2010年9月10日、ヒンディー語映画界はサルマーン・カーン主演アクション映画「Dabangg」の公開に沸いていた。それまでヒンディー語映画界では長らくアクション映画不毛の時代が続いていたが、徐々にアクション映画の復権が進んで行き、この「Dabangg」によって完全に時代の潮目が変わったのだった。ところが翌月、南インドからとんでもない映画が登場した。「Enthiran」である。当時インド映画史上最大の予算となる13億ルピーをつぎ込み、常人離れした想像力をCGの嵐によって強引に映像化した巨大スケールのこのロボット映画は、「Robot」の題名でヒンディー語吹替版も公開され、北インドの観客を仰天させた。主演はタミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーント。「Muthu」(1995年/邦題:ムトゥ 踊るマハラジャ)で日本でもお馴染みである。この作品は2012年に日本でも「ロボット」の邦題と共に一般公開され、大きな話題となった。
その続編「2.0」がインド本国で2018年11月29日に公開された。今回つぎ込まれた予算は54億ルピー。再びインド映画史上最高額である。そして、稼ぎ出した興行収入は国内のみではトントンとなるが、国外を含めると65億ルピー以上とされている。インドでは10億ルピーの興行収入がヒットの基準である。これらの数字がいかにクレイジーなものか分かるだろう。もちろん、2018年のインド国内興行収入ナンバー1である。これらの成功を受け、日本でも「ロボット2.0」の邦題と共に2019年10月25日から一般公開されることが決定し、今回、マスコミ向け試写会で一足先に鑑賞することができた。ちなみに、日本で公開されるのはタミル語版である。
「2.0」の監督は前作に引き続きシャンカル。主演についても、当然のことながら、前作に引き続きラジニーカーントである。前作のヒロイン、サナーを演じたアイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンは今回は出演せず。ただ、サナーは声のみ何度か登場する。その声だけはアイシュワリヤー自身のものかと思っていたが、タミル語映画界が誇るヒロイン吹き替え女優サヴィター・レッディーが担当とのことである。そして、アイシュワリヤーの代わりにヒロインに抜擢されたのは英国人女優エイミー・ジャクソンである。シャンカル監督の前作「I」(2015年)でヒロインを務めており、監督のお気に入りのようだ。また、前作では実質的な悪役もラジニーカーント自身が務めたが、今回はヒンディー語映画界のスター俳優であるアクシャイ・クマールを起用している。他に、アーディル・フサインやスダーンシュ・パーンデーイなどが出演している。音楽監督は安定のARレヘマーンである。以下、あらすじは前半のみ書く。
物語は、前作から8年後から始まる。舞台はタミル・ナードゥ州の州都チェンナイ。人々の携帯電話が突然空に飛んで行ってしまう怪事件が起こり、困惑が広がっていた。バシー博士(ラジニーカーント)はロボット助手のニラー(エイミー・ジャクソン)と共にその原因を突き止める。それは、携帯電話の電波が鳥類に有害だと訴え続けて失意の内に自殺した鳥類学者パクシー・ラージャン(アクシャイ・クマール)の怨念であった。携帯電話が鳥の形となって人々を襲い始めた。対処には前作で博物館に封印されたロボット、チッティー(ラジニーカーント)の助けが必要であった。バシー博士はチッティーを復活させ、正のエネルギーを放出して携帯電話から成る怪鳥を封印する。ところが、バシー博士のライバル、ディーネーンドラ・ボーラー(スダーンシュ・パーンデーイ)がパクシーを解放してしまう・・・。ここまでが前半である。
結論から先に言えば、前作を越えるインパクトはなかった。前作では、ロボットが人間に恋をし、失恋した結果、暴走するというストーリーが面白かったし、ロボット同士が合体して巨大化し暴れ回るクライマックスには度肝を抜かれた。続編ということで、どうしてもそれ以上のものを求めてしまうが、果たしてその期待に応えるようなものがあったかどうか。
恋愛という面で言えば、今回はロボットとロボットの恋愛が仄めかされた。我々人類はシャンカル監督によって、ロボット同士の恋愛を見てときめくべきかどうかという新しい難題を突き付けられている。インド映画を含め、世界の映画では、不倫、近親相姦、年の差恋愛、同性愛、老齢の恋愛、異常性愛などなど、様々な形の恋愛とその可能性を見せられて来たが、遂にロボット同士の恋愛について考えなければならない時代を迎えている。そして、個人的な感想を言えば、ロボットとロボットがくっついても何も嬉しくない。もし、恋愛を人間同士のものと限定するならば、この映画に恋愛の要素は皆無と言ってよい。
