
2025年11月24日にインド国際映画祭(IFFI)でプレミア上映され、同年11月28日に劇場一般公開された「Gustaakh Ishq(無礼な恋)」は、愛と情熱に満ちたウルドゥー語ガザル詩の雰囲気漂うロマンス映画である。
プロデューサーはインドを代表するファッションデザイナーのマニーシュ・マロートラー。彼にとっては初のプロデュース作品になる。監督は「Hawaizaada」(2015年)のヴィブ・プリー。脚本家・作詞家としても知られた人物だ。作曲はヴィシャール・バールドワージ、作詞はグルザール。このコンビは今まで数々の名曲を生み出してきた。
キャストは、ヴィジャイ・ヴァルマー、ファーティマー・サナー・シェーク、ナスィールッディーン・シャー、シャリーブ・ハーシュミー、ローハン・ヴァルマー、ナターシャー・ラストーギーなどである。
1998年、オールドデリー。ナワーブッディーン・サイフッディーン・レヘマーン・リズヴィー、通称パッパン(ヴィジャイ・ヴァルマー)は、亡き父親から受け継いだウルドゥー語の出版社を存続させようと奮闘していた。父親の古い友人にアズィーズ・ベーグ(ナスィールッディーン・シャー)という詩人がいることを知る。彼の詩集は今まで一度も出版されていないという。パッパンはアズィーズを探し出し、パンジャーブ州のマレールコートラーを訪れる。
パッパンはまず、アズィーズの娘マンナト、通称ミニー(ファーティマー・サナー・シェーク)と会う。だが、ミニーは、父親は絶対に出版を認めないと言い、パッパンを追い返そうとする。パッパンは諦めず、自分でアズィーズの店を探し出す。アズィーズは市場で時計修理屋を営んでいた。パッパンはアズィーズに弟子入りする。アズィーズは気を良くし、彼を弟子として迎え入れる。自宅に招かれたパッパンはミニーとも顔を合わせる。ミニーはあきれてしまうが、彼の下心については黙っていた。
パッパンはアズィーズの使用人ブーレー(シャリーブ・ハーシュミー)と仲良くなり、彼の手配で近くに宿を見つけ、アズィーズの家に通うようになる。また、ミニーにも惹かれていく。ミニーには夫がいたが既に離婚していた。パッパンとミニーは外でデートを重ねるようになる。
一方、デリーではパッパンがなかなか帰って来ないので、弟のジュンマン(ローハン・ヴァルマー)がやきもきしていた。ジュンマンが電話をしてもパッパンはなかなか出なかった。とうとうジュンマンはマレールコートラーまで出向き、母親(ナターシャー・ラストーギー)が心臓発作を起こしたと嘘を付いてパッパンを無理やりデリーに連れ帰る。そのとき、アズィーズは急に視力を失い病院に運ばれ、ミニーはパッパンを必要としていたが、彼はミニーに状況を伝える暇もなくデリーに戻ってしまった。
ジュンマンは、父親の出版社を売って携帯電話店にしようとしていた。母親は賛成ではなかったが金に困っており、受け入れざるをえなかった。パッパンも弟を説得することができなかった。あと半月もすれば店を明け渡さなくてはならなくなった。パッパンは母親からアズィーズと父親の話を聞く。父親もアズィーズの詩集を出版したがっていたが、あるときアズィーズは父親から借金をして姿を消した。それでも父親はアズィーズの帰りを待ち続け、そのまま死んでしまった。それを聞いたパッパンは再びマレールコートラーへ向かう。
出版社の閉鎖までもう時間がなかった。パッパンはアズィーズをデーラー・ナーナク・バーバーに連れて行き、詩集を出版するように説得する。だが、アズィーズは首を縦に振らなかった。そこでパッパンは最終手段に出て、ブーレーを使ってアズィーズのノートを盗ませる。アズィーズは、かつての恋人アムリターを裏切り死なせてしまった悲しい過去をミニーに語り、アムリターのためだけに詩を書いてきたと明かす。だから彼は出版したくなかったのだった。それを盗み聞きしたパッパンは、せっかく手に入れたノートを手放し、立ち去る。その直後、パッパンは交通事故に遭い、重傷を負う。
回復したパッパンはデーラー・ナーナク・バーバーの階段井戸に行き、願を掛ける。その瞬間、アズィーズは息を引き取る。マレールコートラーに戻ったパッパンはアズィーズが死んだことをミニーから知らされる。ミニーはアズィーズのノートとカセットテープを渡す。カセットテープにはアズィーズの遺言が録音されていた。彼は、パッパンがかつての親友の息子であることに気づいていながら彼を受け入れていたことを明かし、出版の許可を与える。だが、パッパンはアズィーズの墓へ行き、そのノートを捨てる。全ての詩が出版される必要はないという考えにパッパンも至ったのだった。
3年後。パッパンはデーラー・ナーナク・バーバー駅で書店を営んでいた。彼は列車にミニーが乗っているのに気づき駆け出す。列車に飛び乗ったパッパンはミニーと再会し抱き合う。
