数年前からサルマーン・カーンのハリウッド・デビュー作「Marigold」が話題になっていた。映画自体は2005年に完成し、インド国際映画祭で上映もされていたが、なかなか一般公開されなかった。その「Marigold」が遂に2007年8月17日に封切られた。ハリウッドの映画監督が撮ったインド映画ということで、一見の価値がある。
監督:ウィラード・キャロル
制作:トム・ウィルハイト
音楽:シャンカル=エヘサーン=ロイ
作詞:ジャーヴェード・アクタル、トゥルース・ハーツ
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:アリ・ラーター、サルマーン・カーン、イアン・ボーエン、スチトラー・ピッライ、ナンダナー・セーン、ヴィカース・バッラー、シモン・スィン、ヴィジェーンドラ・ガートゲー、キラン・ジューネージャー・スィッピー、グルシャン・グローバー
備考:PVRアヌパム4で鑑賞。
マリーゴールド・レクストン(アリ・ラーター)は米国でそこそこ有名な女優で、ロケのためにインドに来ていた。だが、空港で荷物をなくし、迎えが来なかったためにタクシーでゴアまで行かなければならず、しかも映画のプロデューサーが逮捕されて撮影はキャンセルになっていた。ゴアで出会ったラーニー(スチトラー・ピッライ)は彼女をインド映画のロケ現場へ連れて行く。監督はマリーゴールドを気に入り、彼女に役をオファーする。その映画の題名は「Pyaar Bina Zindagi Kya Hai(恋がなければ人生じゃない)」。主役はラージ(ヴィカース・バッラー)とシャーズィヤー(シモン・スィン)。この映画の振り付けを担当していたのがプレーム(サルマーン・カーン)であった。 マリーゴールドはプレームから踊りを習う。最初は全く踊れなかったマリーゴールドであったが、プレームに恋し始めたことをきっかけに才能を発揮し、監督や主演俳優たちを驚かせるほど上達する。 実はプレームはラージャスターン州の王家の御曹司であった。妹の結婚式があり、プレームは実家に帰る予定だったが、それにマリーゴールドを誘う。 プレームの家族はマリーゴールドを歓迎するが、プレームが彼女を恋していることをすぐに悟り、困惑する。なぜならプレームにはジャーンヴィー(ナンダナー・セーン)という許嫁がいたからである。父のマヘーンドラ(ヴィジェーンドラ・ガートゲー)は厳格な人物で、息子が他の女性と結婚することを認めなかった。また、ジャーンヴィーは米国に住んでいたが、結婚式にやって来た。 プレームに許嫁がいたことを知ったマリーゴールドは傷心のまま立ち去るが、ジャーンヴィーが彼女を追い掛けて来た。ジャーンヴィーはマリーゴールドに、プレームが自分のことを愛していないと打ち明ける。 一方、プレームはバーで一人の白人男性と出会う。彼と飲んでいる内に、その男はマリーゴールドの恋人のバリー(イアン・ボーエン)で、マリーゴールドを探しにインドまでやって来たことが分かる。プレームは酔い潰れたバリーを家に連れて帰る。 マリーゴールドとバリーは意外な再開を果たす。また、実はバリーとジャーンヴィーは過去に恋人関係にあった。プレームはジャーンヴィーと結婚することを承諾する。プレームとジャーンヴィーの結婚式を行われることになった。だが、ジャーンヴィーはプレームがマリーゴールドを愛していることを知っていた。マリーゴールドとバリーは去って行ったが、ジャーンヴィーはプレームの護衛のヴィクラム(グルシャン・グローバー)に後を追わせた。 結婚式の日。プレームは結婚の儀式を済ませ、花嫁のベールを上げた。てっきりジャーンヴィーだと思っていたが、それはマリーゴールドであった。マヘーンドラとジャーンヴィーが、プレームを驚かせるために仕組んだのであった。同時にバリーとジャーンヴィーの結婚式も行われた。
