2014年10月22日公開の「Kaththi(ナイフ)」は、瓜二つの社会活動家と泥棒が入れ替わり、巨悪に立ち向かうという内容の娯楽映画である。水問題が取り上げられている点でも注目だ。日本では2024年11月1日に「カッティ 刃物と水道管」という邦題と共に劇場一般公開された。
監督は「Ghajini」(2008年)のARムルガダース。音楽はアニルッド。主演としてダブルロールを演じるのはタミル語映画界の「大将」ヴィジャイ。ヒロインは「Makkhi」(2012年/邦題:マッキー)のサマンサ・ルース・プラブ。悪役として、ヒンディー語映画俳優で「Prem Ratan Dhan Payo」(2015年/邦題:プレーム兄貴、王になる)のニール・ニティン・ムケーシュが起用されている。
他に、トーター・ロイ・チャウダリー、サティーシュ、スディープ・ムカルジーなどが出演している。
泥棒で脱獄のプロのカディル(ヴィジャイ)は、コルカタ中央刑務所から脱獄し、チェンナイへ逃げる。カディルは旧友で泥棒のラヴィ(サティーシュ)と合流し、彼の助けを借りてバンコクへ高飛びしようとするが、空港でアンキター(サマンサ・ルース・プラブ)と出会って恋に落ち、チェンナイに留まることを決める。カディルは自分と瓜二つの男が何者かに襲撃されるのを目撃する。カディルとラヴィは彼を病院に連れて行く。カディルは悪知恵を働かせ、その男と持ち物をすり替えてしまった。チェンナイまでカディルを追って来たコルカタ警察は、その男をカディルと勘違いし、連行して行った。
翌日、カディルはコレクター(徴税官)から250万ルピーの小切手を渡され、老人ホームへ連れて行かれる。どうやら彼は、その老人ホームを経営していたジーヴァーナンダム(ヴィジャイ)と間違えられているようだった。昨晩出会った瓜二つの男がジーヴァーナンダムであった。老人ホームに入居していた老人の孫娘がアンキターであることも分かり、カディルはしばらくそこにとどまることにする。やがて、アンキターもカディルに好意を抱き、彼に告白する。カディルのところには刺客が送られてくるようになるが、彼は強く、難なく撃退する。
カディルは大手飲料メーカーの社長チラーグ(ニール・ニティン・ムケーシュ)に呼ばれる。チラーグは彼に2億5千万ルピーを提示する。その見返りとして、タンヌートゥ村出身の老人10人の署名を集めることを指示された。金に目がくらんだカディルは二つ返事で引き受ける。
だが、カディルはジーヴァーナンダムがどういう人物なのかを知る。ジーヴァーナンダムの故郷タンヌートゥ村の土地は、チラーグの企業が工場建設のために買収しようとしていた。タンヌートゥ村は長年干魃に苦しんでいた。水文学を修めていたジーヴァーナンダムは、村の地下には豊富な水資源が眠っているはずだと考え、調査を始める。だが、地下水が見つかった土地の所有者をチラーグの手下が殺し、その土地を力尽くで奪ってしまった。タンヌートゥ村の村人たちは訴訟を起こし、土地の返還を求めた。裁判の費用を捻出するため、村の男性たちは出稼ぎに出て、女性たちは残って村を守った。判決が出ない内は男性たちは村には戻らないと決めたため、ジーヴァーナンダムは老人たちをチェンナイの老人ホームで養っていたのだった。チラーグは、訴訟の取り下げを求めてジーヴァーナンダムに圧力を掛けていた。
全てを知ったカディルは村人たちに同情し、チラーグからもらった金を返して、ジーヴァーナンダムとして屈せず戦うことを決意する。だが、世間の人々は小さな村の出来事など全く関心を寄せていなかった。以前、タンヌートゥ村の村人6人が集団自殺をし、メディアの注意を引こうと努力したことがあった。カディルは、自殺をして世間の耳目を集めるのは無意味だと諭し、別の作戦を考える。彼は、貯水池からチェンナイに供給される水の流れを老人たちの助けを借りて止めてしまう。急に水がなくなったチェンナイの住民は、憤りながらもカディルたちの主張に耳を傾けるようになる。
チラーグはカディルの計画を阻止しようとする。だが、このときまでにコルカタ中央刑務所に収監されていた本物のジーヴァーナンダムが脱走しており、チェンナイに戻って来ていた。チラーグはジーヴァーナンダムを捕らえほくそ笑む。だが、カディルは公衆の面前に姿を現し、記者会見をする。こうしてチラーグは初めてカディルが別人であることに気付く。
