Joyland (Pakistan)

4.0
Joyland
「Joyland」

 インドの隣国パーキスターンで作られる映画は、ヒンディー語映画と血を分けた兄弟ということもあって、一般的にはインド映画と似た視点で鑑賞することができる。分離独立後、インドでは映画が特に発展した一方、パーキスターンではTVドラマが発展したという違いはあるものの、パーキスターンでも良質な映画が作られていることをインド人映画ファンの多くは認識している。「Khuda Kay Liye」(2007年/邦題:神に誓って)はインドでも公開され絶賛された。

 「Joyland」は、2022年5月23日、カンヌ映画祭でプレミア上映されたパーキスターン映画だ。「ある視点」審査員賞を受賞した上に、優れたLGBTQ映画に与えられるクィア・パルム賞にも輝いた。そう、「Joyland」は、「第三の性」ヒジュラーが登場するLGBTQ映画なのである。ちなみに、翌年にクィア・パルム賞を受賞したのが是枝裕和監督の「怪物」(2023年)だ。

 カンヌ映画祭で上映されたことからも察せられるように、一般的な娯楽映画の作りではない。むしろ、アート映画である。映画祭サーキット向けの映画かと思ったが、本国パーキスターンでも2022年11月18日に公開されている。さらに、日本では2024年10月18日から「ジョイランド わたしの願い」の邦題と共に劇場一般公開された。そのため、名古屋のセンチュリーシネマで鑑賞することができた。

 監督はサーイム・サーディク。ラホール出身、ラーワルピンディー育ち、コロンビア大学芸術学部で脚本と監督を学び、短編映画で高い評価を受けてきた。「Joyland」は彼にとって初の長編映画になる。ノーベル平和賞を受賞したパーキスターン人女性マラーラー・ユースフザーイーがエグゼクティブプロデューサーに名を連ねている。また、プロデューサーの一人アプールヴァー・グルチャランはインド人である。

 キャストは、アリー・ジュネージョー、ラスティー・ファールーク、アリーナー・カーン、シャルワト・ギーラーニー、サルマーン・ピールザーダー、ソハイル・サミール、サーニヤー・サイードなど。この中で、アリーナー・カーンはミス・トランス・パーキスターンに輝いたトランスジェンダー俳優である。この映画でもトランスジェンダー役を演じている。彼女はサーディク監督の前作「Darling」(2019年)でも主演を務めた。

 ちなみに、有料パンフレットでは「本作は、トランスジェンダーがトランスジェンダーを演じる、初めての南アジア映画」と書かれていたが、これは誤りである。少なくともヒンディー語映画では、かなり前にボビー・ダーリンなどのトランスジェンダー俳優がトランスジェンダー役を演じたことがあった。

 ハイダル(アリー・ジュネージョー)は、ラホールの旧市街で父親ラーナー・アマヌッラー(サルマーン・ピールザーダー)、兄サリーム(ソハイル・サミール)、兄嫁ヌッチー(シャルワト・ギーラーニー)、妻ムムターズ(ラースティー・ファールーク)と共に暮らしていた。サリームとヌッチーの間には3人の娘がおり、ヌッチーは4人目の子供を身籠もっていた。次に生まれるのは男の子だと期待されていたが、4人目も女の子だった。ハイダルは求職中であったが、ムムターズは美容院で働いていた。二人の間にまだ子供はいなかった。

 ハイダルは友人カイサルの紹介により、劇団のバックダンサーの仕事を得る。メインダンサーはビーバー(アリーナー・カーン)というヒジュラーであった。ハイダルの家族は保守的であり、仕事の詳しい内容は秘密にしていたが、後にムムターズにだけは打ち明けた。ハイダルは徐々にビーバーに惹かれていく。ハイダルが職を得たことで、父親は彼女が仕事に出ることを禁じる。ハイダルも父親に逆らうことはできなかった。ムムターズは泣く泣く仕事を辞め、家事に専念するようになる。

 そんな中、ムムターズは妊娠する。しかも、医者の診察によると、男の子とのことだった。だが、次第にムムターズは不安を募らせていく。一方、ハイダルはビーバーと一線を越え、夜な夜な情事に耽り、朝帰りするようになる。アマヌッラーの70歳の誕生日にムムターズは毒を飲んで自殺をする。

