ブンデールカンド地方と言えば、ウッタル・プラデーシュ州南西部からマディヤ・プラデーシュ州北部にまたがる地域であり、オールチャーやカジュラーホーなどの観光地があることで有名だが、盗賊が跋扈する地域としてもよく知られている。女盗賊として有名なプーラン・デーヴィーや、陸上競技選手から盗賊になったパーン・スィン・トーマルなど、この地域が輩出した有名盗賊は多い。映画の題材にもなっており、それぞれ「Bandit Queen」(1994年)と「Paan Singh Tomar」(2012年)が作られている。
この地域には、「グラービー・ギャング」と呼ばれる女性のギャング・グループも存在する。2006年にサンパト・パールを中心に立ち上げられた集団である。「ギャング」とは言っても、不法行為を行うグループではない。家庭内暴力や持参金殺人など、農村部に住む立場の弱い女性たちが直面する不正を解決する集団である。構成員はそれらの被害者がほとんどで、彼女たちが一様にピンクのサーリーを着用し、ピンクの棒を持っていることから、「グラービー・ギャング(ピンク色のギャング)」と呼ばれている。現在、このギャングには2万5千人以上の女性が参加していると言う。面白いことにグラービー・ギャングにはウェブサイトもある。
男尊女卑の社会において、女性を中心としたグループが社会的不正に立ち向かう姿がフィルムメーカーの注目を集めないはずがない。まず2010年に英国人女性ドキュメンタリー映画監督キム・ロンジノットが「Pink Sari」というドキュメンタリー映画を作っており、その後インド人女性監督のニシュター・ジャインも「Gulabi Gang」というドキュメンタリー映画を撮っている。「Gulabi Gang」がインドで一般公開されたのが2014年2月21日だった。その2週間後の2014年3月7日に、「Gulaab Gang」という非常によく似た名前の映画が公開された。こちらはヒンディー語娯楽映画であり、マードゥリー・ディークシトとジューヒー・チャーウラーが出演している。明らかにグラービー・ギャングを題材にした映画だが、サンパト・パールの許可を得ずに作ったことで彼女の怒りを買い、公開差し止めの訴えを起こされた。結局、「この映画は実在の人物・団体とは関係ありません・・・」という例のディスクレイマーを冒頭に掲げることで予定通り3月7日に公開に漕ぎ着けたが、興行的にはフロップに終わっている。今回はこの「Gulaab Gang」の方の作品評である。
「Gulaab Gang」の監督は新人のソウミク・セーンで、作詞作曲も手掛けている。プロデューサーは「Ra.One」(2011年)のアヌバヴ・スィナー。作詞はセーン監督の他にネーハー・サラーフとシュレーヤー・ナーラーヤンが書いている。キャストは、マードゥリー・ディークシト、ジューヒー・チャーウラー、タニシュター・チャタルジー、ディヴィヤー・ジャグダレー、プリヤンカー・ボースなど。
マディヤ・プラデーシュ州マーダヴプル村にはラッジョー(マードゥリー・ディークシト)という女性が立ち上げたアーシュラム(修道場)があり、農村の少女たちに読み書きを教えたり、女性たちに武術を教えたりしていた。女性たちはサーリーを織ったり、スパイスを作ったりしてそれを売り、生活費を稼いでいた。また、村に何か問題があるとラッジョーはピンクのサーリーを着用した女性たちの武装集団を引き連れて威圧を加え、解決していた。そのため、村の女性だけでなく男性からも慕われていた。ラッジョーの夢は村にちゃんとした学校を建てることであった。 選挙が近付いていた。ラッジョーは学校設立の夢を叶えるため、地元政治家パヴァンと組み、彼の所属するサルヴォーッチュ・ローク・ダル(至上民衆党)の立候補者スミトラー・バグレーチャー(ジューヒー・チャーウラー)の選挙運動を支援することにする。ちなみに、スミトラーの妹は間もなくパヴァンの息子と結婚することになっていた。 ところがパヴァンの息子が村の少女を強姦するという事件が起きる。パヴァンは事件を揉み消そうとする。ラッジョーはスミトラーに直訴するが、彼女も金で解決しようとする。そこでラッジョーはパヴァンの息子を捕らえさせ、両足などを切断する。スミトラーは村人たちの間でラッジョーが絶大な人気を誇っていることを知り、彼女を自党に引き入れようとするが、逆にラッジョーはスミトラーの対立候補として出馬する。 選挙に参加したことでラッジョーは平穏な生活を維持できなくなる。まずは腹心のサンディヤー(プリヤンカー・ボース)がスミトラーの手下に殺される。