
2023年8月31日にヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映された「Stolen」は、乳飲み子の誘拐を軸にして、事件に巻き込まれた兄弟の受難を描く、実話にもとづいたスリラー映画である。日本では2024年7月14日にSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で上映されたことがあり、そのときの邦題は「連れ去り児」だった。
監督はカラン・テージパール。「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)などで助監督を務めた人物で、短編映画の監督経験はあるが、長編映画の監督はこれが初である。注目すべきはプロデューサー陣だ。「Gangs of Wasseypur」シリーズ(2012年/Part 1・Part 2)などで有名なアヌラーグ・カシヤプ、「Laapataa Ladies」(2023年/邦題:花嫁はどこへ?)のキラン・ラーオ、「Udaan」(2010年)などのヴィクラマーディティヤ・モートワーニー、「Kal Ho Naa Ho」(2023年)などのニキル・アードヴァーニーと、ヒンディー語映画界を代表するメンバーが名を連ねている。
主演は「Stree」(2018年)などのコミックロールで定評のあるアビシェーク・バナルジー。他に、ミア・マエルザー、シュバム・ヴァルダン、シュリシュティなどが出演している。
深夜、ラージャスターン州のとある田舎駅にラマン・バンサル(シュバム・ヴァルダン)は降り立ち、兄ガウタム(アビシェーク・バナルジー)の迎えを待っていた。そのとき、駅で乳飲み子の誘拐事件があり、ラマンは犯人が走り去っていくのを目撃する。母親ジュンパー(ミラ・マエルザー)は当初ラマンを犯人扱いするが、鉄道警察は駅構内の茶屋で働く少年が共謀者だと断定する。少年は犯人の名前や隠れ家を明かす。
ガウタムとラマンはこれから結婚式に参列する予定だった。だが、ラマンが目撃者になってしまったため、警察の捜査に付き合わされることになる。彼らは警察とともに森林の中にある廃墟を訪れる。そこに犯人スリーリー(シュリシュティ)を発見するが、ガウタムは彼女を捕まえようとして井戸に落として殺してしまう。また、ジュンパーの娘チャンパーは見つからなかった。それでもジュンパーは廃墟から手掛かりを見つけていた。スリーリーの共謀者が近くにあるリハビリセンターにいる可能性があった。
ガウタムはスリーリーを殺してしまったことでさらに面倒事に巻き込まれていたが、警察に賄賂を渡すことで解放された。ラマンはジュンパーを放っておけず、彼女と共にリハビリセンターへ行くことを決める。当初は反対していたガウタムもついに折れる。だが、この誘拐事件はSNSで周囲に広まっており、ガウタムとラマンは誘拐犯扱いされていた。彼らは村人たちに追われることになる。逃亡の途中でラマンは重傷を負う。
彼らはリハビリセンターのある村に到着する。ガウタムはラマンを安全な場所に隠し、助けを呼びに行くが、村人たちに捕まりリンチを受ける。ジュンパーは単身リハビリセンターに乗り込み、スリーリーの共謀者アッチェーラールを探す。アッチェーラールは救急車の運転手をしていた。ガウタムとラマンは救急車で病院に搬送されるが、ガウタムは運転手を怪しみ、彼を尾行する。そして彼が赤子を売り渡そうとしているのを発見する。駆けつけたジュンパーはチャンパーを見つける。
この映画のストーリーには赤子を巡る2つの問題が絡んでいる。ひとつは代理母の問題だ。インドでは2002年から代理母が合法化されたが、海外からの需要を取り込む形で代理母ビジネスが巨大産業化しすぎたために規制が始まり、2015年以降は段階的に規制強化され、現在では限られたインド人夫婦しか代理母を利用できないようになっている。
