2022年7月8日公開の「Titu Ambani」は、近道を探してばかりの駄目な主人公ティートゥーが更生して真っ当な道を歩み始めるまでを描いた作品だ。題名の「アンバーニー」とはリライアンス・グループ創業者の氏名であり、成功を目指す主人公の野望が込められている。
監督はローヒト・ラージ・ゴーヤル。TVドラマの監督をした経験はあるが、映画の監督は今回が初である。キャストは、トゥシャール・パーンデー、ディーピカー・スィン、ラグビール・ヤーダヴ、ヴィーレーンドラ・サクセーナー、ブリジェーンドラ・カーラー、プリータム・ジャイスワールなど。トゥシャールは「Chhichhore」(2019年/邦題:きっと、またあえる)に出演していた男優である。それに対しヒロインのディーピカーはTVドラマ女優であり、映画出演は初だ。実はゴーヤル監督の妻である。
ウダイプル在住のティートゥー・シュクラー(トゥシャール・パーンデー)は常に楽してリッチになる方法を模索する中産階級の青年であった。父親(ラグビール・ヤーダヴ)の口利きでスナック工場に就職したがすぐに辞めてしまい、ケータリングビジネスを立ち上げるが失敗する。次にティートゥーが目を付けたのがネズミ講だった。ティートゥーは投資のための資金を工面しようと、恋人のモースミー(ディーピカー・スィン)と結婚し、彼女の名前で銀行から融資を受けようとする。彼は既に何度も不払いをして融資が受けられなかったからだ。だが、モースミーはそれを拒否する。そこでティートゥーはモースミーの父親(ヴィーレーンドラ・サクセーナー)に頼み込み、金を受け取る。モースミーには内緒だった。 ティートゥーは得意の話術を駆使してネズミ講の参加者を集め、投資を呼び込む。一方、ローンを断ったことでモースミーとの仲は険悪化し、彼女は実家に戻ってしまう。さらに、自分の父親に金を無心したことも知り、ティートゥーに愛想を尽かす。モースミーは妊娠しており、ティートゥーはそれを知るが、モースミーは決してティートゥーの元に戻ろうとはしなかった。その内モースミーは流産してしまう。 ネズミ講ビジネスも失敗し、ティートゥーは投資者たちから追われる身になる。反省したティートゥーは、スナック工場に再就職し、コツコツと働き出す。そして月給の大半をモースミーの父親に渡し、少しずつ借金を返そうとする。ティートゥーの変化を見て、モースミーも彼を受け入れるようになる。 ティートゥーはようやくモースミーを家に連れ戻す。すると、ネズミ講の会社から突然大金が振り込まれたりして、物事が好転し始める。ティートゥーは地道に働く生き方こそ尊いと噛み締める。
序盤では主人公のティートゥーが全く駄目な奴として描かれる。親不孝を繰り返し、才能もないのに起業して大儲けすることだけを考え、恋人のモースミーも蔑ろにする。全く感情移入できないキャラクターである。モースミーがなぜティートゥーとの結婚をそんなに望んだのが謎なくらいだ。二人の出会いをもう少し説得力のある形で描くべきだったかもしれない。
しかし、ティートゥーは至るところで痛い目に遭い、遂に改心することになる。人生に近道はないと悟り、地道に働いて月給を得ることにする。そしてモースミーとも腹を割って話をし、彼女との関係改善に努める。ゲインロス効果により、ティートゥーが良き道を歩み始めたことにボーナス付きで安心感や満足感を感じる、といきたいところだが、序盤での彼の行動があまりに不道徳すぎて、終盤まで彼に感情移入することができない観客が大半を占めるのではなかろうか。また、何度も事業に失敗しているティートゥーは借金取りに追われることになるが、意外に借金取りたちが優しく、あまり怖い目に遭っていないというのも、緊張感の醸成に失敗している原因だと思われる。
スターパワーもなく、主人公の行動があまりに人の道を外れていたために感情移入もできず、取り柄を探すのが難しい作品なのだが、本筋とは外れた部分での細かい描写には少し注目したくなるものもあった。例えばティートゥーとモースミーの家族が縁談をまとめるシーン。ティートゥーの家族側の仲人を買って出た親戚のおじさんがモースミーの家族側に持参金についての要望が書かれたメモ用紙を渡し、「できる範囲で」と要求する。結局、ティートゥーの両親が持参金を要求しないと申し出たために持参金の交渉がその縁談を止めてしまうことはなかったが、生々しい描写であった。
ティートゥーの兄ラヴィの子供が生まれたことも本筋とはあまり関係なかったが、様々なことを示唆していた。ラヴィには既に娘が一人おり、次に生まれたのも女の子だった。ラヴィは、今度は男の子が良かったと言い、次女の誕生をあまり喜ばない。子供の誕生を聞きつけたヒジュラーたちがシュクラー家を訪問し喜捨を要求するが、ラヴィは男児が生まれなかったことを理由に101ルピーというはした金しか渡さない。この辺りも生々しい描写だと感じた。
もっとも、この映画が密かに主題としていたのは、娘しか生まれなかった家族における娘の立場だ。モースミーは一人娘であった。彼女はとても親孝行の娘で、月給の大半を両親の口座に入れていた。モースミーはそれをシュクラー家に嫁入りした後も続ける。彼女にとっては、実の両親の生活を慮っての行為であったが、これがティートゥーには許せなかった。夫の稼ぎは妻子の生活のために費やされるのに、妻の稼ぎが夫ではなく実の両親の口座に行ってしまうとしたら、納得がいかないのも分かる。
インド社会では伝統的に、結婚後に妻が外に出て仕事をすることは許されにくいが、この映画ではそれが議題に上がることはなかった。むしろ、一獲千金を狙いながらも定職がないティートゥーは妻に稼ぎがあることをありがたがっていた。その代わりに、結婚後に妻が働いて稼いだお金の使い道を妻が独自に決めていいのか、という新たな議題が俎上に載せられていた。「Titu Ambani」でこの議題に結論が下されていたわけではないが、この着眼点はもっと掘り下げる価値のあるものだ。
「Titu Ambani」は、手っ取り早く大儲けしたい主人公が人生のどん底を味わいながらも反省し生き方を変えることで人生が好転し出すまでをユーモアと共に描いた作品だ。脇役陣にはベテラン俳優が揃っているが、監督と主演俳優は経験が浅く、主人公に感情移入しにくい脚本にも疑問が残る。無理して観なくてもいい作品ではあるが、細かい描写にはインド社会の生々しい姿を見出すこともできる。