カンナダ語映画としては初の汎インド的大ヒット作になった「K.G.F: Chapter 1」(2018年)。カルナータカ州に実在するコーラール金鉱を舞台にした壮大なフィクション映画であった。「Chapter 1」という題名の通り、元々数部にわたって作られる計画の作品であり、第1部の大ヒットを受けて、第2部の製作が始まった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で撮影には支障が出たようだが、ヒンディー語映画界のスターも起用し、カンナダ語映画史上初となる10億ルピーの予算を掛け、前作よりさらにスケールアップした第2部が、2022年4月14日に公開された。カンナダ語版がオリジナルだが、タミル語、テルグ語、マラヤーラム語、そしてヒンディー語の吹替版も全国同時公開された。
監督は前作に引き続きプラシャーント・ニール。主演も当然変わらず、カンナダ語映画界の「ロッキングスター」ヤシュ。ヒンディー語映画界からはサンジャイ・ダットとラヴィーナー・タンダンが起用されており、重要な役回りを演じる。他に、シュリーニディ・シェッティー、アチユト・クマール、プラカーシュ・ラージなどが出演している。
第1部と第2部のストーリーは連続しており、第1部から鑑賞する必要がある。
ちなみに、まず鑑賞したのはヒンディー語版だが、2023年7月14日から日本での公開が決まったことで、カンナダ語版を日本語字幕付きで鑑賞した。このレビューはその2回の鑑賞にもとづいて書いている。
時は1978年。前作でコーラール金鉱(KGF)を支配していたガルラを殺し、民衆の支持を得てKGFの新たな支配者となったロッキー(ヤシュ)。ラージェーンドラ・デーサーイーの娘リーナー(シュリーニディ・シェッティー)を人質に取り、グル・パーンディヤーン(アチユト・クマール)、アンドリュース、ラージェーンドラ・デーサーイーの協力を強引に取り付け、金鉱の掘削を急ピッチで進めた。 KGFを作り上げた故スーリヤヴァルダンの弟アディーラー(サンジャイ・ダット)は、死んだと思われていたが生きていた。アディーラーはKGFを襲撃し、リーナーを誘拐する。ロッキーは単身アディーラーに立ち向かうが、銃撃を受けて倒れる。アディーラーはわざと彼を逃がす。ロッキーが重傷を負ったことでKGFの支配権は揺らぎ、その影響はインド亜大陸西海岸に及んだ。そこで回復したロッキーはドバイに飛び、アフリカからインドまでの金塊密輸を支配するイナーヤト・カリールと交渉する。インド亜大陸西海岸の支配権は再びロッキーのものとなり、彼はカリールからカラシニコフ銃も調達する。コーラールに戻ったロッキーは圧倒的火力でもってアディーラーを圧倒し、彼に瀕死の重傷を負わせる。 時は1981年になった。中央政界ではラミカー・セーン(ラヴィーナー・タンダン)が首相に就任した。中央捜査局(CBI)のカンネガンティ・ラーガヴァンからロッキーについてのブリーフィングを受けたセーン首相はロッキー打倒に動く。だが、逆にロッキーは首相官邸を訪れ、セーン首相を脅して帰って行く。彼女が主導する政党の政治家たちはほとんどがロッキーに買収されており、彼への攻撃は失脚を意味したのだ。また、なぜロッキーがそこまで金に執着しているのかを知ったリーナーはロッキーを見直し、彼に愛の告白をする。二人は結婚する。一方、アディーラーはロッキーへの復讐の機会を虎視眈々とうかがっていた。 リーナーが妊娠をロッキーに伝えたとき、セーン首相の後押しを受けたアディーラーがKGFを急襲する。あアディーラーにはアンドリュースやラージェンドラも付いていた。リーナーは銃弾を受けて死ぬが、怒ったロッキーは反撃し、アディーラーを殺す。セーン首相は空軍をKGFに差し向けるが、既にロッキーはいなかった。KGFに住んでいた人々は避難をし、ロッキーが用意した新しい街に移住した。ロッキーは、ありったけの金塊を積んだ貨物船に乗ってインド洋を航行していた。セーン首相は攻撃を命じ、KGFは爆撃され、ロッキーの乗った貨物船も金塊もろとも沈没した。
