Marco (Malayalam)

3.0
Marco
「Marco」

 2024年12月20日公開のマラヤーラム語映画「Marco」は、ハニーフ・アダニー監督の大ヒット映画「Mikhael」(2019年)の続編として作られた映画だ。ただし、単純な続編ではなく、「Mikhael」に登場した悪役マルコを主人公にしている。しかも、「Mikhael」の最後にマルコは死んだはずなので、前日譚かもしくはパラレルワールド扱いだと解釈できる。「Mikhael」のマルコがあまりにカリスマ的だったために、彼をフィーチャーしたスピンオフ映画が作られた形である。

 監督は引き続きハニーフ・アダニー。主演は「Mikhael」でマルコ役を演じたウンニ・ムクンダン。他に、スィッディーキー、ジャガディーシュ、カビール・ドゥハン・スィン、アビマンニュ・シャンミー・ティラカン、アンソン・ポール、イシャーン・シャウカト、ユクティ・タレージャー、ドゥルヴァー・ターカルなどが出演している。

 「Mikhael」を観ていないと楽しめないという作品ではなく、「Marco」だけを独立した作品として楽しむことも可能である。

 金密輸マフィア、ジョージ・ピーター(スィッディーキー)の息子で盲目のヴィクター(イシャーン・シャウカト)が何者かに殺された。ジョージの養子でヴィクターの兄マルコ(ウンニ・ムクンダン)は、イタリアに住んでいたが、ヴィクターの葬儀に出席するためインドに戻り、復讐を誓う。

 ヴィクターを殺したのは、同じく金密輸マフィア、トニー・イサーク(ジャガディーシュ)の息子ラッセル(アビマンニュ・シャンミー・ティラカン)であった。トニーの部下デーヴァラージ(アンソン・ポール)はこの機に乗じてジョージを暗殺しようとするが失敗する。マルコは、ヴィクターを殺したのはラッセルであることを知る。ラッセルはマルコを殺そうとするが失敗し、マルコの反撃を受ける。マルコがラッセルを殺そうとしたところ、トニーから電話が掛かってきて、ヴィクターの恋人イシャー(ドゥルヴァー・ターカル)を拉致していると伝えられる。イシャーは妊娠もしていた。マルコはラッセルを殺さず、ジョージはトニーと取引をすることになる。トニーはジョージの所有する金鉱山など、巨額の見返りを求めてきた。

 だが、マルコはデーヴァラージを捕らえ、拷問してイシャーの居所を聞き出す。マルコがその場所に向かうと、トニーの部下たちが大量に待ち構えていた。マルコは彼らを一網打尽にするが、そこにはイシャーはいなかった。そこでマルコはトニーの右腕を切り落とし、待ち構えていたラッセルに突き出す。ラッセルは父親を救うためにイシャーを解放しなければならなかった。ラッセルはトニーが幽閉された場所に向かうが、結局父親を助けることはできず死なせてしまう。

 ラッセルは兄サイラス(カビール・ドゥハン・スィン)に助けを求める。サイラスは残忍な屠殺者だった。サイラスはラッセルと多くの部下を引き連れてジョージの家に突入し、家族を次から次へ惨殺していく。マルコも制圧されてしまった。イシャーは出産中だったが、胎児を無理に引き出される。生き残ったのはジョージとマルコだけで、サイラスはイシャーから生まれたばかりの赤子を連れて去っていってしまう。

 マルコはヴィクターとイシャーの子供を救うため、サイラスとラッセルが待ち構える工場に一人で突入する。部下を皆殺しにした後、ラッセルを抹殺し、赤子を酸のプールに落とそうとするサイラスの首を切り落とす。

