Jugnuma: The Fable

4.0
Jugnuma: The Fable
「Jugnuma: The Fable」

 「Jugnuma: The Fable」は、2024年2月16日にベルリン国際映画祭でプレミア上映され、リーズ国際映画祭で作品賞を受賞した映画である。インドでは2025年9月12日に劇場一般公開された。「Jugnuma」とはおそらく名詞「ジュグヌー(蛍)」と接尾語「~ヌマー(~のような)」を掛け合わせた造語である。あえて日本語にするならば「蛍人」あたりが近いだろうか。そして、あえて既存のジャンルに当てはめるならばマジカルリアリズム映画ということになるだろう。お伽話的なオーラをまとったリアリズム映画である。

 監督は、カンナダ語映画の名作として名高い「Thithi」(2015年/邦題:ガウダ爺さんのお葬式)を撮ったラーム・レッディー。プロデューサー陣にはアヌラーグ・カシヤプやグニート・モーンガーの名前が見える。

 キャストは、マノージ・バージペーイー、プリヤンカー・ボース、ディーパク・ドーブリヤール、ティロッタマー・ショーム、ヒラール・スィッドゥー、アワーン・プーコートなど。

 「Jugnuma: The Fable」は、一見リアリズム映画に見えて、実際には詩的な描写の入る映画である。オープンな結末になっていて複数の解釈が成り立つが、真意を理解するためには、物語の中でラーダー(ティロッタマー・ショーム)の語るお伽話を押さえておく必要がある。それはいわゆる「パリヨーン・キ・カハーニー(妖精たちの物語)」と呼ばれるものだ。昔々、とても美しい国に住んでいた妖精が宇宙をさまよう内に地球に吸い寄せられてしまい、自分の正体を忘れて人間として暮らし始めた。仲間たちはその行方不明になった妖精を探し、やがて地球に住む妖精を見つけてサインを送る。自分を取り戻した妖精は仲間たちと共に妖精の国に帰る。こんな物語である。

 「Jugnuma: The Fable」の本編は、果樹園の経営者デーヴ(マノージ・バージペーイー)に仕えるマネージャー、モーハン(ディーパク・ドーブリヤール)の視点で語られる。

 1989年4月、ヒマーラヤ山脈のとある村。英領時代から先祖代々受け継いできた果樹園を経営するデーヴ(マノージ・バージペーイー)は、妻ナンディニー(プリヤンカー・ボース)、息子ジュジュ(アワーン・プーコート)と共に雪山を望む邸宅に住んでいた。最近、大学に通う娘ヴァーニヤー(ヒラール・スィッドゥー)が帰省してきた。

 デーヴは、果樹園に植えられた一本の木が燃えて黒くなったのを発見する。しばらくする内に燃えた木の本数が増えていき、その範囲も拡大していく。だが、誰の仕業か分からない。果樹園で農薬を散布していることに反発した村人たちがやっているのかと思ったが、どうもそういうわけでもなさそうだった。その後、パトワーリー(末端役人)、労働者のリーダーであるケーシャヴ、森林地帯に停泊する遊牧民たちなどが犯人として浮上し、村では疑心暗鬼が広がる。警察は果樹園労働者の何人かを手当たり次第に逮捕して拘留していた。だが、この異変は次第に山火事へと発展していった。デーヴはとうとうもっとも信頼していたモーハン(ディーパク・ドーブリヤール)にも疑いの目を向け、村に帰す。デーヴは妻と子供を実家に帰し、一人になった。その夜、彼は蛍の大群を見る。

 その後、デーヴの家族を見た者はいなかった。ただ、デーヴの書き置きが見つかり、果樹園の土地は村人たちに分配された。モーハンは邸宅とその周辺の土地を譲り受けた。村人たちは、デーヴたちが妖精だったのではないかと噂するようになった。

