The Signature

3.0
The Signature
「The Signature」

 2024年10月4日からZee5で配信開始された「The Signature」は、脳内出血により昏睡状態になった妻の「DNR」への署名を巡って夫が葛藤するという物語である。DNRとは「Do Not Resuscitate」の略で、生命維持装置などによる延命治療を終わらせるための同意書である。マラーティー語映画「Anumati」(2013年)のリメイクだ。

 監督はガジェーンドラ・アヒレー。「Anumati」はアヒレー監督自身の作品であり、自らヒンディー語リメイクをしたことになる。主演はアヌパム・ケール。彼はプロデューサーも務めている。他に、マヒマー・チャウダリー、ランヴィール・シャウリー、アンヌー・カプール、マノージ・ジョーシー、ニーナー・クルカルニー、スネーハー・ポール、サンギーター・ジャイン、ケヴィン・ガーンディーなどが出演している。主演を含め、主要キャストには演技派が揃っている。

 アルヴィンド(アヌパム・ケール)はラクナウーの図書館で司書として35年勤めた後に定年退職し、マリハーバードの片田舎に家を建て、妻のマドゥ(ニーナー・クルカルニー)と静かな隠居生活を送っていた。マドゥの希望により夫妻はヨーロッパ旅行に出掛けようとするが、その矢先にマドゥは脳内出血で倒れ入院する。生命維持装置が付けられ、延命治療が行われたが、回復の見込みは少なかった。治療のための費用がかさみ、アルヴィンドの貯金は1週間で底を突いてしまった。息子のアーナンド(ケヴィン・ガーンディー)は父親にDNRへの署名を求めるが、アルヴィンドは頑として受け入れなかった。

 アルヴィンドは金策に走り出す。まずは娘アンジャリ(サンギーター・ジャイン)を訪ね、いくらかの資金援助を受ける。次にマリハーバードの自宅に戻り、親友のプラブ(アンヌー・カプール)に頼んで、家の買い手はいないか探してもらう。だが、家の売却のためにはアーナンドの署名が必要だった。母親の延命治療に反対だったアーナンドは署名を拒否する。そこでアルヴィンドはラクナウーへ行く。先祖代々の家があり、弟夫婦が住んでいた。アルヴィンドはその家を弟に売り、いくらかの金を作る。

 医者(マノージ・ジョーシー)はアルヴィンドにDNRの署名を勧めるが、やはりアルヴィンドは受け入れられなかった。しかし、いくら金を集めてもすぐにマドゥの治療費に費やされてしまう。アルヴィンドはラクナウーの図書館で祈る。すると、彼は偶然、かつての同僚アンビカー(マヒマー・チャウダリー)と再会する。アンビカーの自宅に招かれたアルヴィンドは、彼女が癌の末期にあることを知る。

 病院に戻ったアルヴィンドはDNRへの署名を決める。そこへアンビカーやプラブが訪れ、病院にマドゥの治療費を支払う。アンビカーが見ると、マドゥの指が動いており、反応があった。プラブがそれをアルヴィンドに知らせに行くが、絶望と疲労のためにアルヴィンドは死んでしまっていた。

 老いと死を主題にした作品である。映画中には、最愛の人の死を受け入れられないアルヴィンド、自分の死を静かに受け入れているアンビカーが登場すると同時に、老人の社会的な価値といった問題にも切り込まれている。ただ、終わり方が納得いかず、いい映画になり損ねているように感じた。

 この物語は、アルヴィンドがいかに妻マドゥの死を受け入れていくかをじっくりと描き出すことに集中すべきだった。アルヴィンドは妻をとても愛しており、植物人間状態になった彼女を自らの決断で死なせることは絶対にできなかった。だが、延命治療のためには多額のお金が必要で、しがない司書として働いてきた彼の手元には十分な資金がなかった。彼は金策に走ることになる。それと同時に、延命措置は本当に妻の希望なのか、彼の心が揺れ始める。マドゥは生前から自分の死の準備をしていたようで、自分自身に生命保険を掛けていた。過去にマドゥと交わした会話が思い出されてくるが、その中でも彼女はもし自分が先に死んだらアルヴィンドのことが心配だということも語っていた。

 さらに、アルヴィンドはアンビカーと出会う。一見するとアンビカーは幸せそうに暮らしていた。夫を既に亡くしていたが、悠々自適な生活を送っているように見えた。だが、夜になって就寝前の彼女を見ると、髪の毛がなかった。昼間の彼女はカツラをかぶっていたのだった。彼女は癌になり、化学療法によって髪の毛が抜け落ちていた。それでも、彼女から死に対する恐怖は感じられなかった。彼女との偶然の再会が、アルヴィンドにDNRに署名する勇気を与える。

