2013年のインディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン(IFFJ)で評判が良かった映画に「Ramaiya Vastavaiya」がある。2013年7月19日に公開されたヒンディー語映画だが、題名が「ラーマよ、来いよ」という意味のテルグ語であるため、てっきりテルグ語映画だと思っていた。IFFJでは観ることができず、最近になってようやくDVDが手に入ったので鑑賞することができた。
「Ramaiya Vastavaiya」の監督は、インド随一の振付師プラブデーヴァーである。プラブデーヴァーはタミル語映画を中心に主に南インド映画で活躍して来た人物で、2005年からは監督業にも進出した。ヒンディー語映画としては初めて監督したアクション映画「Wanted」(2009年)が大ヒットしたことでヒンディー語映画にも頻繁に顔を出すようになり、最近は年に1~2本のハイペースで映画を作っている。2013年にはこの「Ramaiya Vastavaiya」の他に「R… Rajkumar」が公開されている。プラブデーヴァー映画の特徴は徹底的な娯楽路線で、アクション、ロマンス、コメディーが合わさった典型的なマサーラー映画を作り続けている。彼の作るヒンディー語映画については、全て南インドのヒット映画のリメイクである。「Ramaiya Vastavaiya」も、プラブデーヴァー自身が監督したテルグ語映画「Nuvvostanante Nenoddantana」(2005年)のリメイクだ。
プロデューサーはクマール・S・タウラーニー。ティップス・インダストリーズの社長である。作曲はサチン・ジガル、作詞はプリヤー・パンチャール。プラブデーヴァー自身も少しは振り付けをしているだろうが、クレジットにはヴィシュヌデーヴァの名前が載っている。彼は同じく振付師のガネーシュ・アーチャーリヤの義理の兄弟に当たり、劇中にはガネーシュも友情出演して踊っている。
主演はタウラーニーの息子ギリーシュ・クマールで、これがデビュー作となる。つまり、言ってしまえば「Ramaiya Vastavaiya」はプロデューサーが自分の息子をローンチするために作った映画となる。ヒロインはシュルティ・ハーサン。他にソーヌー・スード、ランディール・カプール、プーナム・ディッローン、ヴィノード・カンナー、パレーシュ・ガナトラー、サティーシュ・シャー、ナーサル、ゴーヴィンド・ナームデーオ、サルファラーズ・カーン、ザーキル・フサイン、パンクリー・アワスティー、アーンチャル・スィンなど。さらに、プラブデーヴァー、ジャクリーン・フェルナンデス、ガネーシュ・アーチャーリヤがダンスのみに出演している。地味に豪華なキャストである。
ラグヴィール(ソーヌー・スード)は7年の刑期を終えて刑務所から出所しようとしていた。この7年間、彼は誰にも何もしゃべらなかった。看守はラグヴィールに、どうして刑務所に入ることになったのかを聞く。ラグヴィールはゆっくりと身の上話を語り出す。
ラグヴィールが11歳の頃、父親が別の女性と結婚をし、彼は母親や生まれたばかりの妹と共に家を追い出された。母親はショック死してしまい、ラグヴィールはたまたまその場に居合わせた駅長(ヴィノード・カンナー)に助けられ、何とか母親の記念碑を母親が持っていた土地に建てる。ところがその土地は借金の担保になっていた。地主(ゴーヴィンド・ナームデーオ)は土地を取り上げようとするが、ラグヴィールは農業をして借金を返すと約束する。こうして11歳のラグヴィールは単身畑を耕しながら幼い妹を育て上げた。
月日は流れ、ラグヴィールは大きな家に住み、2人の使用人を雇えるまでの豪農となっていた。妹のソーナー(シュルティ・ハーサン)も美しい女性に育っていた。