公開と同時にインド全土で記録を塗り替える大ヒットとなり、100億ルピー以上の興行収入を叩き出した超弩級のカンナダ語映画だが、その興行的成功とは裏腹に、誰もが容易に認められるような分かりやすい名作ではなかった。むしろ問題作である。
第1部からそうだが、全編に渡ってアドレナリン分泌を刺激するようなシーンが続くが、緩急がなく、ずっと「急」の状態である。まるでハイライトだけを散りばめた予告編を2時間48分ずっと見せられているかのような作品で、観ていてとにかく疲れる。
しかしながら、もしかしたらZ世代にはこういう映画が受けるのかもしれない。Z世代は「タイパ」を重視し、映像作品を早送りで観る傾向にあるとされるが、「K.G.F」シリーズは最初から早送りのようなテンポでストーリーが進む。少しでも中だるみのシーンがあると飛ばされてしまうので、中だるみを作らず、終始クライマックスのつもりで編集しているのではないかと考えるようになった。そうだとしたら、「K.G.F」シリーズは映画という娯楽形態の新たな章を開いたのかもしれない。
スターシステムはインド映画に共通する特徴だが、「K.G.F」シリーズにおいてスターシステムはかつてないほど強力で、主人公のロッキーは完全無欠の無敵キャラだ。タミル語映画界のスータースター、ラジニーカーントに勝るとも劣らないスーパーヒーローである。戦いで負けなしなのはもちろんのこと、都合のいいときに都合のいい場所に現れる神出鬼没さを発揮し、彼の行うことは全てうまく行く。彼のその無敵のヒーロー振りを黙って受け入れられるかどうかが、この映画を楽しめるか否かの重要な分かれ目になるだろう。
ストーリーがあまりに荒唐無稽で、油断すると消化不良に陥ってしまうのだが、前作はまだスケールが小さかったため、マシだった。今回は、インディラー・ガーンディー首相をモデルにした女性政治家ラミカー・セーンが登場するなど、インド全土やインド現代史に触れるほどスケールアップしている。
ロッキーはほぼ一貫して無敵なのだが、ストーリー上の必要があるときだけ無謀な行動をし、その結果、銃弾に倒れ、弱さも見せる。ヒロインのリーナーとの恋愛ははっきりいってあってないようなものだ。リーナーがロッキーに突然愛の告白をし、二人は結婚することになるが、彼女の変心や二人の関係についてロジカルな説明はほとんどない。あるとしたら、後述するが、ロッキーがなぜ金に執着しているのかを彼女が知り、彼の人間的な一面を認めたということだ。ただ、冷静に考えれば、それがどうしたというものである。そしてリーナーは妊娠した瞬間に殺されてしまう。ヒロインとは名ばかりの、ほとんど見せ場のない出演だった。ロッキーがリーナーに「お前は娯楽だ」と言い放つ男尊女卑シーンがあるが、彼女は残念ながらその娯楽にさえもなっていなかった。
インド映画の切り札は母と子の関係だ。ロッキーがKGFの支配者になり、金塊を急ピッチで掘り出させる理由には、母親の誓い、そして母親との誓いが関係していた。母親は息子に、貧しい出でも支配者になれると言い聞かせ、息子は母親に、世界中の金をプレゼントすると誓う。ロッキーの全ての行動の原動力は、死んだ母親であった。これはインドでは美談と捉えられることになるのだろうが、傍から見れば迷惑な話だ。母親の誓いと母親との誓いを実現するため、ロッキーは多くの人々を殺し、数々の犯罪に手を染めたのである。個人的な母子の約束が、インド全土を震撼させる大事件を引き起こしてしまった。
ロッキーとリーナー、そして彼の母親の関係を観察すると、インド映画のプロットに隠れされた方程式が見えてくる。「K.G.F」では強力なスターシステムが機能しているが、ヒーローのクールさを演出するため、彼の愛情を横に向かわせず、上に向かわせているのである。上とはつまり母親のことだ。インドの価値観では、母親に対して絶対的な愛情を発露するヒーローはクールなのだ。「K.G.F」シリーズのストーリーそのものが彼の母親に対する愛情や憧憬を起点としていた。その一方で、恋人に対して弱みを見せるような愛情は、ヒーローのクールさに悪影響を与えてしまうため、極力控えられる。愛しい人に服従するのではなく、愛しい人を服従させるような強い男でなければならない。