
2026年2月20日公開の「Do Deewane Seher Mein」は、コンプレックスを抱えた2人の男女がお見合いをし、付き合い、コンプレックスを克服して結婚するまでを描いたロマンス映画である。
プロデューサーは大御所サンジャイ・リーラー・バンサーリー、監督は「Mom」(2017年)などのラヴィ・ウダヤワル。主演はスィッダーント・チャトゥルヴェーディーとムルナール・タークル。
他に、イーラー・アルン、ジョイ・セーングプター、アーイシャー・ラザー、サンディーパー・ダル、ディープラージ・ラーナー、モーナー・アンベーガーオンカル、アチント・カウル、ナヴィーン・カウシクなどが出演している。
ちなみに、ヒンディー語ができる人ならポスターの題名を見て「おや?」と思うだろう。「Do Deewane(2人の狂人)」まではいいが、「सहर」はおかしくないか、と。「सहर」は「朝」という意味だが、ここではあまりしっくり来ない。ここは「町」「街」という意味の「शहर」であるべきで、直訳すれば「2人の愛に狂った人が街に」といった意味になるはずだ。
だが、この題名に映画の主題の一部が隠されていた。主人公のシャシャーンクは、「sh」の音を発音できず、「s」と言ってしまうコンプレックスを抱えていた。もっといえば、この主人公のフルネームは「シャシャーンク・シャルマー」であったが、彼が発音すると「ササーンク・サルマー」になってしまっていた。さらに悪いことに、彼が恋することになる女性の名前は「ローシュニー・シュリーヴァースタヴァ」であり、彼が発音すると「ロースニー・スリーヴァースタヴァ」になってしまう。
「sh」がうまく発音できないのは個人的なものではなく、ビハール州辺りで生まれ育った人々に共通する悩みである。シャシャーンクもビハール州の州都パトナーの出身であった。ちょうど日本人が「l」の発音を苦手としているのに似ている。
韓国企業のムンバイー支社に勤めるシャシャーンク・シャルマー(スィッダーント・チャトゥルヴェーディー)は、「sh」の音を「s」と発音してしまうコンプレックスを抱えており、それを皆に笑われるのではないかと恐れ、スピーチを大の苦手としていた。シャシャーンクは家族が勝手に決めたお見合いに付き合わされ、ファッション雑誌の出版社で働くローシュニー・シュリーヴァースタヴァ(ムルナール・タークル)と出会う。ローシュニーは、幼い頃のトラウマから自分の鼻にコンプレックスを抱えており、四六時中だて眼鏡を掛けていた。シャシャーンクはローシュニーを気に入るが、ローシュニーはシャシャーンクとの結婚を拒否する。シャシャーンクは、自分の発音のせいだと落ち込む。
それでもローシュニーのことが忘れられなかったシャシャーンクは、同僚のアニルに焚き付けられたこともあって、ローシュニーに連絡を取る。ローシュニーはシャシャーンクを無視し続けるが、次第に気になっていき、ようやく彼をコーヒーに誘う。これがきっかけでシャシャーンクとローシュニーはデートを重ねるようになる。お互いのコンプレックスについても打ち明け合うが、まだ克服できていなかった。
シャシャーンクは、父親ディーパク(ディープラージ・ラーナー)に強制されて、別の女性ソニアとお見合いする。だが、その場面をローシュニーに目撃されてしまう。ローシュニーは、元恋人サーヒルに結婚直前で振られたトラウマを思い出し、彼との関係を絶とうとする。だが、やはり二人は惹かれ合っており、なかなか完全に関係を断ち切れなかった。結局、家族に二人がデートをしていたことが知られてしまい、なし崩し的に婚約式の日取りが決められる。シャシャーンクとローシュニーはそれに乗っかることにし、仲直りする。
婚約式が終わり、シャシャーンクとローシュニーはクマーオン地方に旅行に行く。だが、そこで二人は再びケンカをする。ローシュニーは決して眼鏡を外そうとせず、シャシャーンクは上司シェーカル(ナヴィーン・カウシク)に逆らえなかったのが原因だった。