 「Mikhael」はマラヤーラム語映画らしく低予算で作られたアクション映画であることが分かり、まだ牧歌的な印象を受けた。だが、この間に状況がだいぶ変わった。汎インド的な成功を収める南インド映画が多く生まれ、マラヤーラム語映画も同じ夢を見るようになったのである。「Marco」は、オリジナルのマラヤーラム語に加えて、ヒンディー語、タミル語、テルグ語、カンナダ語の吹替版も作られ、インド全土で公開された。そして、目論み通り大ヒットしたのである。ちなみに、鑑賞したのはヒンディー語吹替版だ。

 「Marco」の特徴を一言でいえば暴力である。インド各地の映画産業の中でもっとも過激な暴力描写をしているのは一般にテルグ語映画界だと考えられているが、「Marco」はそのお株を奪うほど凄惨な暴力描写を売りとしている。まずはとにかく切断シーンが多い。手足が切断され、首が飛ぶ。特に中盤にチェーンソーが出て来る場面があるが、ここで次々に四肢が切断されていく。また、終盤に悪役サイラスによってジョージの一家が皆殺しに遭う場面がある。ここでは幼い子供たちが残忍な方法で殺されていく他、出産中のイシャーにまで容赦なく暴力が及ぶ。観ていてここまで嫌悪感を感じる暴力シーンはインド映画では初めてかもしれない。だが、大ヒットしたということは、そういう暴力が受けたのであろう。

 「K.G.F: Chapter 2」(2022年/邦題:K.G.F: Chapter 2)は、カンナダ語映画で初めて汎インド的な大ヒットとなった映画であった。「K.G.F」シリーズも暴力描写が過激なアクション映画であったが、それに輪を掛けて過激な「Marco」が同じく汎インド的な大ヒットになった事実は、いくつかのことを示唆している。まず、インドにおいて引き続きアクション映画優勢の時代が続いていることだ。今のところ、汎インド的な成功を収めようと思ったら、アクション映画に頼るしかないように見える。しかも、暴力描写を過激にすればするほど受けがいいという危険な兆候も見られる。マラヤーラム語映画界は、他の南インド映画とは一線を画した作品作りをしていると感じられるのだが、少なくとも「Marco」を見る限り、マラヤーラム語映画も汎インド的な潮流に乗っかってしまった。このままだと暴力の過激度を競い合うことにならないか心配である。

 とはいえ、暴力に拒絶反応を示すのではなく、あくまで表現の一部として受け止め、客観的に「Marco」を評価しようとするならば、やはりインド全国で大ヒットしているだけあって、娯楽映画として完成している。少なくとも「Mikhael」よりも完成度は確実に上がっているし、インドの他の地域で作られているこの種の映画と比べても遜色ない。ストーリーはいわば復讐の連鎖であり、決して気楽に観ることはできないのだが、今の時代そのものが既に暴力に満ちており、これは世相を反映しているといってもいいのかもしれない。

 マルコが一人で大量の敵を次々になぎ倒していく戦闘シーンがいくつかある。元々はブルース・リーの「燃えよドラゴン」(1973年)などに端を発する表現であろうが、近年のインド映画で強く感じられるのは「フォートナイト」や「PUBG」といったゲームの影響だ。一人称視点の無双系ゲームの爽快さを映像で表現しようとしていると思われ、「Marco」の戦闘シーンも長回しと一人称視点を駆使して臨場感ある戦いを演出しようと努力している。

 マルコ役を演じたウンニ・ムクンダンは、既に「Mikhael」でスターのオーラが出ていたが、この「Marco」にてスターの地位を確実なものとしたのではなかろうか。他地域の筋肉派男優たちと並んでも遜色ない肉体を持っており、顔も整っている。きっと、マラヤーラム語映画界の汎インド化を牽引していく立場になるだろう。

 「Marco」は何といってもインド最高レベルの過激な暴力描写で特徴づけられる映画だ。「Mikhael」のスピンオフ映画であるが、前作の予習は必須ではない。目を手で覆いたくなるような残虐シーンが多く、万人には勧められないが、マラヤーラム語映画に新時代を呼び込む作品であり、歴史の生き証人になっておく価値はある。