Nautanki Saala!

3.5
Nautanki Saala!
「Nautanki Saala!」

 インド映画専門の映画祭インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン(IFFJ)が2012年から始まっており、その第1回から主に字幕翻訳者として関わらせていただいている。昨年は3本の映画の字幕を担当したのだが、今年は1本のみであった。そしてその1本が「Nautanki Saala!」であった。2013年4月11日公開のヒンディー語映画である。邦題は「茶番野郎」だったが、何を隠そう、これは僕自身が考えたものである。「Nautanki(नौटंकी)」とはコント劇のような大衆歌劇であるが、それから派生して、オーバーなアクションをする人や、ウソばっかり付いている人や、ふざけたことばかり言っている人などを指して言う。一説によると、伝説的映画「Sholay」(1975年)中の有名なタンキー・シーン(ダルメーンドラ演じるヴィールーが貯水タンクの上に登って自殺未遂をする)でアミターブ・バッチャン演じるジャイが呟いたのが初出であるらしい。その真偽はともかく、「ナウタンキー」に最適の訳を考え抜いた結果、「茶番劇」という言葉が一番ふさわしいだろうと思い至り、この邦題に決めたのだった。もちろん賛否両論はあるだろう。僕自身、映画の題名を無理に邦訳するのは好きではない。だが、台詞や歌詞にも頻出する単語なので、そのままにはしておけないだろうと言うことで、この珍妙な言葉を捻り出したのだった。

 やはり字幕翻訳をすると映画の隅々まで理解できるもので、普通に映画館やDVDで鑑賞した映画とは一線を画した深みまで潜り込める。また、愛着もひとしおだ。少し詳しくこの映画について語ってみたい。

 監督はローハン・スィッピー。「Sholay」のラメーシュ・スィッピー監督の息子で、今まで「Bluffmaster!」(2005年)や「Dum Maaro Dum」(2011年)などを撮っている。主演は2012年のスマッシュヒット作「Vicky Donor」で映画デビューし高い評価を受けたアーユシュマーン・クラーナー。「Delhi Belly」(2011年)に出演のクナール・ロイ・カプールが脇役を務める。ヒロインは3人おり、メインヒロインが新人プージャー・サールヴィー、サブヒロインがエヴェリン・シャルマーとガエリン・メンドーサとなる。若手オンリーのフレッシュな配役だ。それを補強するためか、アビシェーク・バッチャンのカメオ出演がある。音楽は複数の音楽監督が作曲しているが、中でも注目なのは主演アーユシュマーン・クラーナー自身が作詞作曲しヴォーカルも務めているパンジャービー語バラード「Saadi Galli Aaja」があること。彼は前作でもパンジャービー語ソング「Pani Da Rang」を作詞作曲して歌い上げ、ヒットさせている。その他、「Tu Hi Tu」も彼が歌っている。まだデビューから間もない若手だが、「歌える男優」として伸びて行きそうだ。

 また、「Nautaki Saala!」には原作がある。2003年のフランス語映画「Après Vous」(英語題:After You)である。この映画は観たことがないが、wikipediaでストーリーの導入部を読む限りでは、物語の主な流れは共通していると予想される。しかしながら、「Nautaki Saala!」ではインド二大叙事詩のひとつ「ラーマーヤナ」も伏線として巧みにストーリーに織り込んでおり、単なる翻案ではないと考えられる。そしてこの映画の最大の長所も正にこの点にある。

 アーユシュマーン・クラーナーが演じる主人公の名前はラーム・パルマールだが、劇中ではほとんどの場合、略称のRPで呼ばれる。まずはこの点が巧みなところで、彼の本名が「ラーム」であることが後々伏線となって行くのだが、それを略称という形で目立たないようにしているのである。RPは舞台監督兼俳優で、「ラーヴァンリーラー」と題した大ヒット劇を上演中であった。「ラーヴァン」とは「ラーマーヤナ」に登場するランカー島の王で、主人公ラーム王子の姫スィーターを誘拐する。RPはこの劇の中でラーヴァンを演じていた。

 もうひとつポイントとなるのが、RPの性格だ。彼は困っている人を見ると助けずにはいられない親切な人柄である一方、他人の心を傷付けそうになると嘘を付いて誤魔化そうとする悪い癖もあった。これらはひとつの性格の両面と見ることも可能だろう。RPは人に優しすぎる余り、嘘を付いてでも人を傷付けまいとする。この性格のおかげでRPは厄介な事件に巻き込まれる。

