日本のインド映画ブームには数度の波があるようだが、僕は明らかに「Muthu」(1995年/邦題:ムトゥ 踊るマハラジャ)世代になる。1998年に日本で公開され、短くも強力なインド映画(正確にはタミル語映画)ブームを巻き起こした同作品を僕も渋谷で鑑賞した。日本では映画好きを自称する人々は偏屈な芸術映画志向になる傾向が強く、僕もその方向へ進みつつあったが、「ムトゥ」を観て映画の本当の面白さを知り、娯楽映画の世界に引き戻されてしまった。そして、インドに行ってみたいと強く思わされた。そうなると行動は早く、翌年春、実際にインドの地を踏むことになった。デリーの空港に降り立った僕は、タミル語映画に触発されていたこともあり、一刻も早く南インドを目指したい気持ちで一杯だった。だが、僕も日本人初心者ツーリストの悲しき王道を通ることになり、カシュミール人経営の怪しい旅行代理店へ直行となった。そこでは執拗にシュリーナガル行きを勧められた。シュリーナガルは隅から隅まで危険な街という訳ではないが、悪質旅行代理店につかまると、ダル湖に浮かぶ名物ハウスボートに軟禁に近い形で宿泊させられ、お金が底を尽きるまで、または帰りの飛行機が出る直前まで、そこに「まるで家族の一員になったかのように」厚遇され、歓待されて過ごすことになる。僕も一歩間違えば初めてのインド旅行がシュリーナガルで終わってしまうところだったが、南インドへ行きたいという強い念があったため、「ノー」といえる日本人になることができた。そもそも、インドに留学する際も、本当はタミル語留学をしたかった。だが、当時タミル語留学の情報が少なすぎたことと、まずはヒンディー語をマスターしておいた方が何かと便利だろうとの思いがあったため、デリーに留学することになった。とうとうそのままデリーに居ついてしまい、ヒンディー語とヒンディー語映画三昧の日々を送ることになったが、タミル語とタミル語映画はいつまでも特別な存在である。そして、「ムトゥ」の主演、ラジニーカーントも、アミターブ・バッチャンに馴染んだ今でも心のスーパースターのままである。
2007年6月15日は、インド映画全体にとって少し特別な日だった。その日、ヒンディー語映画界のスーパースター、アミターブ・バッチャンが特別出演する「Jhoom Barabar Jhoom」(2007年)と、タミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーント主演の「Sivaji: The Boss」が同時公開されたのである。通常、デリーではタミル語映画はほとんど上映されないが、「Sivaji」に限ってはかなり大規模に上映が行われており、ラジニーカーント人気の特別さを雄弁に物語っていた。ヒンディー語映画界においてアミターブ・バッチャンは「皇帝」の異名を持つ大スターだが、単純に出演料を比較すると、インド全体では実はラジニーカーントに匹敵する俳優は存在しない。ラジニーカーントこそインド最大のスターなのである。それでも、寡作のラジニーカーントに比べるとアミターブ・バッチャンは数をこなしているので、出演料の比較だけで比べるのは単純過ぎるだろう。どちらにしろ、南北の大スター同士の対決という見出しほどメディア受けするものはない。だが、残念ながら「Jhoom Barabar Jhoom」は失敗作に終わってしまった。ある程度の作品ならアミターブとラジニーカーントの雌雄を決することもできたかもしれないが、これではまともな勝負にならない。一方、インド映画史上最大の予算8億ルピーを投じて制作された「Sivaji」の方は、2年振りのラジニーカーント主演作ということもあり、世界中で大ヒット中である。
「Sivaji」は全世界同時公開を銘打っていたため、てっきりラジニーカーント映画がカルト的人気を誇る日本でも公開されるかと思っていた(日本でラジニーカーントが人気なのはインドでも有名である)。6月末に日本に一時帰国する予定だったこともあり、どうせなら日本で日本語字幕付きで見ようと考えていたが、どうも日本ではまだ公開されていないらしいことが分かった。そこで、それならインドにいる内に見ておこうと、帰国前の忙しいときに「Sivaji」が上映されているPVRナーラーイナーへ向かった。前作「Chandramukhi」(2005年/邦題:チャンドラムキ 踊る!アメリカ帰りのゴーストバスター)もデリーで公開されたのだが、そのときは英語字幕付きでかなり助かった。今回もそれを期待していたのだが、残念ながら字幕はなし。観客はタミル人オンリー。タミル語はほとんどチンプンカンプンのため、映画の批評ができるほど理解はできなかった。だが、一応思ったことを書き留めておこうと思う。