一方、老人たちにもカディルの正体がばれてしまった。カディルは、チラーグのオフィスに乗り込んで彼を殺し、捕らえられたジーヴァーナンダムを救い出す。裁判でもタンヌートゥ村の主張が認められ、工場用地として買収された土地が返還されることになった。ジーヴァーナンダムが英雄として祭り上げられている中、カディルはそっとその場を去り、コルカタ警察に自首する。だが、アンキターは彼が出所するのを待ち続けることを誓う。
2010年代、インドではにわかに水問題に注目が集まった。河川の水質汚染は以前から深刻であったが、それに加えて急速な都市化によって地下水の水位減少が報告され、いずれ飲み水が枯渇するのではないかと取り沙汰されるようになったのである。その影響で、水に関する映画もいくつか作られた。「Jal」(2014年)や「Kaun Kitney Paani Mein」(2015年)などが代表例である。また、「Bandit Queen」(1994年/邦題:女盗賊プーラン)のシェーカル・カプールも長らく水不足問題について映画を作ろうとしているとされているが、実現していない。
2014年に公開されたこの「Kaththi」もそのトレンドの中で語ることができそうだ。主人公カディルが刑務所を脱走した後に巻き込まれることになるのは、タミル・ナードゥ州の農村で地下水を巡って起こっている、企業と農民の間の裁判闘争であった。企業は、地下水を飲料の原料に利用しようとするが、農民にとってその水は農業に必要だった。飲料工場ができると、大量の地下水を吸い上げてしまい、周辺の土地の農業は壊滅する。舞台となっていたタンヌートゥ村の村人たちは、水文学を修めたジーヴァーナンダムのリーダーシップの下、農業の存続を掛けて、巨大企業に立ち向かっていた。
また、水や農業の問題にについてメディアの関心が低いことも批判的に取り上げられていた。タンヌートゥ村の人々は、闘争を有利に進める上で、メディアの協力を欲していた。だが、彼らに対するメディアの態度は冷たかった。単に抗議活動をしているだけではニュースにもしてくれなかった。そこで、世間の注目を集めるため、6人の村人たちがカメラの前で集団自殺をする。
他にもいくつか時事ネタに触れられていた。たとえば、大手ビール会社を経営し、キングフィッシャー航空も創業したヴィジャイ・マッリヤー社長が暗に引き合いに出されていた。「キング・オブ・グッドタイム」を自称する派手好きな実業家だったマッリヤーは、経営判断を誤ってキングフィッシャー航空を破綻させ、負債を抱えたまま海外に逃亡した。このことから、金持ちは多額の借金をしても返さなくていいが、貧乏人は少額の借金を返せないだけでも自殺に追いやられる不公平さが訴えられていた。
セリフの中で「共産主義」という言葉も出て来たように、この映画からはかなり左寄りのイデオロギーが感じ取られた。とかく都会と農村、富裕者と貧困者、資本家と労働者を分けて対立構造にはめ込もうとしている。この設定は単純すぎるように感じた。
また、映画の作りも前時代的であった。一流のダンサーであるヴィジャイを主演に据えており、ダンスシーンに力を入れたいのは分かるのだが、ダンスシーンへの移行はかなり手荒い。カディルとアンキターの恋愛も全く取って付けたようであったし、チェンナイへの水の供給を止めるなど、かなり強引で非現実的な展開が目立った。アクションシーンの見せ場は、チラーグによって送られた50人の刺客をカディルがほぼ一人で片づける場面であろう。ラヴィの協力で電気を消し、一瞬だけ電気が付いた合間に次々に敵を倒していくのだが、敵は携帯電話で暗闇を照らすことくらい思い付かなかったのであろうか。
ヴィジャイは瓜二つなカディルとジーヴァーナンダムを一人で演じていた。外観にほとんど違いを作っておらず、演技力で演じ分けすることが求められていたが、彼がその演じ分けに成功していたとは思えない。最初はおちゃらけていたカディルも、ジーヴァーナンダムの人生に深く入り込むごとにジーヴァーナンダム化し、結局両者の間で違いは消えてしまっていた。ただ、戦うのは専らカディルの方だった。
ヒロインのサマンサ・ルース・プラブは完全に無駄遣いだ。カディルとアンキターの出会いの場面では多少の存在感を示すが、その後はほとんど空気と化していた。ヒロイン使い捨ての悪い癖が出ているところも前時代的な印象を強くする要因である。
「Kaththi」は、ヴィジャイが一人二役を演じながら、娯楽映画のフォーマットの中で水不足問題など、社会悪について論じようとする作品である。だが、作りが雑で、問題意識も分散してしまっており、完成度は低くなってしまっていた。興行的には成功しているが、決してヴィジャイの最高傑作ではない。高い期待はせずに観るべきである。