ムンバイーに戻ったローシュニーは、姉のナイナー(サンディーパー・ダル)の言葉によって、シャシャーンクはありのままを受け入れてくれる素晴らしい男性だと気付かされる。また、クマーオン旅行中にシャシャーンクが撮った彼女の写真が最優秀賞になり、街頭に大きく展示されることになった。その写真に写ったローシュニーは眼鏡をしていなかった。ローシュニーは眼鏡を外す勇気を得る。一方、シャシャーンクはシェーカルから、年次会議の司会を任され、怖じ気づいて辞表を提出した。だが、ありのままの発音でいいと開き直り、会議に飛び入り参加して見事に司会を務める。大仕事を終えた後、シャシャーンクはローシュニーに改めてプロポーズする。
2025年からヒンディー語映画界ではロマンス映画の復権が観察されるが、「Do Deewane Seher Mein」も、じっくり煮詰めるタイプの上質なロマンス映画であった。ただ、いかにも現代的なのは、ヒーローとヒロインがどちらも従来のヒーローやヒロインらしくなかったことだ。シャシャーンクは発音にコンプレックスを抱え、ローシュニーはルックスにコンプレックスを抱えていた。つまり、どちらも自己肯定感の低い人間だった。
シャシャーンクは、マーケティングの仕事をしていながら、発音を笑われるのではないかと恐れ、人前で話すのを大の苦手としていた。面接、プレゼンテーション、司会などの仕事を任されると逃げてばかりいた。これでよくクビにならずに5年も勤められたと驚くほどだ。ローシュニーは、ファッション雑誌の会社で働きながら、自分の鼻が醜いと悩み、絶対にだて眼鏡を外そうとしなかった。姉ナイナーは自信に満ちた美人であり、彼女との対比もローシュニーのコンプレックスに拍車を掛けていた。
コンプレックスを抱えた人は、自身が気にしているコンプレックスを他人も注目していると考えがちだが、意外に他人は全く気にしていないものだ。シャシャーンクは、発音が変だからお見合いで断ったのではないかとローシュニーに言うが、ローシュニーはそんなこと全く気にしていなかった。シャシャーンクは、ローシュニーが変だと悩んでいる鼻についてやはり全く気に掛けていなかった。だが、それでも彼らが長年悩んでことであり、たとえ恋人に認められたとしても、すぐに克服はできなかった。やはり、最後は自分で乗り越えなければならない。「Do Deewane Seher Mein」は、一応ロマンス映画の体裁を取ってはいるが、主題になっているのは自分とのありのままの姿を自分で受け入れるまでの個人的な戦いである。それをシャシャーンクとローシュニーは互いに支え合うことで愛を育む構成になっている。
コンプレックスの克服と共に、ローシュニーのエピソードから、人々のコンプレックスを助長するメディアの批判も行われていた。ファッション雑誌の表紙には肌の白いモデルが選ばれ、美の標準を作り出していく。それが多くの女性たちの心に肌の色に対するコンプレックスを植え付けていく。ローシュニーの姉ナイナーのエピソードでは、夫の好みの体型になろうとして自分を見失う姿が描かれていた。これらのエピソードを通して、ありのままの自分を受け入れ、自信を持って生きていくことの大切さが説かれていた。
主演の二人は現在ヒンディー語映画界で着実にキャリアアップしているスター予備軍の俳優たちだ。シャシャーンク役を演じたスィッダーント・チャトゥルヴェーディーは、コンプレックスを抱え自己肯定感の低い現代インド人男性を自然体で演じていた。料理上手というキャラも現代的だった。ローシュニー役のムルナール・タークルは、決して不細工な女優ではないと思うのだが、鼻にコンプレックスを抱えるという、従来のヒロイン像とは少し外れた役柄を果敢に演じた。この二人のケミストリーも良好だった。
シャシャーンクは韓国企業勤めのインド人であった。この設定は斬新だ。架空の企業名だったが、家電メーカーらしく、サムスンやLGをイメージしているのだろう。韓国人も発音が苦手な音があるので、そこから彼のコンプレックス克服につながっていくのかと予想していたが、それは外れた。韓国人キャラが重要な役割を果たすこともなかった。
「Do Deewane Seher Mein」は、ありのままの自分を受け入れることでコンプレックスを克服し、自信を持って生きていく自信を与えてくれる自己啓発的な映画だ。それがロマンス映画でコーティングされている。自信満々のヒーローやヒロインが登場する映画ではなく、派手さはないが、とても誠実な映画だと感じた。興行的には失敗に終わったようだが、もっと評価されていい作品である。
