Dhadak 2

4.5
Dhadak 2
「Dhadak 2」

 「Dhadak」(2018年)は、大ヒットしたマラーティー語映画「Sairat」(2016年)のヒンディー語リメイクであった。カーストを越えた恋愛を描いたロマンス映画であり、衝撃的かつ残酷な結末も話題になって、大ヒットした。2025年8月1日公開の「Dhadak 2」は、題名こそ「Dhadak」の続編を名乗っているものの、前作とはキャストもストーリーも全く関連していない。大ヒットしたタミル語映画「Pariyerum Perumal」(2018年/邦題:僕の名はパリエルム・ペルマール)のリメイクである点、カーストを越えた恋愛を描いている点、そしてカラン・ジョーハルなどがプロデューサーである点などに共通点を見出せるくらいだ。

 前作の監督はシャシャーンク・ケーターンだったが、「Dhadak 2」の監督は短編映画「Bebaak」(2019年)のシャーズィヤー・イクバールに交代した。彼女はウェブドラマ「Sacred Games」(2018-19年/邦題:聖なるゲーム)のプロダクション・デザイナーとして知られる人物でもある。また、前作の主演はイシャーン・カッタルとジャーンヴィー・カプールだったが、今作ではスィッダーント・チャトゥルヴェーディーとトリプティ・ディムリーが起用された。

 他に、ザーキル・フサイン、サウラブ・サチデーヴァ、ディークシャー・ジョーシー、ヴィピン・シャルマー、サード・ビルグラーミー、ハリーシュ・カンナー、プリヤーンク・ティワーリー、アーディティヤ・ターカレー、アバイ・ジョーシー、アヌバー・ファテープラー、マンジャリー・プパーラーなどが出演している。

 「鼓動」を意味する「Dhadak 2」は、カースト制度の中でも特に「ダリト」と呼ばれる不可触民に対する差別を扱った映画であり、映画の完全な理解のためにはいくつかの前知識が必要だ。たとえば、BRアンベードカルについては必ず知っておかなければならない。アンベードカルはダリト出身の弁護士であり、憲法を起草したことで知られるが、一方でダリトを仏教徒に集団改宗させたことでも有名だ。インドではアンベードカルはファーストネームの「ビーム」で呼ばれることが多く、「ジャイ・ビーム(ビーム万歳)」というキーワードを見たら、それを掲げている人は十中八九ダリトだと受け止めることになる。また、アンベードカルに従って仏教に改宗した人々は「新仏教徒(ネオブッディスト)」と呼ばれており、宗教上は仏教徒に数えられる。部屋にブッダのポスターが飾ってあるのを見たら、それも十中八九新仏教徒であり、ダリトであり、アンベードカルの支持者である。

 また、一般的にインド人の名前にはカーストが刻まれており、特に姓がカーストを示すレッテルになっている。インド人が姓まで名乗ると、それは自分のカーストを明かしていることになる。「Dhadak 2」では多くの登場人物の姓が示されるが、これは意図的に行われており、インド人観客なら各キャラクターのカーストを把握する。たとえばスィッダーント・チャトゥルヴェーディーが演じる主人公ニーレーシュの姓はアヒールワールだが、これは元々「チャマール」と呼ばれていたコミュニティーで、皮革業を生業とするダリトである。一方、トリプティ・ディムリーが演じるヒロイン、ヴィディの姓はバールドワージだが、これはブラーフマンのものである。

 さらに、「Dhadak 2」はカースト制度がヒンドゥー教に限られないことも示していた。ニーレーシュが通う大学の学長はイスラーム教徒で、ハイダル・アンサーリーという名前だったが、「アンサーリー」姓は機織職人を示し、インド社会では低カーストと見なされる。

 ダリトの家系に生まれ、差別を逃れて村からマディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールにやって来たニーレーシュ・アヒールワール(スィッダーント・チャトゥルヴェーディー)とその家族は、ダリトが集住するスラム地区ビームナガルに住んでいた。ニーレーシュの父親ナンドクマール(ヴィピン・シャルマー)はナウタンキーで女装して踊るダンサーであり、ニーレーシュは父親の職業を恥じていた。母親ビーナー(アヌバー・ファテープラー)には政治力があり、ビームナガルのまとめ役をしていた。ニーレーシュは弁護士になって力を得てダリトを救おうと考え、国立法科大学を受験した。ニーレーシュはハイダル・アンサーリー学長(ザーキル・フサイン)と面接し、ダリトの留保枠で合格した。

