21世紀の最初の年である2001年は、911事件のおかげで、イエス・キリストの誕生と同様に世界史の分岐点として今後記録されることになるだろう。インド映画史にとっても2001年は重要な年である。何しろ現代ヒンディー語映画のターニングポイントとされる傑作「Lagaan」(2001年)が公開された年なのである。ヒンディー語映画の歴史は「Lagaan」以前と以後に分かれるということは、あれから10年が過ぎようとしている今になってより明確になっている。だが、2001年の大きな事件は「Lagaan」だけではなかった。他にもいくつか重要な出来事があった。それは例えば、ミーラー・ナーイル監督のヒングリッシュ映画「Monsoon Wedding」(2001年)が一般公開されて上々の興行成績を収め、今まで専ら映画祭向けに制作されて来た非娯楽映画が映画館にて一般公開されることがタブーではなくなったことも大きな事件であった。さらに、新感覚の青春群像劇「Dil Chahta Hai」(2001年)が都市の若者から熱狂的に支持され、脚本中心の新しい娯楽映画の基礎が作られたのも2001年であった。その「Dil Chahta Hai」で監督デビューを果たしたのが、当時弱冠27歳のファルハーン・アクタルであった。「Dil Chahta Hai」そのものの衝撃も強かったのだが、彼の成功のおかげで、その後、若く無名だが才能のある映画監督にチャンスが与えられることが多くなり、様々な新人監督のデビュー・ラッシュが続いて、ヒンディー語映画界の若返りが一気に進んだ。そういう意味でも彼の貢献は非常に大きい。ところが、ファルハーン・アクタルは何本か映画を監督して来ているのだが、未だにデビュー作「Dil Chahta Hai」を越えるような作品を作れずにいる。そんな中、気分転換のためであろうか、元々の趣味だったバンド活動をそのまま活かして、「Rock On!!」(2008年)でロックスターを演じ、俳優業にも進出した。「Rock On!!」が大ヒットとなったのに気を良くしたのだろう、最近は俳優業の方にも力を入れるようになっており、すぐにも監督作よりも出演作の数の方が多くなりそうな勢いである。だが、才能ある監督であるため、監督業の方も疎かにしないで欲しいものだ。
ファルハーン・アクタルの俳優第3作「Karthik Calling Karthik」が2010年2月26日に公開となった。ヒロインは若手トップスターのディーピカー・パードゥコーン。監督はTVCM界で活躍していたヴィジャイ・ラールワーニーで、本作が監督デビュー作となる。ファルハーンとディーピカーの組み合わせはなかなか面白く、話題作の一本となっていた。
監督:ヴィジャイ・ラールワーニー
制作:リテーシュ・スィドワーニー、ファルハーン・アクタル
音楽:シャンカル=エヘサーン=ロイ
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
衣装:ニハーリカー・カーン
出演:ファルハーン・アクタル、ディーピカー・パードゥコーン、ラーム・カプール、ヴィヴァーン・バテーナー、ヴィピン・シャルマー、ヤティーン・カールエーカル、シェーファーリー・シャーなど
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。
ムンバイーの不動産会社に勤めるカールティク・ナーラーヤン(ファルハーン・アクタル)は、優秀な会計士であったが自己主張が苦手だったために周囲からいいように利用され、みじめな毎日を送っていた。同僚のアーシーシュ(ヴィヴァーン・バテーナー)からは仕事を押しつけられ、社長のラージ・カーマト(ラーム・カプール)からはこき使われ、大家にも不当な請求を繰り返されていた。カールティクは上司のショーナーリー・ムカルジー(ディーピカー・パードゥコーン)に片思いしていたが、ショーナーリーはアーシーシュと付き合っており、カールティクの存在自体に気付いていない状態であった。 カールティクは、幼少の頃に兄を井戸に突き落として殺してしまったというトラウマに悩まされており、精神科医のシュエーター・カパーリヤー(シェーファーリー・シャー)に掛かっていた。シュエーターは気弱なカールティクに、簡単に他人に屈してはいけないと助言する。カールティクはとりあえず社長に意見するが、怒った社長は彼を解雇してしまう。 職を失ったカールティクは絶望のまま家に閉じこもっていた。遂には睡眠薬自殺を図る。すると、最近新しく買った電話が突然鳴る。