 そのまま終わっていれば、軸がしっかりした分かりやすい映画になっていた。ところが最後の最後になって、意外な展開に走ってしまう。アルヴィンドがDNRに署名している間、アンビカーが病院にやってきて多額の金をマドゥの治療費のために支払う。続いてアルヴィンドの親友プラブもどこからか金を作ってきて病院に預けていた。つまり、マドゥを延命させようと思えばできる状態になっていた。ここに第一のぶれが生じていた。

 さらに、マドゥに急に回復の見込みが生まれる。ここでマドゥが回復したら、ハッピーエンドといえばハッピーエンドだが、非常に安易なハッピーエンドになってしまい、興醒めしてしまう。

 そう思っていたら、今度はアルヴィンドが遺体で発見される。DNRに署名した途端に精根尽きてそのまま絶命してしまったのである。プラブとアンビカーが彼の死を認識したところで映画が終わるため、その後マドゥが回復したのかどうかは分からない。

 このように、それまで静かにひとつの方向へせっかく進んでいた物語を、結末で急にかき回してしまったため、何がいいたいのかよく分からない映画になってしまっていた。

 途中で触れられていた、老人の社会的な価値という論点は興味深かった。マドゥの治療費捻出に困ったアルヴィンドは、新聞社へ行って妻に関する記事を出してもらえるか掛け合う。その新聞社では過去に心臓に疾患を抱えた子供の記事を載せたことがあった。その子の手術のために多額の寄付を集めることに成功し、その子供も助かった。アルヴィンドは同じ結果を期待して訪ねたのだが、担当者からは、「前途のある子供の記事だったから寄付が集まったが、老い先短い人の記事は効果がない」と断られてしまう。さらに、マドゥは主婦だったため、社会に多大な貢献をした人というわけでもなかった。それを聞いたアルヴィンドは、老人や主婦に対して冷たい世間に対して憤る。だが、このトピックがその後膨らまされることはなかった。

 病院が、患者やその家族の足元を見て高額な治療費や薬代を絞り取っていると糾弾する発言もあった。しかしながら、このメッセージについても中途半端で終わってしまった。金持ちでなければ命は助からないということはあるかもしれないが、見たところこの映画に登場した病院は、少なくともマドゥの延命治療に関して、真摯に対応していたと感じる。マドゥの延命措置を引き延ばしてアルヴィンドから搾り取れるだけ絞り取ろうとはしていなかった。むしろ、生命維持装置の不足とアルヴィンドの経済状態を理由に、彼にDNRへの署名を勧めていた。

 見ていて面白かったのは、インド人が金に困窮したときにどのような金策をするのかが垣間見られたことだ。やはりまずは貯金を切り崩していく。それで不足した場合は家族や親戚に頼る。ただ、インドの価値観では、父親が嫁いだ娘に支援を求めるのは非常に不名誉なことだとされていることも分かる。アルヴィンドは、退職金を使って妻と一緒に建てた家も売ろうとした。だが、これは息子の反対に遭ってうまくいかなかった。アルヴィンドはまた、先祖から受け継いだ家を持っていた。ただし、その所有権は弟との間で曖昧になっていた。その家には現在、弟夫妻が住んでいた。アルヴィンドは所有権を完全に弟に移し、その見返しとしていくらかのまとまった金を得ていた。

 演技面ではアヌパム・ケールの独壇場であった。ほぼ、彼の一人芝居といっていい。困窮し無力な老齢の元司書を絶妙な演技で演じ切っていた。演技派男優としての名を恣にする彼にとってはたやすい役柄だったことだろう。

 アンビカー役を演じたのはマヒマー・チャウダリーだ。彼女をスクリーンで観るのは久しぶりである。2000年代に一線で活躍していた女優だが、2006年の結婚を機にほぼ引退した。彼女は乳癌を患い、治療に成功した。彼女がアンビカーを演じたのは、自身と重ね合うところがあったからであろう。

 「The Signature」は、最愛の人の死といかに向き合えばいいかを突き詰めた作品である。ただ、最後の最後になってその深いテーマはぶれにぶれ、安易なハッピーエンドと突然のアンハッピーエンドの間に挟まれて崩壊する。主演アヌパム・ケールの演技は申し分ないし、マヒマー・チャウダリーのカムバックも嬉しいが、まとめ方で失敗しており、とても惜しい作品になっている。