映画のかなり早い段階から、ジュンパーとチャンパーの関係に疑問が呈される。もしかしたらチャンパーはジュンパーの実子ではないのではないか。彼女はチャンパーを盗まれたと言うが、彼女も誰かからチャンパーを盗んだのではないか。だが、後にジュンパーはチャンパーを実際に生んだことが明かされる。ただし、彼女は裕福な女性の代理母になり、子宮を売ることでチャンパーを生んでいた。そうなると、代理母が、生んだ子供に情が移り、盗んでしまったケースかと思い付く。だが、それも正解ではなかった。ジュンパーは代理母として双子を生んでいた。彼女は片方を依頼人に渡し、もう片方を自分で引き取ったのだ。ただ、これは違法な代理母出産であり、発覚したら、依頼人もジュンパーも逮捕される可能性があった。
もうひとつの問題は人身売買である。チャンパーを誘拐した女性は人身売買組織の一員であり、その組織のネットワークは病院にまで広がっていた。チャンパーを誘拐したスリーリーは、彼女をアッチェーラールに引き渡した。そしてアッチェーラールはその子供を別の女性に売り払おうとしていた。おそらく、買取人は子供ができない夫婦なのだろう。
まだ生後5ヶ月のチャンパーは、違法な代理母出産と人身売買に翻弄された。そして、それとは全く関係ないにもかかわらず、主人公の兄弟も、警察の捜査に付き合わされたり、殺人事件に巻き込まれたり、はたまた暴徒と化した村人たちに追いかけられたりと、受難の時間を過ごす。そもそもラマンがジュンパーに同情して首を突っ込んだのが事の始まりで、当初はガウタムがもっとも後ろ向きだった。しかし、事件に深く巻き込まれていくうちにガウタムも当事者になってしまい、最終的には彼がチャンパー発見に貢献する。ガウタムとラマンにとってはとんだ災厄だったが、彼らのおかげで人身売買ネットワークが白日の下にさらされた。お手柄だった。
気になるのはガウタムとラマンが参列しようとしていた結婚式だ。詳しく説明はされていなかったが、彼らの母親の結婚式だという。父親の存在には全く触れられておらず、どうなったのかは分からない。普通に考えたら離婚か死別であろう。そして、母親は再婚しようとしているということであろう。もっとも、「Stolen」は実話にもとづいた物語であり、この母親の再婚という設定も事実なのかもしれない。そうだとしたら、この部分を深読みする必要はないだろう。
元々リアリズム映画に分類される作品だが、リアルさをさらに高めていたのは長回しの多用である。意図的にひとつのカットを長めに取っており、緊迫感やリアルタイム感が演出されている。特に暴徒と化した村人たちから執拗に追いかけられたり、ガウタムが捕まってリンチされたりするシーンは真に迫っていた。
コメディー映画への出演が多く、そういうときには決まって天然ボケの役を演じて爆笑を生み出してきたアビシェーク・バナルジーは、今回ガラリと雰囲気を変え、ほとんどジョークのかけらも口にしないシリアスなガウタム役を体当たりで演じた。元々キャスティング・ディレクターとしてキャリアを積んだ彼は、時々端役で自ら出演をする中で、「Stree」にてブレイクした。非常に引き出しの多い俳優だと感じる。今後もさまざまな演技や役柄を見せてくれるだろう。
ジュンパー役を演じたミア・マエルザーは、名前がインド人っぽくないが、正真正銘のインド人女優のようである。過去に「Shaadi Ke Side/Effects」(2014年)や「Beyond the Clouds」(2018年)などに出演経験があるようだが、全くノーマークだった。ラマン役を演じたシュバム・ヴァルダンは、「Unpaused」(2020年)や「LSD 2」(2024年)などの脚本家で、俳優は本業ではなさそうだ。しかし、演技面でアビシェーク・バナルジーに一歩も引けを取っていなかった。
「Stolen」は、深夜の田舎駅で発生した乳飲み子誘拐事件から発展し、代理母問題や人身売買問題にまで話題が及ぶ、リアル志向のスリラー映画である。長回しを多用した映像は臨場感があるし、コメディアン俳優のイメージが強いアビシェーク・バナルジーがイメージチェンジに挑戦している点も注目される。個人的には深夜の鉄道駅や田舎の雰囲気がよく捉えられていたことに感心した。観て損はない映画である。