彼が受話器を取ると、カールティクと名乗る男からの電話だった。それだけでなく、受話器の向こうで話しているのはなんとカールティク自身であった。その証拠に、カールティクしか知らないようなことを電話のカールティクは知っていた。電話のカールティクは彼に、人生をやり直すための秘策を伝授する。カールティクは半信半疑のままにその助言通りに行動する。嫌なことにははっきりとノーと言い、自己の権利を主張し、相手の弱みにつけ込むようになった。ファッションにも気を遣うようになり、見違えるほど立派な外見となった。すると、人生は不思議と好転し始め、大家の態度は急変し、元の会社で幹部として働くことになり、ショーナーリーをアーシーシュと別れさせ、代わりに彼女の心を射止める。カールティクからの電話は毎日早朝5時にあり、カールティクは何時間も電話の向こうのカールティクと話をする毎日であった。 ある日、電話のカールティクは彼に、自分自身から電話が掛かって来ることを誰にも口外するなという忠告を与える。だが、ショーナーリーから絶対に隠し事をしないように約束させられたカールティクは、自分自身から電話が掛かって来ることを彼女に明かしてしまう。ショーナーリーはカールティクが精神病を患っていると考え、精神科医に掛かるように言う。だが、電話のカールティクは、忠告を守らなかったことを責め、絶対に精神科医にところには行くなと言う。ショーナーリーと電話のカールティクの間に板挟みになったカールティクはどうしたらいいか分からなくなるが、とりあえずショーナーリーの言うことを聞き、シュエーターに相談しに行く。シュエーターは、電話が掛かって来ることなどは全て幻覚だと言うが、カールティクは、それは幻覚ではなく現実だと主張して譲らない。カールティクの病状を心配したシュエーターは早朝5時にカールティクの家へ行って様子を見る。すると、本当に5時にカールティク自身から電話が掛かって来た。当のカールティクは彼女の目の前にいた。恐ろしくなったシュエーターは家を飛び出してしまう。 次にショーナーリーが早朝5時にカールティクの家に陣取り、電話を待つことになった。この際も5時に電話が鳴り出すが、ショーナーリーはカールティクが電話に出ることを禁止し、自分を取るか電話を取るかの二択を要求する。すっかり怯えてしまったカールティクは、ショーナーリーを手に入れられたのも電話のカールティクの助言のおかげだと考え、ショーナーリーよりも電話のカールティクを選ぶ。翌日早朝5時に掛かって来た電話で、電話のカールティクは激怒しており、彼を破滅させると宣言する。出社してみると、社長、お得意先、ショーナーリーのところに「カールティク」から誹謗中傷や脅しの電話が行っていたことが分かり、会社は首となり、ショーナーリーからも見放されてしまう。さらに、銀行口座に貯蓄してあった貯金もテレバンキングによって慈善団体に全額寄付されてしまっていた。カールティクは一気に全てを失ってしまった。 カールティクは金目の持ち物を全て売り払い、その金で自分自身すら知らない遠くへ逃げることにする。彼は目的地の分からない切符を買い、盲人の振りをして全く見知らぬ宿に宿泊し、部屋からテレビや電話を排除し、とにかく自分がどこにいるのか分からない状態で過ごすことにした。こうすることでやっと電話のカールティクから解放されたのだった。 カールティクが行き着いた先はケーララ州のコーチンだった。彼はコーチンのクーリエ会社で働き始める。だが、上司から電話を買うように命令され、仕方なく電話機を購入する。彼は試しに、以前と同じモデルの電話機を購入してみる。だが、電話局に特別に頼んで、自分の電話番号が自分で分からない状態にした。翌日、5時になっても電話は掛かって来なかった。遂に電話のカールティクを克服したと考えた彼は、久し振りにショーナーリーにEメールを送って報告する。 カールティクと別れて以来、いきなり行方不明になってしまった彼を心配していたショーナーリーは、彼からのEメールが届いた途端にシュエーターに相談しに行く。シュエーターは独自にカールティクの症状について調査を続けていた。彼女はカールティクを解離性同一性障害だと診断する。そして、5時に電話が掛かって来るのは、彼が持っていた電話機に付属していたリマインダーコール機能が原因だと突き止めていた。カールティクは幼少時から、いもしない兄の幻覚を見ており、その兄を殺してしまったと思い込んで生きていた。それと同様のことが大人になってからも形を変えて起こっていた。彼は無意識の内にリマインダーコール機能を使って自分自身に向けたメッセージを録音し、早朝5時にそのメッセージが再生されるようにセットしていたのだった。また、最近彼が電話機を買った直後に何もメッセージがなかったのは、まだ買ったばかりでセットされていなかったからだった。 ショーナーリーは急いでコーチンへ向かい、カールティクを探す。一方、この日の5時にカールティクは再び電話のカールティクから電話が掛かって来る。この出来事にショックを受けた彼は、再び睡眠薬自殺を図る。だが、そこへショーナーリーが駆けつける。カールティクは何とか一命を取り留めるが、以後も電話への恐怖症はなかなか取れなかった。
