道に従う。
  12. 私は、ブッダによって規定された十波羅蜜(修行)に従う。
  13. 私は、全ての生きとし生けるものに対して慈悲と慈愛を捧げ、彼らを守り抜く。
  14. 私は、盗みを働かない。
  15. 私は、姦淫を犯さない。
  16. 私は、嘘を付かない。
  17. 私は、酒や麻薬などの陶酔物質を摂取しない。
  18. 私は、八正道に従い、日常生活の中で慈悲と慈愛を実践するように努める。
  19. 私は、人類に害を及ぼし、人類の進歩と発展を妨げるヒンドゥー教を放棄し、仏教を自分の宗教として受け入れる。
  20. 私は、ブッダのダンマこそが唯一の真の宗教であると固く信じる。
  21. 私は、仏教を受け入れることで、生まれ変わると信じる。
  22. 私は、今後ブッダとそのダンマの教義に従って人生を送ることを厳粛に宣誓する。

 これら22項目はどこか雑然としていてうまく整理されていないように見えるが、全体として強烈に感じられるのは、ヒンドゥー教に対する心底からの嫌悪感である。それほどダリトが長い間ヒンドゥー教社会の中で虐げられてきたことへの反発と捉えるべきであろうが、日本人の目には正直なところ、一般的に仏教と聞いて想起する中道主義的・穏健派的な姿とは相容れない、むしろ不寛容で偏屈な教義に映るのではなかろうか。

 アンベードカルに影響されて仏教に改宗した人々は「ネオブッディスト」とか「新仏教徒」などと呼ばれるが、彼らは改宗する際に上記の22の誓いを行う。また、インドには「アンベードカル主義者」を意味する「アンベードカライト(Ambedkarite)」を自称する人々もいるが、彼らは必ずしも仏教徒とは限らない。憲法を遵守し、世俗主義を守り、あらゆる差別に反対する、進歩的かつ良識ある市民のことであり、仏教徒であるかどうかは関係ない。

 ところで、ナーグプルで集団改宗を行ったとき、アンベードカルの身体は既に糖尿病によって深刻にむしばまれていた。集団改宗からおよそ2ヶ月後の1956年12月6日にアンベードカルは帰らぬ人となる。アンベードカルが急死したことで、仏教に改宗したばかりの人々は大いに動揺した。だが、アンベードカルの弟子や家族が彼の遺志を継いで運動を継続した。改宗も続けられ、現在インドには数千万人の新仏教徒がいるとされている。また、日本から渡印した佐々井秀嶺氏が1988年に新仏教徒を含む全インドの仏教徒の指導者に就任したことも特筆すべきである。

映画の中のアンベードカル

 インドの街角でアンベードカルの肖像を目にする機会は思いのほか多い。アンベードカルの肖像画や銅像は至る所で目にする。アンベードカルを知らない日本人は「なぜ大橋巨泉がこんなに人気なのか」と驚くが、それは単に大橋巨泉に似ているだけで、実際にはアンベードカルである。ちなみに、日本にもアンベードカル像が立っている場所がある。

アンベードカル像
アンベードカル像@高野山大学
2019年10月13日撮影

 映画の中でよくアンベードカルの肖像画を目にするのは、行政官の執務室、裁判所、警察署などである。それらの部屋の壁に、マハートマー・ガーンディー、スバーシュチャンドラ・ボース、ジャワーハルラール・ネルーなどと並んでアンベードカルの肖像画が飾られていることが多い。これは現実世界の反映であって、そこに深い意味を見出す必要はほとんどない。

 だが、一般家庭などでアンベードカルの肖像画を見かけた場合、それは無視できない意味を持つ。セリフやナレーションなどではっきり語られていなくても、アンベードカルの肖像画があるだけで、その家庭はダリトであることが暗に示されていることが多い。前述した通り、アンベードカルを信奉しているからといって必ずしも新仏教徒である必要はない。だが、その登場人物がダリトである可能性は非常に高くなる。微妙な問題に触れることになるので、登場人物がダリトであることを婉曲的にそっと示すのがインドではスマートなやり方なのである。

 そのような映画としてすぐに思い付くのが「Newton」(2017年)だ。映画の中で主人公ニュートン・クマールのカーストについては一言も触れられない。だが、彼の自宅の壁に掛けられたアンベードカルの肖像画が印象的に強調されるシーンがあった。それでもって彼がダリトであることが示されていたのである。

Newton
「Newton」

 「Newton」と同様にアンベードカルの肖像画などで登場人物のカーストが暗示されている例としては、「Guddu Rangeela」(2015年)、「Poorna」(2017年)、「Pareeksha」(2020年)、「Serious Man」(2020年)、「Homebound」(2025年)などが挙げられる。

 アンベードカルはダリトから英雄視されるあまり、もはや信仰対象にもなっているといっても過言ではない。そのため、彼の名前はダリトに関する事柄と密接な関係を持っている。タミル語映画になるが、「Jai Bhim」(2021年)という法廷劇映画があった。題名になっている「ジャイ・ビーム」とは「ビーム万歳」という意味だが、この「ビーム」とはアンベードカルのことを指す。アンベードカライトがよく使う合言葉だ。よって、題名だけで不可触民制度を扱っている映画であることが一目瞭然になる。映画の中でもアンベードカルの肖像が明確な意図を持って何度も映し出される。

Jai Bhim
「Jai Bhim」

 最後になるが、国家プロジェクトとして過去にアンベードカルの伝記映画「Dr. Babasaheb Ambedkar」(2000年)が作られているので、興味がある人は一通り観てみるといいだろう。

Dr. Babasaheb Ambedkar
「Dr. Babasaheb Ambedkar」