ロボット同士の合体による巨大化に類似したフォーマットは今回も踏襲された。まずは無数の携帯電話が集まって巨大な鳥となる前半のシーン。そして後半にも同様のシーンが用意されている。だが、映像的に前作を越えるものではなかったし、それのさらに上を行く破天荒なアイデアが今回あったとは思えない。
もし1点、前作になかった仕掛けを挙げるならば、携帯電話という、現代人には必要不可欠となった身近な品物を悪役として取り上げたことだ。携帯電話の電波が人体や生物に悪影響を与えているのではないかという懸念は前々から取り沙汰されているが、世界中でここまで普及してしまっているため、誰も真剣に携帯電話の是非について議論する者はいない。それは、交通事故の死者が毎年多数出ているのにもかかわらず、自動車を禁止しようという動きが全くないのと同じである。この問題を、携帯電話の電波が鳥類の感覚を狂わせ死に至らしめていることに象徴させ、パクシーという鳥類学者の苦悩に置きかえることで、娯楽映画の中にメッセージ性を持たせることに成功していると同時に、携帯電話のユーザーである観客に罪悪感を抱かせ、映画の世界の中にグイグイと引き込んでいる。劇中では度々、ターゲットとなった人物が携帯電話の群れに囲まれるシーンが出てくるが、あれは結構な恐怖である。
だが、せっかく携帯電話の電波の有害性について取り上げたにもかかわらず、何を解決策として訴えたかったのか分からなかったのは、娯楽映画の限界であろう。パクシ-は生前、携帯電話に関していくつかの主張をしているが、最終的には電波塔から発せられる電波を規定内に収めることを求めて訴訟を起こしている。それが却下されたことでパクシーは自殺してしまうのだが、果たしてそれが根本的な解決策になるのだろうか。電波を弱くすれば鳥類に影響は出ないのだろうか。おそらくそういう問題ではなかったと思う。他には、携帯電話の無用な使用を禁止したり、携帯電話会社の数を減らしたりといった策にも触れられていたし、携帯電話会社にまつわる不正にも話が及んでいたが、それらも論点がずれているように思われる。結局、携帯電話を日常的に使っている我々が鳥類と共存するためにはどうしたらいいのかが示されておらず、これでは映画を見終わったら変わらず携帯電話を使いまくる観客しか出て来ないだろう。さらに言えば、このような曖昧な主張の下で怨念を抱かれ、携帯電話を使っているだけで酷い目に遭う映画中の一般人たちはたまったものではない。
もっとも、携帯電話というモチーフは前作にもあった。それは、充電が必要ということである。チッティーの弱点はバッテリーであり、一定時間が過ぎると充電しなければならない。前作でも今作でも、バッテリー切れの危機が何度か訪れる。充電という行為がここまで身近な問題になったのは、スマートフォンが登場して以来だ。バッテリーが切れそうになって必死に電源を探すチッティーの姿は、現代人の姿そのものである。
娯楽を至上課題とした作品であるため、本当はプロットの細かい部分にいちいち突っ込みを入れるのは野暮であろう。だが、その中でも感情の高ぶりはあった。はっきり言って、「2.0」の中でもっとも目頭が熱くなったのは、パクシーの生い立ちが語られる回想シーンであった。鳥に命を救われたパクシーが鳥のために生きようと決意する下りは、短いシーンではあったが、泣けて来た。このシーンが鮮烈であったため、どうしても悪役を完全な悪役だと思えない。鳥好きなパクシーの弱みにつけ込む最後のシーンは素直には喜べなかった。
ラジニーカーントは今回も一人で何役も演じ、八面六臂の活躍をしていた。もう70歳近い年齢なのに、それを全く感じさせないばかりか、見事なヒーロー振りであった。それに加えて繊細な演技を見せる場面もあり、底力を感じた。一方のアクシャイ・クマールも同様に緩急のある難しい役柄だったが、どちらも楽しんで演じていた。エイミー・ジャクソンについては、無表情なロボットに徹するか、それともプログラムされた表情を付けるか、実はもっとも難しい役柄だったのではないかと思う。それを完全に上手に演じ切っていたとは言えないが、作品に貢献はできていた。
「2.0」は、タミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーントの最新作、かつ、日本でも話題となった「ロボット」の続編である。前作とストーリーがつながっているので、前作を観てから今作を観るべきだ。それを前提として言うならば、残念ながら前作ほどのインパクトには欠ける。それほど前作は強烈だった。あれを越すのは、いかにシャンカル監督でも難しい。それでも、インド映画史上最大の予算を投じて作られた超大作ならではの迫力があり、スクリーンに釘付けとなる147分になることは必至だ。