Chhichhore

 人口13億人のインドにおける2018年の自殺件数は134,516件。その内、18歳未満の自殺は9,431件(7%)であり、さらにその内、自殺の理由の第2位が「試験での失敗」で、1,529件(16%)である。18歳以上30歳未満の年齢層においても、「試験での失敗」を理由にした自殺は1,034件報告されている 1

 少子高齢社会の日本と異なり、インドは人口の半分が25歳以下という若い国であり、若者たちは熾烈な受験戦争にさらされている。インドでは理数系の学問に重きが置かれており、理数系大学や、名門大学の理数系学部が特に人気だ。

 中でも世界的な名声を誇るのがインド工科大学(IIT)である。マサチューセッツ工科大学(MIT)をモデルに1951年に創立された高等教育機関だが、インドでは「IITに落ちた人がMITに行く」と言われるくらい人気であり、卒業生は世界中のトップ企業から引っ張りだこである。IITはインド全土の主要地域に23校あって、それぞれ独立して運営されている。現在は全IIT合わせて1.1万人の定員枠を持っているが、受験者数は毎年100万人を越え、合格率は1%以下という超難関である。受験生はJEEと呼ばれる全国一斉入学試験を受け、成績順に希望校へ割り振られる。

 2019年9月6日公開のヒンディー語映画「Chhichhore」は、IITボンベイ校をモデルにした工科大学の卒業生夫妻と、両親と同じ工科大学への入学を志望する一人息子を主人公にした物語である。IITボンベイ校は、計23校あるIITの中でも2番目に古く、大学ランキングの中でも常にトップに位置する名門中の名門である。

 日本で大ヒットしたヒンディー語映画「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)では、IITをモデルにした工科大学に入学した三馬鹿トリオのハチャメチャな学生生活が描かれていたが、三馬鹿とはいえ彼らは世界最難関の受験の勝者であった。一方、「Chhichhore」では、JEEに落ちてIITに入学できなかった受験生の心理状態にまず焦点が当てられる。IITに不合格だった99%の人々は一体どうなるのか、インドの華々しい教育神話の影にどんな知られざる物語があるのか、「3 Idiots」を受けて「Chhichhore」が突いたのは、正にその点である。ちなみに、題名の「Chhichhore」とは「間抜けたち」みたいな意味で、これも「三馬鹿」という意味の「3 Idiots」を受けていると思われる。

 監督は「Dangal」(2016年)のニテーシュ・ティワーリー。主演はスシャーント・スィン・ラージプートとシュラッダー・カプール。他に、プラティーク・バッバル、ムハンマド・サマド、ヴァルン・シャルマー、ターヒル・ラージ・バスィーン、ナヴィーン・ポリシェッティー、トゥシャール・パーンデーイなど。音楽監督はプリータムである。

 名門工科大学の受験に失敗したラーガヴ(ムハンマド・サマド)は、負け犬になってしまったと考え、自殺未遂をする。ラーガヴの父親アンニー(スシャーント・スィン・ラージプート)は、ICUに横たわる息子に対し、自分も負け犬だったと明かして、大学時代の話をし始める。当初、ラーガヴは父親の話を信じないが、話の中に登場する大学時代の友人たちが次々に駆けつけてくれたことで、ラーガヴも話を信じるようになり、生きる希望を見出すようになる。また、ラーガヴは、大学時代に出会って結婚したマーヤー(シュラッダー・カプール)と離婚していたが、ラーガヴの危機をきっかけに2人は接近する。

 冒頭に示したデータで、「試験での失敗」により毎年多くの若者が命を絶っている様が浮き彫りになっているが、そういう深刻な問題を抱える現代のインドにとって、この作品は非常に重要なメッセージを含んでいた。それと同時に、受験を巡って親が子にプレッシャーを与えることへの反省や、「成否よりも最大限の努力をしたかどうかが重要」という主張は、日本人も素直に受け止められるものであった。