実行犯への復讐が実行されたのだが、今度はもう1人の腹心マーヒー(ヴィディヤー・ジャグダレー)も恋人の裏切りによって殺されてしまう。ラッジョーは、唯一大学まで学歴のある構成員カジュリー(タニシュター・チャタルジー)の助けを借りて都市の大学生に支持を訴えるものの、選挙の結果、票の不正操作もあり、スミトラーに敗北する。 しかしながら、ラッジョーの活動が広く知られるようになり、彼女の夢である学校設立を支援したいという人が現れる。そこでラッジョーは学校を建設するための許可をスミトラーに求める。スミトラーは許可を出す代わりに学校に自分の名前を冠させる。 パヴァンはラッジョーへの復讐の機会をうかがっていた。ホーリーの日、スミトラーはラッジョーのアーシュラムを訪ねるが、そのときパヴァンはマシンガンを持ち込み、皆殺しにしようとする。ラッジョーと仲間たちはそれに素早く反応し、スミトラーの護衛たちと戦う。最後にラッジョーはスミトラーの右手を切り落とす。スミトラーは裁判で有罪となる。また、ラッジョーも逮捕されるが、彼女は刑務所で学のない女性たちに文字を教える。
農村を舞台とした政治闘争だが、女性と女性が激突するところが非常に新鮮だった。普通、政治劇は男臭い映画になりがちだが、それを女の戦いに転換したところが「Gulaab Gang」の売りだと言えよう。また、マードゥリー・ディークシトとジューヒー・チャーウラーという1980年代~90年代にかけて活躍した2大女優を初めて共演させた点でも興味深い。劇中で、ジューヒー演じるスミトラーがマードゥリー演じるラッジョーとの初対面のシーンで、「同じ土地に住みながら今日まで会えなかったのは不思議ね」と語るが、これはマードゥリーとジューヒーの初共演を暗に示している。
映画のメッセージは明確で、教育の大切さだ。インドで女性が搾取されているのは、女性に教育がないことが大きな原因となっている。ラッジョーの元には、夫や夫の家族から虐待を受けた女性たちが集まって来ていたが、それを根本的に解決しようと思ったら、被害に遭った女性一人一人に手を差し伸べるだけでなく、女性の教育問題を解決して行かなければならない。現在でもアーシュラムという形で女性への初等教育や職業訓練は行われていたが、彼女の夢は、このアーシュラムを、近代的な校舎のある、ちゃんとした学校に昇格させることにあった。その闘争の中で、彼女は選挙に出馬するのだった。ラッジョーが大学生に、「朝食と昼食の間の空腹と、農村の子供たちが直面する飢えとは異なる」と訴えるシーンは出色の出来だ。
ただ、映画の大部分は、宿敵スミトラーとの血生臭い対決に費やされていた。マードゥリーが今までに見られなかったようなアクションを見せているシーンもあり、それはそれで見所なのだが、女性の教育問題に焦点を当てるためには、不必要な要素であった。ジューヒーの悪役振りを強調したかったのだろうが、彼女の甘ったるい声は悪役に似合わず、ミスキャスティングに感じた。そもそも、女性の問題を解決しようとするラッジョーの前に女性の宿敵を立ちはだからせる必要がどれだけあっただろうか。順当に男性の悪役を置く方が、メッセージが明確になったことだろう。
どちらかというと社会システムの外側にいて社会の不正に対して時に非合法的手段を用いて立ち向かっていた個人または団体が、選挙に出馬し、システムの中からシステムを変えようとするところは、アンナー・ハザーレーによる汚職撲滅運動から庶民党(AAP)が派生したことを想起させる。ヒンディー語映画界では、腐敗したシステムを変革する際、システムの外側から変えるべきか、システムの内側から変えるべきかという議論が長らく続いて来たが、「Gulaab Gang」は後者の立場に立つ。現実世界でもサンパト・パールは国民会議派の公認を得て政治家に転身しようとしたが、これは「Gulaab Gang」公開前後の出来事であり、奇しくも映画が現実を予言した形になっている。
「Gulaab Gang」は、マードゥリー・ディークシトとジューヒー・チャーウラーの共演が売りの映画だ。しかも驚くべきことに彼女たちが一線で活躍していた時代に二人が共演したことはなかった。この二人のファンは多く、彼女たちの初共演は多数の観客の関心を引いたことだろう。また、グラービー・ギャングという実在の異色集団を題材にしており、その創始者であるサンパト・パールが映画の上映に待ったをかけた点でも話題性があった。それでもフロップに終わってしまったようだ。新人監督には荷が重すぎるテーマだったかもしれない。しかしながら、2014年の女性中心映画の一角を成す映画であることに変わりなく、歴史的意義は少なくない。