前知識なしで見に行ったが、意外にもサスペンスやホラーに分類される映画で、そうは予想してなかったために驚いた。自分からの電話が掛かって来るという設定は一見ファンタジーにも見えたが、クライマックスでその種明かしがされており、結局は多重人格と電話の付属機能が原因だったとされて、医学的・技術的に裏付けがされていたいたため、ファンタジーではない。自己の理想像の投影が現実の自己に影響を及ぼすという設定は、ハリウッド映画「Fight Club」(1999年)にも似ていた。電話一本で人生が激変するという展開は多少強引な気もしたし、自分からの電話というミステリアスな事件を精神病でまとめていたのも陳腐な気がしたが、映画としてはよくまとまっており、ハリウッド的娯楽映画に仕上がっていた。だが、僕は以前からインド映画のハリウッド化には反対の立場で、「My Name Is Khan」(2010年)と並んで、必要以上に高く評価することは避けたい。インド映画はインド映画なりの進化の方向を模索するべきである。もしインド映画がハリウッドと同様の映画ばかりになってしまったら、圧倒的な資本力と技術の蓄積を擁するハリウッドにかなうはずがなく、すぐにハリウッドに顧客を奪われて壊滅させられてしまうだろう。もっとも、そんな極端なことにはならないと信じているが。
最近のヒンディー語映画には、最新のコミュニケーションツールがストーリー中にうまく組み込まれていることにある。携帯電話をストーリー進行上重要な小道具として利用する習慣は「Company」(2002年)の頃から始まり、今ではもう普通の道具になっているが、最近ではEメールやチャットが自然にストーリーの中に溶け込んでいるのを目にすることが多くなった。「Karthik Calling Karthik」でも、ウェブメールのドラフト機能が、ロマンス・シークエンスの進行上に重要な役割を果たす。だが、携帯電話全盛の時代に敢えて家庭用電話をストーリーの中心に持って来て、その付属機能であるリマインダーコールを上手に利用したのは面白かった。ちなみに、主人公カールティクが購入した電話機は明らかに韓国製のものだが、映画中では「日本製」ということになっている。
ファルハーン・アクタルは今回、気弱でいじめられっ子体質の会社員を誠実に演じており、俳優としての成長を感じさせられた。インドは皆自己主張が強いイメージがあるが、人口が多いだけあって、こんなインド人も中にはいる。その彼が他の一般のインド人みたいな態度を取り始めたら急に優位に立つという展開は、誠実に生きることを否定するようなメッセージに受け止められもしたが、あくまでサスペンス映画であり、その点に深入りして分析する必要はないだろう。
ディーピカー・パードゥコーンは今回も魅力的であった。肩や腿など、露出度の多い服を着ていたためであろうか、いつになくセクシーにも見えた。自然な表情の作り方もうまくなっており、女優として自信を付けて着たことがうかがわれた。ヒンディー語が苦手な彼女が今回自分で台詞をしゃべていたのかどうかは不明だが、「Love Aaj Kal」(2009年)に続いて自分の声なのではないかと感じた。
音楽はシャンカル=エヘサーン=ロイで、歌詞をファルハーン・アクタルの父親のジャーヴェード・アクタルが担当している。ストーリー中心の映画で、音楽は二の次であったが、ディーピカーが楽しそうに踊る「Uff Teri Adaa」などは良かった。
「Karthik Calling Karthik」は、典型的インド娯楽映画の文法からは全く外れた、グローバルスタンダードなサスペンス映画である。普通に映画を楽しみたい人には向いているが、インド映画らしいインド映画を求める人々には物足りなく感じるだろう。主演二人の演技のレベルは高く、特にディーピカー・パードゥコーンのファンにはオススメできる。だが、観客を選ぶ映画であるため、興行的な成功は難しいかもしれない。