インド映画は、「歌って踊ってばかりいる」、「言葉が分からなくても分かるぐらい単純」、「何もかもごちゃ混ぜになっている」など、数々の不名誉なレッテルを貼られている。ヒンディー語映画の愛称である「ボリウッド」という名前ですら、「ハリウッドの劣化コピー」というイメージが付きまとうため、蔑称と考えられることがある。しかし、インド映画にはインド映画の方程式があり、それはインド映画誕生以来100年の歳月をかけてゆっくりと着実に醸成されて来たものである。「どうしたらインド人を最高にハッピーにできるか」がずっと研究されて来た結果がインド映画の今ある形なのであり、それは時代の変遷と人々の趣向の変化と共に進化もしてきた。だから、そういう蓄積のないハリウッドの映画監督がいきなりインド映画形式の映画を作ることは、ハリウッド映画を普通に撮るよりも数倍困難なことである。
「Marigold」のウィラード・キャロル監督は、「My Heart, My Love」(1999年)などの映画監督のようだ。ハリウッドの映画監督といっても、一流に分類される人物ではないだろう。それはそれでいい。キャロル監督はこの映画を撮る前に、インド映画を100本観て研究したと豪語している。その言葉が示すように、「Marigold」の大筋はインド映画の典型的な展開を踏襲していた――偶然の出会い、ときめき合う二人、しかし相手には許嫁がいてお見合い結婚する運命、自分にも恋人がいる、お見合い結婚が行われようとする、そこでどんでん返し、愛する二人は結ばれる――そして、登場人物の全てが幸せになって結末を迎える。これをインド映画的と言わずして何と言おう?
だが、そういうお決まりの筋を描く方法にセンスが感じられなかった。ロマンス映画だったら、誰でも結末は予想できる。だが、そこへ行きつくまでの過程を楽しむために映画館に来ているのだ。数学では、答えよりも答えに行きつくまでの過程で採点されるが、インド映画もエンディングよりもエンディングへ行きつくまでの過程が重要なのである。残念ながらキャロル監督は、インド映画の表面をなぞっただけで、深いところまで到達できていなかった。
また、主演のアリ・ラーターもインド映画のヒロインに適した女優ではなかった。華が足りない上に、インドへの愛情を感じないのである。インド人キャストの中に溶け込めていない印象を受けた。
サルマーン・カーンはスクリーン上でお調子者キャラと優等生キャラを使い分ける極端な男である。先日公開され、今年最大のヒット作のひとつになりそうなコメディー映画「Partner」(2007年)ではお調子者キャラ全開であった。一方、「Baghban」(2003年)や「Phir Milenge」(2004年)では、天使のようなよい子ちゃんキャラを演じていた。この「Marigold」では優等生キャラのサルマーンだった。僕は、サルマーンが本領を発揮できるのはお調子者キャラ以外にはないと思う。この映画の彼も気持ち悪かった。
思うにサルマーン・カーンのファン層は、インドでは英語を理解し、英語映画の雰囲気を愛好する層とあまり重なっていないため、彼のハリウッド進出は、インド本土ではあまり経済効果がないのではないだろうか。
音楽はシャンカル=エヘサーン=ロイだが、「Marigold」の曲は外れだ。耳に残る曲が全くない。インド映画風ミュージカル映画ということで、いくつかダンスシーンが挿入されるが、それらにも特に素晴らしいものはない。
ロケはムンバイー、ゴア、ジョードプル、アーグラーなどで行われたようだ。ムンバイーのタージマハル・ホテルとインド門、エレファンタ島、ジョードプルのメヘラーンガル城塞、アーグラーのタージマハルなどが出て来た。
言語は基本的に英語である。時々ヒンディー語のセリフも入るが、重要なものはない。僕が見たのは英語版だったが、全てのセリフがヒンディー語のヒンディー語版も上映されているようである。
「Marigold」は、ハリウッドの映画監督が見様見真似で作ったインド映画である。インド映画の文法を完全に理解しておらず、感情移入できない映画になってしまっている。サルマーン・カーンのハリウッド・デビュー作という点以外、注目すべき要素はない。