キラン・ラーオは元夫アーミル・カーンと共に多くの映画をプロデュースしてきたが、自身が監督したのは「Dhobi Ghat」(2011年)だけだった。その彼女が12年振りに撮ったのが「Laapataa Ladies(行方不明の女性たち)」である。2023年9月8日にトロント国際映画祭でプレミア上映され、インドでは2024年3月1日に劇場一般公開された。その後、日本でも2024年10月4日から「花嫁はどこへ?」という邦題と共に劇場一般公開された。
離婚後もアーミル・カーンとは良好な関係が続いているのか、映画のクレジットにはプロデューサーとしてキラン・ラーオと並んで彼の名前も見られる。音楽はラーム・サンパト。キャストに有名な俳優はほとんどおらず、ラヴィ・キシャンが目立つくらいだ。他には、ニターンシー・ゴーエル、スパルシュ・シュリーヴァースタヴ、プラティバー・ラーンター、チャーヤー・カダム、ギーター・アガルワール、サテーンドラ・ソーニー、バースカル・ジャーなどが出演している。
映画は主にマディヤ・プラデーシュ州のバムリヤー村とダマンケーラー村で撮影されている。映画の中で主な舞台になるのはムールティ駅を最寄り駅とするスーラジムキー村とパティーラー駅だ。これらはニルマル・プラデーシュ州という架空の州にあるとされている。映画の中では「マディヤ・プラデーシュ州」や「チャッティースガル州」という名前が出て来るので、ニルマル・プラデーシュ州はこれらの州をイメージしているわけではなさそうだ。登場人物の話す方言などから、どうもウッタル・プラデーシュ州東部、ビハール州、ジャールカンド州辺りをイメージしていると思われる。スーラジムキー村は「デヘラードゥーンから800km離れている」というセリフもあるので、それほど外れではないだろう。
キラン・ラーオがプロデュースした「Peepli Live」(2010年)と似た雰囲気の、インドの農村やそこに住む人々を赤裸々に、かつコミカルに映し出した作品である。
2001年、ニルマル・プラデーシュ州。プール・クマーリー(ニターンシー・ゴーエル)は、ディーパク・クマール(スパルシュ・シュリーヴァースタヴ)と結婚し、夫に連れられて婚家へ向かっていた。列車には似たような花嫁衣装を身につけた数人の女性たちがいた。ディーパクは深夜、ムールティ駅で降り立つが、その際に誤って別の花嫁を連れて出てしまった。自宅のあるスーラジムキー村に着いたときに初めてその間違いに気が付いた。その女性(プラティバー・ラーンター)はプシュパー・ラーニーと名乗った。
ディーパクと友人たちはプールを探し回るが見つからない。プシュパーの実家とも連絡が付かなかった。困ったディーパクは警察に捜索願を出す。シャーム・マノーハル警部補(ラヴィ・キシャン)が応対したが、話を聞くとどうもプシュパーが怪しいと直感した。
一方、プールはパティーラー駅で降車し、ディーパクがいないことに気付いた。プールはチョートゥー(サテーンドラ・ソーニー)、アブドゥル、そしてマンジュー・マーイー(チャーヤー・カダム)に助けられ、夫が探しに来るのを待つことにする。同じ駅には、自分の花嫁ジャヤーを探すプラディープ(バースカル・ジャー)の姿もあった。プラディープは警察にジャヤーの捜索願を出す。ジャヤーの情報はマノーハル警部補の耳にも届き、ますますプシュパーを怪しむことになる。
ジャヤーの顔写真がFAXされて来たことでプシュパーの正体がジャヤーであることが確定し、マノーハル警部補は彼女を逮捕する。マノーハル警部補は彼女を泥棒だと考えていた。観念したジャヤーは身の上話を始める。
ジャヤーは成績優秀な女性で、高校卒業後は農業を勉強するためにデヘラードゥーンの大学に通いたいと考えていた。しかし母親は彼女を無理矢理結婚させてしまう。諦めたジャヤーはプラディープと結婚し婚家に向かっていたが、その途中でディーパクに連れ出されたことで運命を感じ、そのまま付いて来たのだった。ジャヤーはそのままディーパクの家で過ごしながら大学入学の手続きをし、時期が来たらデヘラードゥーンへ向かおうとしていたのだった。
マノーハル警部補から連絡を受けたプラディープがやって来た。マノーハル警部補はジャヤーをプラディープに引き渡すが、彼が暴力夫であるのを見抜き、彼女に加勢して、プラディープを追い払う。そしてジャヤーの進学を応援する。
ジャヤーは逮捕される前に、プールの似顔絵をポスターにしてあちこちに貼り出す手はずを整えていた。そのおかげでプールはムールティ駅まで来ることができた。ディーパクとプールは再会を果たす。ジャヤーはスーラジムキー村でお世話になった人々に見送られながらデヘラードゥーンを目指す。
ほとんどまともに外の世界を見たことがない若い女性が、結婚後に婚家へ向かう中で夫とはぐれて道に迷ってしまう。この状況はインドを旅行中に何らかのトラブルに巻き込まれた外国人ともそう変わらない。だから、我々外国人は主人公プールに別の次元で感情移入してこの映画を鑑賞することができる。
インドというのは不思議な国で、困っていると必ずどこかから親切な人が現れて助けてくれる。見知らぬパティーラー駅で自分が迷子になっているのに気付いたプールの周囲にも、チョートゥー、アブドゥル、そしてマンジュー・マーイーといった親切な人々が現れ、まるで実の家族のように彼女の面倒を見てくれる。そういうインド人特有の人情がこの映画からは溢れ出ていた。プールが彼らと共に過ごした時間はわずかなものだったが、彼らのおかげで、プールにとっては行方不明になったこの数日間が人生を変える一生モノの体験になった。インドを貧乏旅行したことのある外国人ならば誰しもがひとつやふたつ、似たような体験をしているはずである。トラブルに巻き込まれてからがインド旅行の本領発揮なのである。