 映画の冒頭では、主人公デーヴは手作りの翼を背負って空へ飛び立つ様子が描かれる。一体これは何なのか。いきなり観客は大きな謎を突き付けられる。だが、その後は何事もなかったかのように物語が進む。基本的にはリアリズム手法で描写されており、冒頭で見せられたデーヴの飛翔シーンは幻だったのかと思う。しかしながら、その後も何度かデーヴが空に飛び立つシーンがあり、やはりこれも現実の内であることが分かる。そうすると、ますます謎が深まる。さらに、木が燃えるという不可解な事件が起こる。何者かによる放火なのかも分からない。分からないまま、やがてそれは山火事に発展する。なまじっかリアリズム映画なので、時々差し挟まれるファンタジー的映像が混乱に拍車を掛け、謎に謎が積み重なっていき、そのまま結末に至る。そんな不思議な映画である。

 木に火を付け、山火事を発生させていた犯人として示唆される人物は何人かいるのだが、おそらくそれらはどれも犯人ではない。デーヴの翼以外にマジカルリアリズム的な映像表現が見られるのは蛍である。デーヴが所有する山林には無数の蛍が飛び交っており、夜になるとまるで星空が地上に降り立ったかのようになる。その蛍が発火源になっているような描写が何回か見られた。その描写を真に受けるならば、蛍が木に火を付けていたのだった。

 では、これらの蛍は一体何者なのだろうか。その問いに対する明確な答えはない。だが、ラーダーの語るお伽話はそのヒントになっている。もしそのお伽話が真実ならば、デーヴが妖精ということになる。そう考えれば、彼が翼を付けて空を飛ぶことができるのも理解できる。そして、蛍はデーヴを探しに来た妖精の仲間たちということになる。蛍はデーヴにシグナルを送り、その真意を理解したデーヴは、妖精の国へ帰って行ったのである。

 そう解釈すれば「Jugnuma: The Fable」はまさにお伽話のような映画になる。だが、それで終わっていいのだろうか。注目すべきは、この物語がモーハンのナレーションによって進行している点である。もし翼も蛍もモーハンの作り話、または彼が見聞きした話であるならば、真実は別のところにある可能性がある。デーヴの正体が妖精で、妖精たちの住む美しい国へ帰って行ったのではなく、デーヴが果樹園を捨ててどこかへ行ってしまったこと自体が、地球に吸い寄せられた妖精なのではなかろうか。広大な果樹園の中で家族と共に暮らすデーヴは本当に幸せそうに見えた。これこそが、始まりもなく終わりもない妖精の国ではなかろうか。そこからデーヴは旅立ってしまったのである。

 では、なぜデーヴが旅立たなければならなかったのか。それは、せっかく彼が作り上げてきた、信頼と奉仕で成り立っていた理想郷が、ちょっとした事件をきっかけに疑心暗鬼の拡大を許し、村人たちや使用人たちとかつてのような関係が築けなくなってしまったからではなかろうか。猜疑心が楽園を焼け野原にする。そんなメタファーが込められた作品だと受け止めることもできる。

 マノージ・バージペーイーは終始口数の少ない抑え気味の演技をしていた。彼の持ち味はヒンディー語のセリフ回しにあるのだが、今回は大半が英語のセリフであった。モーハン役を演じたディーパク・ドーブリヤールも好演していた。特別出演扱いながらティロッタマー・ショームがピンポイントで印象的な演技をしていた。彼女の語るお伽話はこの映画の肝である。

 一応、ヒンディー語映画扱いではあるが、デーヴの家族は皆、子供も含めて流暢な英語を話す。全体で見ると、セリフの半分は英語だったのではなかろうか。ヒングリッシュ映画と呼んでも差し支えないだろう。おそらく村人たちとして起用された人々は本当の村人たちであろう。俳優ではとても真似できないような山の民ぶりであり、コテコテのローカルな方言を話していた。

 ロケはウッタラーカンド州で行われたようだ。遙か彼方に雪を抱いた連邦を望む非常に美しい地所であった。

 「Jugnuma: The Fable」は、現実とお伽話の微妙な狭間を往き来する詩的な物語で、映画全体が大きなお伽話のようだった。観客に解釈を委ねるような終わり方をしており、人それぞれで感じ方が異なる可能性がある。謎が次から次へと積み重なっていく中盤の展開はスリリングですらある。不思議な魅力を持った作品だ。