 名門工科大学を巡る現代の受験戦争と平行して、両親が大学に通っていた90年代の牧歌的な学生時代も描写される。IITなどの名門大学にはインド全土から学生が集まるため、学生たちは基本的にキャンパス内で寮生活をしている。多数の学生を収容するために、各キャンパスには複数の寮があるのが普通である。インド人は宗教、民族、カースト、地域など、様々なアイデンティティーを持ち、その枠内から大きく外れずに育つ。そして彼らの多くは大学で初めてインドの偉大な多様性に直面し、今まで当たり前だと思ってきたアイデンティティーは大いに揺さぶられる。それらから完全に自由になれるわけではないが、一旦大学に入り、人生で初めて親元から離れて寮生活を始めると、彼らの第一のアイデンティティーは概して所属する寮となる。自分の住んでいる寮に愛寮心を抱くようになり、同じ寮に住む者たちに仲間意識を感じる一方、他の寮の住民に対してはライバル意識を燃やすようになる。「Chhichhore」でも、インド映画にもかかわらず驚くほど宗教やカーストの問題には触れられていない。そこにあるのは同寮内での団結と、寮vs寮のライバル意識のみである。これはインドの現実の大学生活に近い。

 インドの大学寮には「ラギング」と呼ばれる新入生いじめが残っており、問題にもなっている。「いじめ」というより「先輩と新入生の関係構築のための儀式」と肯定的に回顧する人も多いが、行き過ぎたラギングを原因とした新入生の自殺や事故死も起こっており、現在、表向きは禁止されている。ラギングの描写は、「3 Idiots」の方が正確だった。「Chhichhore」はどちらかというと、「このくらいだったら許されるだろう」というラギングの許容範囲を示したのみだ。何はともあれ、「Chhichhore」では、主人公が寮に溶け込むきっかけのひとつになったのがラギングであり、それは将来の妻マーヤーと出会うきっかけでもあった。

 さて、「Chhichhore」の回想シーンの大部分を占めたのが、寮対抗のスポーツ大会、GC(ジェネラル・チャンピオンシップ)である。おそらく複数の寮を持つどのインドの大学でも同様の行事があるのではなかろうか。自寮の威信を懸けて、勉強そっちのけでスポーツに打ち込む学生たちの姿に呆れながらも微笑んでしまう。

 GCに採用されていたスポーツの種類を見るといかにもインドらしい。インドでもっとも人気のあるスポーツはクリケット。インド人男子なら必ずプレイしたことがある。もちろん、GCの競技に含まれている。「Chhichhore」の中での扱いはあまり大きくなかったが、現実には一番花形の競技であろう。しかし、実はインドの国技はクリケットではなく、ホッケーである。ホッケーのシーンもしっかり含まれていた。意外にインドの大学生に人気なのはバドミントンやバレーボールで、各寮にそれらのコートが併設されていたりする。インドではチェスもスポーツの内で、人気である。チェスの原型はインドで誕生している。また、インドの寮には必ずと言っていいほど卓球台とカロムボードが置いてあり、暇を持てあました寮生たちがよく遊んでいる。インド発祥のスポーツの代表といえばカバッディー。鬼ごっこをスポーツ化したような競技である。他に、サッカー、陸上競技、重量挙げなど、様々な競技が「Chhichhore」で登場する。そして、これらの総合点でGCの優勝寮が決まるのである。

 これらの競技を通して、やはり「人生において結果や勝敗よりも大事なこと」が重ねて主張され、映画全体のメッセージになっているという二重構造をこの作品は採っている。このような人生の価値観まで深掘りしなくても、学生生活の楽しさや教育の問題は、万国共通のものがあり、観ていて心が軽やかになる。「Chhichhore」は、社会的メッセージと娯楽性の高度な両立に成功した、21世紀のヒンディー語映画の優等生と評することができる。

 「Chhichhore」は、「きっと、うまくいく」の邦題と共に日本で2020年8月21日に一般公開された。

脚注

  1. Suicide in India, Accidental Deaths & Suicide in India 2018, National Crime Records Bureau, Ministry of Home Affairs, Government of India