 ニーレーシュは大学で同じクラスになったヴィディ・バールドワージ(トリプティ・ディムリー)と出会い、恋に落ちる。だが、ヴィディはブラーフマンの家系であり、しかも代々弁護士の家系でもあった。同じクラスにはヴィディの従兄ロニー(サード・ビルグラーミー)も学んでいたが、ヴィディがニーレーシュに接近するのを苦々しい思いで見ていた。また、大学ではシェーカル(プリヤーンク・ティワーリー)というダリト学生政治家がダリトの地位向上を目指して学生運動を行っていた。ニーレーシュは勉強を優先し政治は避けていたが、シェーカルにはかわいがってもらう。

 ヴィディの姉ニミシャー(ディークシャー・ジョーシー)が結婚することになり、ヴィディは結婚式にニーレーシュを招待する。ヴィディの父親アルヴィンド(ハリーシュ・カンナー)はニーレーシュを呼んでヴィディには近づかないように警告するが、そこへロニーと仲間がやって来てニーレーシュをリンチする。ニーレーシュはヴィディに何も言わずに式場を後にする。以来、ニーレーシュはヴィディを避けるようになった。ヴィディは状況が掴めず、悶々とした毎日を過ごす。

 ニーレーシュは授業中にロニーに挑発されて暴行をし、退学寸前になる。それでもロニーの嫌がらせは収まらず、彼に泥を掛ける。この行為が原因でロニーは停学になるが、彼は腹いせにナンドクマールを侮辱する。ヴィディにもようやく状況が掴めてきて、なぜニーレーシュが彼女を避けるのかが分かった。ヴィディはカーストにかかわらずニーレーシュを愛しており、彼との結婚を望んでいた。

 ロニーは父親プラカーシュと共謀し、ダリトの殺人を請け負っていたシャンカルにニーレーシュ暗殺を依頼する。シャンカルはニーレーシュを人けのない場所に連れて行き、自殺を偽装して殺そうとするが、ニーレーシュは反撃する。そこにロニーが来たためニーレーシュは黒幕を理解し、彼を追いかける。ロニーは自宅に逃げ帰るが、ニーレーシュは公衆の面前でカースト差別を批判する。一方、目を覚ましたシャンカルは自殺する。

 この映画は明らかに、2016年1月17日にハイダラーバード大学で起きた博士課程学生ローヒト・ヴェームラーの自殺事件を下敷きにしている。この事件は「ダリト学生が大学からの差別的な処分を苦にして自殺した」とセンセーショナルに報道され、インド全土で抗議活動を引き起こした。後の調べでローヒトはダリトではなかったことが分かるが、カーストが今でもインド人の人生を左右していることを如実に示した。映画中に登場するシェーカルは、ローヒトをモデルにしていると断定していいだろう。

 ただ、「Dhadak 2」の主人公はシェーカルではなくニーレーシュである。ニーレーシュはダリトであり、歴史的に虐げられてきたコミュニティーの地位向上のためにインドで運用されている留保制度の恩恵を受けて名門の法科大学に合格する。彼は平等な社会を目指して弁護士になろうと決意するが、そのためには数々の差別を乗り越えなければならなかった。

 ニーレーシュは決してヒーロー然とした人物ではない。なるべく政治には関わらず、勉学に集中しようとする。彼は自分の出自をコンプレックスに感じていた上に、自分の父親が女装ダンサーということでさらに引け目を感じていた。上位カーストからの圧力に対して事なかれ主義でやり過ごそうとする場面が多く、立ち向かうよりも逃げることを選択しがちだった。

 ニーレーシュと恋仲になったのがヴィディであった。ヴィディのカーストはブラーフマンであり、しかも代々弁護士を輩出してきたインテリ一家だ。カーストの観点からも社会的階層の観点からも釣り合うカップルではなかった。だが、ヴィディはそんなことお構いなしにニーレーシュと恋愛し、彼との結婚も考えるようになる。

 「Dhadak 2」は、自らカースト差別を受けてきたニーレーシュの視点と、上位カーストとして何不自由なく過ごしてきたヴィディの視点から、現代インド社会におけるカーストの現状がかなり率直に映像化されている。ヴィディは、カースト差別が今でも残っていることを実感しておらず、「田舎の出来事かと思った」と語っていた。これは上位カーストの人間にとって残酷なほど正直な感想であろう。だが、ヴィディの家族自体にひどいカースト差別主義者がおり、ニーレーシュに暴行し、嫌がらせをし、挙げ句の果てに抹殺しようとした。カースト差別は農村のみに残る悪習ではなく、むしろ都市のインテリ層の意識に巣食っていた。

