
2025年9月12日公開のテルグ語映画「Miraai: Super Yodha」は、インド神話をモチーフにしたスーパーヒーロー映画である。ヒンディー語映画「Brahmastra Part One: Shiva」(2022年/邦題:ブラフマーストラ)の方向性と似ている。
監督は「Karthikeya」(2014年)などで撮影監督を務めたカールティーク・ガッタムネーニ。主演は「Hanu-Man」(2024年/邦題:ハヌ・マン)のテージャ・サッジャー。他に、マンチュー・マノージ、ジャガパティ・バーブー、ジャヤラーム、シュリヤー・サラン、リティカー・ナーヤク、ラージ・ズトシー、タンジャ・ケラーなどが出演している。また、ラーナー・ダッグバーティがカメオ出演している。さらに、テルグ語オリジナル版のナレーションはプラバースが担当している。
「Miraai: Super Yodha」は汎インド映画で多言語で展開された。テルグ語オリジナル版に加えて、ヒンディー語、タミル語、カンナダ語、マラヤーラム語、ベンガル語、マラーティー語の吹替版が用意された。さらに、中国語版まで作られたようであるが、中国で公開されたという情報はない。鑑賞したのはヒンディー語吹替版である。
題名は日本語の「未来」とは無関係のようであるが、中国語版の題名が「未来」と伝えられているので、やはり関係があるのかもしれない。ストーリーの中で一瞬だけ日本が登場する。
紀元前232年、カリンガ戦争で大量の死者を出したことを後悔したアショーカ王は、自らの力を9つの書物に分散し、それを守る8人の戦士と1人の僧侶を任命した。彼らは代々書物を守り続けた。
時は流れ2000年。アンビカー・アーシュラムで9つ目の聖典アマラグランタを守るアンビカー・プラジャーパティ(シュリヤー・サラン)は恐ろしい未来を予知し、8人の戦士たちを召集する。だが、彼らは自身の力を過信し、アンビカーの忠告を聞かなかった。妊娠中だったアンビカーはヒマーラヤ山脈に上り、聖仙アガスティヤ(ジャヤラーム)に会って助言を得る。アガスティヤはアンビカーに、生まれてくる子供を捧げるように言う。アンビカーは生まれたばかりの我が子をヴァーラーナスィーに置き去りにし、行方をくらます。
一方、聖典タントラグランタの守護者アンガマ・バリ(ジャガパティ・バーブー)に育てられ、9つの書物を集めると無敵の力を得ることを知った孤児マハービール・ラーマー(マンチュー・マノージ)は、呪術によってアンガマの村を破滅に追い込もうとするも、アンビカーの犠牲によって食いとめられる。ラーマーは9つの書物を探す旅に出る。
さらに時は流れ2024年。アンビカーの子供ヴェーダ(テージャ・サッジャー)はヴァーラーナスィーからコールカーターを経由してハイダラーバードに流れ着き、スクラップ工場で暮らしていた。ラーマーは既に6つの書物を手に入れていた。アンビカー亡き後アンビカー・アーシュラムを守ってきたバンシー(ラージ・ズトシー)からヴェーダを探し出す使命を受けたヴィバー(リティカー・ナーヤク)はヴェーダを見つけ出す。その頃、アンビカー・アーシュラムはラーマーの部下ユカ(タンジャ・ケラー)によって滅ぼされていた。ユカはハイダラーバードまでやって来てヴィバーを捕らえ、連れて行ってしまう。
後に残されたヴェーダは、左胸に出現した模様を手掛かりにして、記憶の中の母親やヴィバーが語っていた最強の武器「ミラーイ」を探すためにヒマーラヤ山脈に向かう。そこでアガスティヤに会い、教えを受け、洞窟の中で聖鳥サンパーティーの守るミラーイを手に入れる。ミラーイは棒の形をしていたが、いまいち使い方が分からなかった。
このときまでにラーマーは日本やモロッコを巡り7つ目と8つ目の書物を手に入れていた。残るは9つ目の書物だけだった。ヴェーダはアガスティヤと共に9番目の書物を探し旅をするが、その途中でユカの襲撃を受ける。ユカはヴィバーも連れていた。ヴェーダはミラーイを使ってユカを撃退する。そして、ヴィバーと共にカーマキャ島へ飛ぶ。そこでヴェーダはアンガマ・バリと出会い、母親の死に様を教えられる。ヴェーダは9つ目の書物アマラグランタを手に入れるが、ラーマーの襲撃を受ける。ラーマーはアマラグランタを手にし、最強の力を得る。だが、ヴェーダが持っていたミラーイはラーマ王子の弓コダンダに変化し、放たれた矢がラーマーを消滅させる。