まず、57歳のラジニーカーントがいつまでもスクリーン上で若々しいのが嬉しかった。スクリーン外でのラジニーカーントは全くの別人だ。頭は禿げ上がっているし、身体は老人である。しかし、映像の魔力なのか、映画に登場するラジニーカーントは不老不死の薬でも飲んだかのようにいつまでも変わらない。その点では、アミターブ・バッチャンの方が実生活とスクリーンでの差が少ない。カツラの噂もあるが・・・。
ストーリーは、米国でITエンジニアとして働き、巨万の富と共にインドに帰って来たシヴァージ(ラジニーカーント)が、慈善事業として大学病院を創立しようと奮闘するというものである。十分なお金があるのに奮闘しなければならないのは、政治家や官僚の汚職と戦ったり、ライバルの妨害を克服したりしなければならないからである。おまけとして、一目惚れした女の子タミララシ(シュリヤー)とその家族の心を勝ち取るための戦いも戦う。一時は一文無しになってしまうが、不屈の闘志と共に再起し、大学病院を完成させ、ライバルに引導を渡す。
「ムトゥ」でも、「両手に金を持っていれば、その金を使うことができる/喉元まで金で詰まっていれば、その金に使われる」みたいな、拝金主義や物質主義に対する批判的メッセージがあったが、「Sivaji」の最後も、金に目を奪われた者の哀れな末路を描き出しており、ただの娯楽作品ではなく、非常に高度なレベルのメッセージが込められている映画に思えた。他方で、ヒンディー語映画よりも暴力的な展開が目立ち、この作品は、タミル人のよりアグレッシブなメンタリティーを象徴しているのかもしれないと思わされた。
ラジニーカーント映画には必ず決め技が出て来るが、今回はガムをかっこよく口に放り込む動作であった。他にもサングラスやコインを派手な効果音と共に自由自在に操って見得を切っていた。アクションシーンではラジニーカーントは相変わらず無敵の強さを誇り、たった一人で悪党の群れを一網打尽にしていた。特に楽器屋で繰り広げられる戦いは、コメディーとアクションの見事な融合となっていた。アクションにこれだけ気合を入れているヒンディー語映画はない。
ARレヘマーンの音楽や、プラブデーヴァーらによる踊りもノリノリであった。タミル語映画はダンスシーンでもヒンディー語映画より一歩先を進んでいる。特に冒頭、ラジニーカーントの顔を腹に描いた腹踊りバックダンサーたちが踊りを踊る「Balleilakka」が強烈であった。音楽とダンスの方が本体なのではないかと思われるほどだ。
一番興味があったのが、インド映画史上最大の予算をどこにつぎ込んだのか、という点であった。「Lagaan」(2001年/邦題:ラガーン クリケット風雲録)でも予算は2.5億ルピーといわれている。「Sivaji」にはその3倍以上の予算をつぎ込まれたというのだから、期待せざるを得ない。だが、鑑賞した結果、いまいちどこに大金が費やされたのか、はっきりしなかった。敢えていうならダンスシーンであろう。ラジニーカーントが中世の王様に扮して踊る「Vaaji Vaaji」などのセットはすごかった。ダンスシーンやアクションシーンでCGもかなり使われていたが、CGでリアルさを追求するハリウッドとは全く逆のベクトルの使い方で、CGをCGと分かる形で面白おかしく使っていた(この傾向は昔から指摘されている)。逆に言えば、ダンスシーンやアクションシーンをそぎ落としたら、非常にシンプルで低予算な映画になってしまうようにも思えた。あとはラジニーカーント自身のギャラであろうか?
ヒロインのシュリヤー・サランは、「Shukriya」(2004年)などのヒンディー語映画にも出演しており、少しだけ馴染みがあった。当時は有望な新人女優が登場したと思ったが、その後あまりヒンディー語映画に出ていなかった。だから一発屋で終わってしまったかと勘違いしていたが、実は南インドを主な活躍の場とする女優であった。ラジニーカーントと共演したことは彼女のキャリアの中で間違いなく大きなターニングポイントとなるだろう。いかにもタミル人受けしそうな魚の形の目をした女優。それでいて細身で、ヒンディー語映画界のトレンドとも合致するため、もしかしたらヒンディー語映画でも目にする機会が増えて来るかもしれない。踊りもうまかった。
過去のタミル語映画のパロディーがあったり、「Chandramukhi」のシンボルである「ラカラカラカラカ・・・」が出て来たり、オマケ要素も盛りだくさんだった。「ムトゥ」の流れを汲む、完全に娯楽に徹し切った娯楽大作であった。言葉が分からなくても楽しめたが、タミル語が分かったらもっと面白い映画だろうなぁと思わされた。また、映画開始前にはラジニーカーントの次回作と思われる「Sultan」という映画の予告編が流れた。一時俳優引退が噂されていたラジニーカーントも、まだまだ現役で活躍する積もりのようだ。実生活の老衰したラジニーカーントを見るともう無理なんじゃないかと危惧してしまうが、スクリーン上のラジニーカーントを見ると、まだまだいけそうだ。