 シャンカルの存在も面白い。彼は、ダリト専門の殺し屋であった。だが、彼は自分のことを犯罪者だとは考えていなかった。むしろ、「社会の掃除屋」を自称していた。彼は、自殺や事故に見せかけて殺人することに長けていた。シェーカルの自殺も彼が偽装した可能性が高い。彼の暗躍は、自殺として報道されている事件の真相はもしかしたら殺人かもしれないということを示唆しているといっていいだろう。

 「Dhadak 2」の中心テーマはカースト差別であったが、他にもインド社会の問題について散発的に触れていた。たとえば言語による分断だ。ニーレーシュは英語が苦手だったが、これはヒンディー語ミディアムの学校を卒業したからだった。大学教授の中には英語でのみ授業をする人もいて、ニーレーシュは付いていくのに苦労していた。また、彼は英語が苦手であるために、現地語で裁判が行われる地方裁判所の弁護士しか目指していなかった。それに対しヴィディは、英語を学べば可能性が広がると言う。インド社会が、英語と現地語で分断されている有様を端的に示し、軽く問題提起していた。

 一瞬だけジェンダー差別にも踏み込んでいた。女性は高等教育を受けるよりも料理を学ぶべきであるとか、男性は男性として生まれただけで十分だとか、さらには女性のみが家の尊厳を背負うこととか、さまざまな女性差別にやはり軽く触れられていた。ヴィディが前の恋人と別れたのも、彼が「有害な男性性」に囚われた男性だったからだと語る場面もあった。おそらくやたらと威張り散らし女性を見下す男性だったのだろう。

 久々にラギングも見た。ラギングとはインドの大学に蔓延している新入生いじめの一種である。ラギングは法律で厳しく禁止されているものの、時々ラギングを苦にした自殺などの報道を目にする。また、ラギングを先輩後輩の親睦を深めるためのツールだとする考え方も根強い。「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)ではラギングが好意的に描かれていたが、それからも分かるようにラギングをカジュアルに考えている映画メーカーは少なくない。「Dhadak 2」ではニーレーシュや他の新入生が何度かラギングを受けているところを見ることができる。そのトーンはやや批判に傾いていたといえるが、やはり真っ向から糾弾するような論調ではなかった。

 「Dhadak 2」で感心したのは、ダリトがどのように差別と「戦う」べきか、その提案まで行っていたことである。上位カーストによる差別や抑圧に屈服しがちだったニーレーシュは、周囲の人々の影響によって、徐々に戦う姿勢を持ち始める。当初、彼は暴力に頼ろうとした。だが、それは母親に止められる。暴力で戦っても完全な解決にはならない。ではどうやって戦えばいいのか。「Dhadak 2」の結末は、勉強し、弁護士などの資格を取って、法治主義の枠組みの中で正論をぶつけるべきだという主張をしていたといえる。ニーレーシュはヴィディの父親に対し、「上位カーストの人々はダリトを汚いと考えているが、人間を人間と考えない上位カーストの方がよほど汚い」と喝破し、カースト差別の矛盾に弁論によって立ち向かった。

 スィッダーント・チャトゥルヴェーディーとトリプティ・ディムリーは2020年代にヒンディー語映画界を担うべき若手俳優たちだ。「Dhadak 2」での彼らの演技はそれぞれのキャリアベストと評価して差し支えないだろう。特にトリプティにはスター女優としての風格が出て来ており、既にA級女優に数えていいのではないかと感じる。ザーキル・フサイン、サウラブ・サチデーヴァ、ヴィピン・シャルマーなど、いわゆる曲者俳優たちの名演も見ものである。

 「Dhadak 2」はカースト差別を取り上げた非常に真面目な映画だが、ロマンス映画としても一定の完成度を誇っていた。それを支えたのが挿入歌の数々である。どの楽曲の歌詞もストーリーにマッチしており、映画を盛り上げた。特に映画の題名が入った「Bas Ek Dhadak」がテーマ曲になっていた。

 「Dhadak 2」は、インド社会に根強く残るカースト差別の現状を正直に取り上げた作品である。ロマンス映画として楽しむこともできるが、それだけではもったいない。上位カーストとダリトの間でカースト差別の見え方が全く異なることを鋭く突いており、思わずうならされた。もちろん、元ネタであるタミル語映画「Pariyerum Perumal」が優れていたからこその「Dhadak 2」であるが、北インドに合ったアレンジがうまくなされており、この映画ならではの価値もある。興行的には振るわなかったようだが、センシティブな問題に踏み入っていたことがその原因だと思われる。興行成績の不発がこの映画を避ける理由にはならない。必見の映画である。