ロッキーは、アディーラーに誘拐されたリーナーを救出しに現れるものの、それがリーナーの心に彼への愛情を生じさせたりはしない。その際にロッキーはアディーラーに撃たれて倒れてしまい、リーナーは必死に彼の看病をするが、それも彼女の母性的な愛情を喚起するものではなかった。彼女がロッキーを自分のパートナーとして受け入れたのは、ロッキーが死んだ母親と交わした約束のためにこれまであらゆる犯罪や危険を冒してきたことを知ったときだ。特に日本人女性にとって、リーナーがロッキーの深いマザーコンプレックスを見て彼に惚れてしまうという流れはなかなか理解しがたいのではないかと思うが、スターシステムという補助線を入れることでだいぶ分かりやすくなるだろう。
ロッキーは、母親には絶対的な愛情を抱いている一方で、父親に対しては罰といってもいい仕打ちをしている。ロッキーの父親は飲んだくれで、母親を困らせてばかりいた。ロッキーはKGFの支配者になった後、依然として飲んだくれていた父親を見つけ出し、母親の墓守をさせる。母親への愛情が強すぎるあまり、父権の否定とも取れるような描写がなされていて興味深い。インド映画では一般的に家父長主義が強いのだが、「K.G.F」シリーズではその逆転が見られたといえる。
ちなみに、通常、ヒンドゥー教徒が死ぬと、火葬の後に遺灰を水に流す。よって、土葬をしないので、墓も作らない。だが、カルナータカ州ではブラーフマンなど一部カーストを除き、ヒンドゥー教徒でも土葬をする習慣がある。よって、ロッキーの母親の墓が存在してもおかしくないのである。
貧しい者が王者になるというプロットにも注目したい。下層の人間が下剋上で支配者に上り詰めるというパターンは南インド映画で特に好まれるのだ。「K.G.F」シリーズがロッキーを通して一貫して発信していたのは、持って生まれた運と人々からの祈り(支持)さえあれば、どんな出自であっても王者になれるという、貧しい人々へのエールである。必ずしも平易な構成ではない「K.G.F」シリーズがここまでインド全土で熱狂的に受け入れられた理由のひとつを挙げるならば、インドの人口の大部分を占める経済的弱者の琴線に触れるストーリーを提供できたことにあるのではないかと感じる。
汎インド映画を標榜するテルグ語映画「RRR」(2022年)でもヒンディー語映画界からアジャイ・デーヴガンとアーリヤー・バットが起用されていたが、「K.G.F: Chapter 2」では、ヒンディー語映画界のスターであるサンジャイ・ダットとラヴィーナー・タンダンが出演していた。サンジャイ・ダットは、「Agneepath」(2012年)で演じたような悪役のイメージで今回、主人公ロッキーのライバルを憎々しく演じていた。元々、筋肉派の男優であるため、こういう役はお手の物だ。ラヴィーナー・タンダンは1990年代から2000年代に掛けて活躍した女優で、最近は彼女が主演したネットドラマ「Aranyak」(2021年)も話題になった。最近また活動を活発化させており、この「K.G.F: Chapter 2」で演じたラミカー・セーン首相役も彼女の復活を強力に後押ししている。
カンナダ語版を観たことで、元からヒンディー語の台詞や歌詞が使われていることに気付くことができた。ボンベイのシーンでは現実を反映してヒンディー語の台詞が多くなるし、セーン首相も基本的にはヒンディー語を話していた。言語という観点からも、このシリーズが、カルナータカ州のみならず、インド全土の市場をターゲットにした野心的な汎インド映画であることが分かる。
「K.G.F: Chapter 2」は、比較的地味なイメージのあったカンナダ語映画が全身全霊を掛けて創り上げた汎インド的な超大作「K.G.F」シリーズの第2部であり、2022年のインドにおいてテルグ語映画「RRR」を抜いて興収1位になった。カンナダ語映画が1位を取るのは史上初だ。だが、普通の作りの映画ではなく、このような映画がトップに躍り出たことについては今後慎重に検証する必要がある。まだ完結ではなく、「Chapter 3」を匂わす終わり方だったが、この勢いが次も続くのか、見守っていきたい。