迷子になった頼りない花嫁が、多くの人々の好意や思い付きのおかげで、最後には何とか夫と涙の再会を果たす。それだけでも感動を覚えてしまうのだが、「Laapataa Ladies」は決してお涙頂戴で終わっていい映画ではない。題名が「~Ladies」と複数形になっているのにも注目である。行方不明になっているのは、映画に登場したプールとジャヤーだけではない。インドに住む女性たち全員が行方不明になっているとの警鐘が込められた題名だと考えた方が適切である。
映画の中では、インド人女性たちが当たり前のように受け入れてしまっている因習がひとつひとつ解きほぐされて提示される。
たとえばインド人女性は夫の名前を口にしてはいけないとされている。プールもマノーハル警部補から夫の名前を聞かれ、答えられず、手の平に描かれたメヘンディーを見せて知らせる。花嫁の手や腕に描かれるメヘンディーは基本的に幾何学模様だが、そこには夫の名前が隠されているのがファッションである。
インド人女性にとって、家族であっても年上の男性の前では頭や顔をベールで覆うのがマナーである。これはパルダーと呼ばれる。だが、その習慣のおかげでディーパクは列車から連れて出た相手が自分の妻プールでないことにずっと気付かなかった。プールを写した写真があれば捜索はもっと容易だったはずだ。インドの結婚式では結婚の証拠のために必ず写真を撮るので、彼女の写真はあった。だが、ベールをかぶっていたために顔が見えず、捜索のためには全く使えない写真になってしまっていた。この辺りは軽妙な風刺である。
プールは行方不明になっても、実家に連絡することも、一旦実家に帰ることもできなかった。彼女は、夫がいなければ自分の命を守るための行動を何も取れないことに気付く。プールにできることといえば、料理や洗濯など、夫を支える家事しかなかった。子供の頃からそう教えられていたからだ。だが、マンジュー・マーイーはプールに対し、インドの女性たちに教え込まれてきたそのような伝統的な教育を「詐欺」だと喝破し、彼女の目を覚まそうとする。マンジューはプールに、仕事をして働き、金を稼ぐことを教える。マンジューと共に過ごす中で、プールは少しだけ自立した女性に成長する。
プールとは対照的に、ジャヤーは自分のやりたいことを見つけた聡明な女性だった。だが、家族の圧力により結婚を余儀なくされた。結婚後は大学で農業を学びたいという夢を実現できそうになかった。だから逃げ出したのだった。ジャヤーと仲良くなったヤショーダーは絵の才能があったが、それで何かをしようとは夢にも思っていなかった。ジャヤーはヤショーダーの絵を使ってプールを探し出したが、同時に彼女に、自分の才能をもっと有効に活用することも暗に教える。これはマンジューもプールに教えていたことだ。女性は何でもできる。男性がそれを恐れて彼女たちの才能を押しつぶそうとする。それに負けてはならない。そんなメッセージが力強く発信されている映画だった。
もちろん、持参金や花嫁焼死など、長年インド社会で問題視されてきた因習にも触れられていた。
一方で男性にもきついお灸が据えられた映画であった。特にそれはプラディープを通して行われた。ジャヤーを連れ戻した後、プラディープはジャヤーに平手打ちを喰らわせ、彼女が持参金として所持していた宝飾品を取り上げる。ジャヤーの進学の夢を知ったマノーハル警部補は彼女を応援したくなり、プラディープに家庭内暴力や持参金が犯罪であることを伝える。プラディープは何もできなくなり、ジャヤーを置いて立ち去る。
映画の中では「チャーンドプル花嫁ギャング」なる、結婚詐欺を生業とする犯罪組織についての言及がある。プシュパーを名乗ってディーパクの家に居候することになったジャヤーは人目を盗んで怪しい行動を取るため、観客は彼女がこの組織の一員なのではないかと疑ってしまう。この辺りでサスペンスを作り出して観客の興味を持続させる手法もうまく機能していた。
インドでは結婚式をしていいシーズンが決まっており、しかも結婚式に最適な吉日も限定されている。よって、この映画の冒頭で描かれたように、新郎新婦が列車の同じ車両に複数組座っているという状況は変ではない。ディーパクとプール、プラディープとジャヤーが結婚した日は「トリティーヤー」とのことだったが、これは「アクシャイ・トリティーヤー」のことだと思われる。この日に買った品物や行った行動は永遠に続くと信じられており、高価な品物を買ったりするのに最適な日だ。婚姻関係も永遠に続いて欲しいものなのでアクシャイ・トリティーヤーに行う意義がある。ただ、例年アクシャイ・トリティーヤーは4月から5月になる。映画中ではプールやジャヤーが行方不明になった日は1月29日となっていたので、実は整合性が取れない。
大半の俳優たちは無名の俳優ではあったが、皆とても味のある演技をしており、好感が持てた。プールを演じたニターンシー・ゴーエルは容姿や雰囲気自体が役にピッタリで、演技も素晴らしかった。ラヴィ・キシャンの老練な演技も見所のひとつであるし、プールに自立を教えたマンジューを演じたチャーヤー・カダムははまり役だった。
「Laapataa Ladies」は、寡作ながら優秀な監督キラン・ラーオが「Dhobi Ghaat」以来12年振りに撮った作品である。農村を舞台にしながら、女性の自立支援や家父長制社会批判などが巧妙にストーリーに織り込まれており、しかも感動作として完成している。さすが、としかいいようのない出来映えであり、間違いなく必見の映画である。