ある日、ソーナーの親友リヤー(アーンチャル・スィン)が結婚することになった。ソーナーはリヤーの家に行って準備を手伝うことになる。ソーナーが兄の元を離れるのは初めてのことだった。また、リヤーの父親クリシュナカーント(サティーシュ・シャー)は、オーストラリアに住む妹アシュヴィニー(プーナム・ディッローン)をインドに呼ぶ。アシュヴィニーは夫のスィッダールト(ランディール・カプール)をオーストラリアに残し、息子のラーム(ギリーシュ・クマール)と共にインドを訪れる。
スィッダールトはオーストラリア有数の建築業者であり、ラームは何不自由なく育ったボンボンだった。彼はいい年をして今までまともに働いたことがなかった程だった。ラームはリヤーの家に着くなりソーナーに一目惚れし、事あるごとにチョッカイを出す。当初ソーナーはラームを避けるが、数日一緒に過ごす内に二人は相思相愛の仲となる。特に、ソーナーが大事にしていた馬の玩具が壊れてしまったとき、ラームがそれを修復した上にきれいに装飾し彼女に渡したことがソーナーの心を勝ち取ることになった。
ところが、ラームとソーナーの接近を面白く思わない者がいた。密かにラームとの結婚を計画していたドリー(パンクリー・アワスティー)である。ドリーの父親ジャイプラカーシュ(ナーサル)はクリシュナカーントのビジネスパートナーであった。ソーナーの馬の玩具を壊したのもドリーだった。ドリーは、ソーナーがラームをかどわかしていると密告する。アシュヴィニーはソーナーを公衆の面前で叱りつける。そこへラグヴィールがやって来るが、アシュヴィニーは彼をも侮辱する。ラグヴィールは怒りを抑え無言のままソーナーを連れて立ち去る。これらの出来事はラームが留守にしている間に起こった。ソーナーには、馬の玩具を持って行く暇もなかった。
リヤーの結婚式が終わり、ラームはオーストラリアに帰ることになった。ところが中継地のシンガポールでアシュヴィニーから離れてインドにとって返す。そしてソーナーのところへ馬の玩具を届けに行く。当然ラグヴィールはラームを追い返そうとするが、ラームは村から出て行こうとしなかった。そこでラグヴィールはラームに、ソーナーへの愛を証明するチャンスを与える。彼に1エーカーの土地を貸し、農業をさせ、ラグヴィールよりも多くの収穫を得ることができたらソーナーとの結婚を認めるというものだった。ラームはその挑戦に受けて立つ。
最初は慣れない農業に四苦八苦するラームであったが、次第に要領を掴んで行く。地主の息子(サルファラーズ・カーン)は密かにソーナーに恋しており、ラームの失敗を願っていたが、ラームが畑仕事を上手にこなすようになると危機感を覚え、妨害しようとする。同時に、ジャイプラカーシュも娘とラームの結婚を実現させるために、地元のゴロツキ、ラーオ(ザーキル・フサイン)を雇ってラームの畑を台無しにしようとする。ところがそれが失敗してラグヴィールの牛舎が火事になってしまう。このときラームが命がけでソーナーが大事にしていた馬の玩具を守ったことで、ラグヴィールはラームに対する評価をガラリと変える。
収穫の日がやって来た。ラーオはラームの収穫量を減らそうと小細工を凝らすが、このときまでにラームの勝利を願っていたラグヴィールがラームの収穫量を増やしたために、ラームが勝利する。そこで地主は力技に出てソーナーを誘拐し、息子と無理矢理結婚させようとするが、ラグヴィールとラームの活躍により、ソーナーは救出される。このときラームは地主の息子を殺してしまうが、ラグヴィールが代わりに罪をかぶり、刑務所に入ることになった。
ラグヴィールは刑期を終えて刑務所を出る。外ではラームとソーナーが待っていた。二人はラグヴィールの出所まで結婚をしなかった。このときまでにラームの両親も二人の結婚を認めており、刑務所まで来ていた。こうしてラームとソーナーの結婚式が盛大に執り行われた。