時代は1998年、ちょうどカラン・ジョーハル監督の「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)が話題になっている頃だった。この時代でなければならなかった理由はあまり見当たらなかったが、ウルドゥー語の出版社が次々に閉業していった時代ということだろうか。オールドデリー在住の主人公パッパンが父親から受け継いで何とか経営していた出版社も閉業の危機にあった。
何とかベストセラーを出して経営を立て直したかったパッパンは、亡き父親の旧友アズィーズの詩集を出版することを思い付く。アズィーズはかつてデリーで名を馳せた詩人であったが、現在は消息不明だった。彼の詩集は一度も世に出たことがなく、もし出版すれば大ヒットする可能性があった。
だが、アズィーズは頑固な人間で、簡単には出版の許諾をもらえそうになかった。そこでパッパンは詩人の卵を装ってマレールコートラーに移住したアズィーズに近づき、何とか出版に乗り気にさせようと画策する。アズィーズはマレールコートラーでしがない時計修理屋をして生計を立てていた。彼の家には、バツイチの娘ミニーと使用人のブーレーが住んでいた。
パッパンはアズィーズから詩のレッスンを受けるうちに愛と情熱のウルドゥー語詩の世界にドップリはまっていく。そして、詩作の腕も上げていく。それと平行してミニーにも惹かれ、彼女との距離を詰めていく。もちろん、アズィーズから習ったばかりの詩才をフル活用してミニーを口説いていた。ウルドゥー語詩への理解を深めると同時にミニーとの愛にも沈み込んでいく前半の展開はこの映画のもっとも美しい部分だ。ファッションデザイナーがプロデュースしている作品だけあって登場人物が着ている衣装も群を抜いて気品がある。ちなみに前述の「Kuch Kuch Hota Hai」で衣装を手掛けたのもマニーシュ・マロートラーである。
だが、後半の展開には疑問を感じた。パッパンはアズィーズやミニーに入れ込んでいくにつれて、デリーに住む母親や弟ジュンマンのことを忘れていく。最終的に彼はアズィーズの詩が書かれたノートを手に入れるものの、そのときには既に出版社は売り払われた後だった。しかもパッパンはアズィーズが今までどんな思いでそれらの詩を大切に保管してきたのかを知り、もはや出版する意欲も消え失せる。
パッパンとミニーの関係も描写が不足していたと感じた。3年後のシーンでパッパンとミニーは再会し抱き合うが、この3年の間にも二人の人生にはさまざまな出来事があったはずで、それを割愛されていきなり再会を見せられてもいまいち感傷的になれない。さらに付け加えるならば、パッパンとジュンマンの関係も丁寧に描かれていなかった。雰囲気はとてもいい映画だが、これらの不足は雰囲気だけで押し切れるほど小さくなかった。
痛みや傷がなければいい詩人にはなれないというのはインドでよく言われることだ。パッパンもアズィーズに弟子入りして詩作に没頭するが、彼の人生には痛みや傷があまりなかった。アズィーズの死、ミニーとの別れ、そして母親やジュンマンを捨ててまでミニーを追い続けた3年間、これらの経験がパッパンを詩人として完成させたといえるのかもしれない。だが、このテーマもいまいちはっきりと描写し切れていなかった。
では、愛についての映画かと問われれば、それも腑に落ちない。パッパンはアズィーズのアムリターに対する強い愛情を理解する。だが、アズィーズから託された詩を出版せずに捨ててしまっており、それで果たしていいのか疑問に感じる。パッパンのミニーに対する愛情も曖昧だ。もしミニーと再会したかったら、アズィーズの詩を出版し、それでもってミニーを呼び寄せた方がよかったのではなかろうか。また、アズィーズの詩を出版するのは、パッパンの亡き父親の夢でもあった。パッパンは勝手な解釈によって詩集の出版を諦め、父親の夢も実現させられなかった。
この規模の映画としては音楽や歌詞にとても力が込められていた。ヴィシャール・バールドワージとグルザールのゴールデンコンビが作詞作曲しているため、優れた歌曲にならない方がおかしい。ウルドゥー語詩がテーマの映画らしく、高尚な語彙がちりばめられた格調高い歌詞とメランコリックなメロディーが特徴である。
パッパン役を演じたヴィジャイ・ヴァルマーは「Jaane Jaan」(2023年/邦題:容疑者X)などに出演していた俳優だ。脇役での起用が多いが、実力はある俳優である。ただ、ミニー役のファーティマー・サナー・シェークの方が格上であり、本作での存在感でも彼女の方が勝っていた。もちろん、アズィーズ役を演じた大ベテラン俳優ナスィールッディーン・シャーは達人の域に達した絶妙な演技を見せていた。
「Gustaakh Ishq」は、経営難に陥っているウルドゥー語出版社を題材にしながら、残り火のように静かに燃えるウルドゥー語文学の世界へと観客を誘うユニークな作品である。前半の展開は特に気に入った。だが、後半になると主人公の行動から芯が失われ、グリップ力がなくなり、主題が不明瞭になる。興行的にも大失敗に終わった。ウルドゥー語詩の魅力が伝わる作品なので、もっとうまくまとめて興行的にもインパクトを残してほしかった。