 その「厄介な事件」そのものがマンダール(クナール・ロイ・カプール)である。RPは、恋人チトラ(ガエリン・メンドーサ)の誕生日の晩、恋人のもとへ急いで駆けつけているタイミングで、マンダールが首吊り自殺をしようとしているところを通り掛かり、困っている人を助けずにはいられない性分から彼を助け、家まで連れて来てしまう。マンダールは、道を歩けば鳥の糞が落ちて来るような運の悪い男で、元恋人のナンディニー(プージャー・サールヴィー)に振られて自殺をしようとしていた。RPはナンディニーとマンダールのよりを戻そうと奔走するが、逆にナンディニーはRPに惚れてしまい、RP自身もナンディニーに恋をしてしまう。RPは自分を抑えようとしつつも抑えきれず、ナンディニーと一瞬だけ恋仲になってしまうが、やはり良心には勝てず、わざと彼女をこっぴどく振ることで、マンダールに彼女を慰めるチャンスを与える。しかし、まずはチトラに愛想を尽かされ、次にチトラにマンダールのために彼女にアプローチしていたことがばれ、最後にマンダールにもナンディニーとの仲がばれてしまい、RPはチトラ、ナンディニー、マンダールの3人の信頼を同時に失うことになる。

 映画中の時間軸では、この苦難に直面して精神科医に相談したところから始まる。これらの経緯を聞いた精神科医は、謝ることが唯一の薬だとRPを諭す。それを聞いて3人に謝る決意をしたRPであったが、そんな彼をマンダールらもサプライズで迎えようとしていた。劇中でははっきりと描かれていなかったが、マンダールとナンディニーが話をし、RPの行為に悪意はなかったことが確認できたのであろう、今度は彼らがRPを助けることになる。「ラーヴァンリーラー」の劇中で、RPには内緒でスィーター役がいつものスィーター(エヴェリン・シャルマー)からチトラに入れ替わっており、舞台の上でラーヴァンに扮したRPはスィーターを演じるナンディニーと会話を交わす。その中でRPは、ラーム王子と自分とを重ね合わせながらラーム王子を非難することで謝罪をし、ナンディニーは、ラーム王子への愛を語ることでRPへの愛を改めて語る。そしてハッピーエンドとなる。

 この映画のもっとも優れた点は、RPの両面的性格を、ラームとラーヴァンという、「ラーマーヤナ」の善玉と悪玉の葛藤という形で提示していた点である。RPは「ラーム」という名前を持ちながらラーヴァンを演じていた。これはそれぞれ、人助けを信条とする彼の性格と、それがこんがらがって嘘に嘘を重ねる彼の悪癖とが表されている。RPは舞台上でラーヴァンを演じながら、マンダールの元恋人を寝取ってしまったことへの良心の呵責に苛まれる。そしてこの葛藤を、チトラがスィーター役を演じてRPと会話することにより、上手に解決していた。この映画は結局、人を騙すことを否定はしていない。より大きな善をするためには、小さな嘘は必要悪だというメッセージとなっており、「嘘も方便」を支持する内容になっていた。だが、もちろん、動機が不純であってはいけないし、嘘を付いたことへの謝罪は、後になろうとも必要である、というメッセージも同時に発信されていた。

 嘘を付いて何かを成し遂げ、その嘘を後から謝罪する、という流れはインド映画の伝統的なストーリーラインである。また、インドの道徳観は日本とは少し異なるようで、嘘を付いたり人を騙したりすることを絶対的に否定する考え方はあまり感じられない。何かを成し遂げることがまず重要であり、できれば正しい方法でそれを成し遂げるのが好ましいが、それができない場合は頭を使って道を切り拓くというのがインド人の好む倫理観である。

 やはり、この映画を深く読み解くためには「ラーマーヤナ」の知識が不可欠になる。上で書いた他にも小ネタが散りばめられていた。例えば、マンダールが最後にハヌマーン役を演じてRPとナンディニーのキューピッド役を務めるところも粋な演出だ。だが、それを抜きにしても、コンパクトにまとめられた軽快なコメディーで脚本の良さが光っており、純粋に楽しめることだろう。アーユシュマーン・クラーナーの演技も素晴らしかった。「Vicky Donor」ほどの興行的・批評的成功は収められなかったようだが、2013年の良作のひとつに数えていいだろう。