ヒンディー語映画界では娯楽映画の中で二極化が進んでいる。より写実的で都市部マルチプレックスに来る中上流階級のインテリ層を主なターゲットにした映画と、より演劇的で地方マルチプレックスやシングルスクリーン映画館に来る単純な娯楽を求める観客層を主なターゲットにした映画だ。どちらもヒンディー語映画の持続的発展にとって重要なストリームであり、それぞれに役割があって、どちらかを頭から否定するのは誤りである。「Ramaiya Vastavaiya」は完全に後者のストリームに含まれる映画であり、プラブデーヴァー監督らしい徹底娯楽路線の作品だった。
登場人物の感情の動きを、まるで心にGoProが固定されているかのようにつぶさに追って行く。それ以外のものは風景でしかない。よって、細かい設定や考証などは二の次だ。心が主人公であるため、突然舞台が飛んだり、歌と踊りが入ったりしても違和感がない。なぜなら世界で一番早いものは心なのだ。東海道新幹線も、音速をイメージしたこだま号、光速をイメージしたひかり号の次に来るのは、心をイメージしたのぞみ号である。心は望めばどこへでも行ける。「Ramaiya Vastavaiya」は、リアリスティックな描写には欠けたものの、兄と妹の絆、男女の恋心、嫉妬、憎悪などをリアルに追って行った佳作だと評価できる。
新人のギリーシュ・クマールは、サルマーン・カーンやランビール・カプールが得意としてきたおちゃらけた若者役を、先人たちの1.5倍くらいのオーバーさで演じていた。好みの分かれる顔だが、最後まで見通す内に好感が持てるようになってきた。デビュー作としては上出来の活躍振りだったのではなかろうか。
ただ、やはり映画を芯から支えていたのはヒロインのシュルティ・ハーサンだ。美貌と演技力のバランスにおいて、若手の女優の中ではトップクラスのシュルティは、要求される演技に幅のあるこの映画の中のそれぞれのシーンで的確な演技を見せており、唸らされた。特に序盤、ギリーシュ演じるラームの嫌がらせに困り果てて奇行に出ている辺りの彼女の表情は、今まであまり見たことのないもので、おそらく彼女の素の姿なのだろうと思った。さらに、ソーヌー・スードの「兄貴」な存在感が、シュルティの魅力を高めていた。
往年の名優とされる珠玉の俳優たちが、彼らのステータスとは釣り合わないような端役でリラックスした演技をしていたのも印象的だった。ヴィノード・カンナー、ランディール・カプール、ナーサルなどだ。プーナム・ディッローンは一人シリアスな演技をしていたが、最後にはやっと肩の力を抜いた笑顔を見せていた。
サチン・ジガルによる楽曲は、傑作こそないが、効果的に使われていた。特にアーティフ・アスラムの歌う「Jeene Laga Hoon」のイントロがロマンスシーンになるごとに流れており、頭にこびりついてしまう。おそらく映画館では中盤前後から真似して歌う輩が続出したのではないかと予想される。唯一、プラブデーヴァーとジャクリーン・フェルナンデスがカメオ出演する「Jadoo Ki Jhappi」だけが余分に感じたが、プラブデーヴァー映画のお約束であるため、それは言うだけ野暮であろう。全体的な踊りの質は、他のプラブデーヴァー映画に比べて高くはなかった。
「Ramaiya Vastavaiya」は古風なマサーラー映画だ。だが、完成されている。通常、単なる南インド映画のリメイクには厳しめの評価をしているのだが、この映画は南インドらしさ――例えば大家族制や脈絡のないダンスシーンなど――が極力抑えられており、兄と妹の強い絆に焦点を絞って主人公の感情の動きを丁寧に追いながら物語が展開されていたため、すんなりと楽しむことができた。コメディーシーンも思わず笑ってしまうものばかりだった。IFFJで好評だったのも頷ける。決して新しい挑戦をしている訳ではないが、こういう映画がまだ作られていることにふと安堵感を覚える、そんな映画であった。