カラグプルの倉庫では、謎の男(ラーナー・ダッグバーティ)が錬金術の実験をしていた。彼はミラーイの存在を知り、それを奪取すべく動き出す。
インド史上初の大帝国を築き上げたマウリヤ朝のアショーカ王から始まり、「ラーマーヤナ」などのインド神話をモチーフにして神話的な力を得たスーパーヒーローが、不老不死の力を得て世界を支配しようとする巨悪に立ち向かう壮大なスケールの物語である。ただ、壮大なのは構想に留まっており、それを映像化するにあたってかなり妥協しなくてはならなかったように見える。たとえば、アショーカ王は自らが宿す霊力を9つの書物に分割したという設定であったが、その9つの書物それぞれに関連したエピソードが用意されているわけではなかった。悪役のラーマーが登場したときには既に6つの書物を手中に収めており、「Miraai: Super Yodha」では残り3つの書物を巡る攻防が描かれただけだった。
その3つの書物が隠されていた場所が、インド、モロッコ、それに日本であった。日本人として日本のシーンには格別な関心を引かれるわけだが、残念ながらインド映画の常として、あまりその正確性に注意が払われることはない。この「Miraai: Super Yodha」に登場する日本でも、「ヤクザ」や「ニンジャ」といったお決まりのモチーフが飛び交い、ヘンテコな日本、ヘンテコな日本語が映し出される。ただ、それはお互い様なので、目くじらを立てる必要はないだろう。
むしろ「Miraai: Super Yodha」の弱点といえるのは、ストーリーに説得力がないという基本的な欠陥である。その原因は、各登場人物の動機づけに失敗していることだ。誰が何のために動いているのか、なぜそうなっているのか、よく分からない。「ミラーイ」という神秘的な武器を巡る物語かと思えば、アショーカ王が用意した9つの書物の物語にもなっている。ラーマーが狙っているのはあくまで9つの書物であり、「ミラーイ」ではなかった。ラーマーにも9つ目の書物がどこにあるのか分からないのだから、ヴェーダがわざわざ探し出す必要もなかった。ヴィバーの行動にも謎が多い。なぜわざわざ売春宿に宿泊しているのか。それ以外にも細かい部分で訳の分からない部分がいくつもあり、ストーリーをすっきりした気持ちで追うことができなかった。
スーパーヒーロー映画であるので、スーパーパワーの表現などでド派手なCGが期待されるわけだが、それも控え目で拍子抜けだった。アクションシーンに飛び抜けたものがある映画ではなかった。代わりに、スーパーヒーロー映画にしてはコメディー要素が強く混ぜ込まれていた。いかにもテルグ語映画らしい味付けではあるが、それによってB級映画感が出てしまっていたのは否めない。
「Miraai: Super Yodha」はスーパーヒーロー映画であると同時にアドベンチャー映画でもあった。冒険要素に注目すると、「ドラゴンボール」や「ワンピース」といった日本のマンガやアニメに似た雰囲気だと感じる。
ちなみに、アショーカ王はカリンガ戦争の後、仏教に帰依し、仏教の理念を国家統治の礎にしようとしたとされている。アショーカ王は支配地域各地に石柱や石碑を残したが、そこに使われた文字がブラーフミー文字だ。「Miraai: Super Yodha」で使われていた見慣れぬ文字はブラーフミー文字である。
「Miraai: Super Yodha」は、テルグ語映画界がまたひとつ送り出した、インド神話モチーフのスーパーヒーロー映画である。ただ、構想を大きく広げすぎている割にはそれをしっかり映像化できておらず、そのために完成度の高い映画とは感じなかったが、汎インド映画として大々的に多言語展開し、興行的には成功している。日本のマンガやアニメの感覚で観れば楽しめるかもしれない。