 葬式が終わった後、ハイダルは単身カラーチーへ行き、初めて海を見る。生前のムムターズと、一緒に海へ行く約束をしていたのである。ハイダルはそのまま海の中へと入っていく。

 カンヌ映画祭でクィア・パルム賞を受賞したということで、LGBTQを中心テーマにした映画だと思って鑑賞したのだが、必ずしもLGBTQだけを取り上げた作品ではなかった。そこで描かれていたのは、保守的な家父長制社会の中で、男性、女性、そして中間性、全ての人々が生きにくさを感じているという閉塞感であった。ヒジュラーのビーバーは、確かに差別も受けていたが、ダンサーとしての強い自尊心も持っており、どんな困難にも立ち向かう気概を持った人物として描かれていた。

 この映画は各キャラに分解して理解するといいだろう。まず、サリームとヌッチーは分かりやすい。彼らは、男児を尊び女児を蔑む男尊女卑社会を象徴している。この価値観はインドと完全に共通している。ヌッチーは、長男の妻として、男児を生むことを使命と考えていた。強要されてもいたし、自分でもそれを当然の義務だと受け止めていた。3人続けて女の子を産んでしまい、4人目こそは男の子だと期待していたが、やはり4人目も女の子だった。出産の日、家では山羊が屠られお祝いの準備が進められていたが、これは男児の出産を祝うための準備だった。女の子が生まれたときのヌッチーの表情は、まるでこの世の終わりであるかのようだった。この映画の中に、子供の性別に優劣を付ける風潮を疑問視する者は一人もいなかった。また、ヌッチーはムムターズとの対比において、オシャレに気を遣ったりする女性らしい女性としても描かれていた。

 ハイダルとムムターズの関係は、より現代的なものだった。ハイダルは無職であり、ムムターズは外で働いていた。インドやパーキスターンでは、夫が仕事をせず妻が仕事をする家庭は奇異な目で見られるのが普通である。ただ、ハイダルは家事にも積極的に参加して家庭を支えていたし、妻の稼ぎで食わせてもらっていることに対する後ろめたさもそれほど感じていないようだった。ムムターズの方も、仕事にやり甲斐を感じており、無職の夫を責め立てるようなこともしていなかった。後から明らかになるのだが、ハイダルはムムターズと結婚する前に、彼女が結婚後も仕事をすることを認める約束をしていた。また、彼が主夫になる含みも持たせてあった。「性的合意」ではないが、結婚後の夫婦の在り方をキチンと話し合った上で結婚した二人であった。事実、この二人の仲は非常に良く、理想的な夫婦ともいえた。

 ただ、ハイダルが就職したことで状況は一変してしまう。保守的な父親はムムターズの仕事を禁じ、家に主婦として閉じ込める。ムムターズは仕事を続けたいと主張するが、家族の中で彼女に味方する者は一人もいなかった。結婚前に約束をしたハイダルですら、父親の言いなりになり、彼女に家にいるように言う。後にムムターズは自殺をしてしまうが、その直接の原因は、やり甲斐を奪われ鬱憤が溜まっていたからであろう。

 ハイダルには、いわゆる「男性」的でない面がちらほら見受けられた。家庭内で、稼ぐ妻の尻に敷かれているのは前述のとおりだが、優しすぎて子山羊を屠ることもできず、ムムターズが代わってやっていた。さらに、ヒジュラーのビーバーに惹かれ、身体関係にまで至る。内面に強い女性性を持った男性だったのだろう。また、ビーバーはまだ「手術」をしておらず、女性器を持っていなかった。ビーバーは手術をするためにお金を貯めていたが、ハイダルはそれに賛成しておらず、「今のままでいい」と言う。もちろん、ハイダルは既婚者であり、ムムターズとの性交渉も当然あったと考えていいが、実のところ彼は女性として男性を受け入れたいと考えていたようである。ビーバーとの情事において、ハイダルは尻を突き出し、自分を後ろから犯すように促す。だが、ビーバーも、身体は男性だったが心は女性だった。ハイダルとビーバーは、どちらも男性を求める女性的な男性であり、「+」と「+」が反発し合うように、一緒になれない仲であった。単に「第三の性」といっても、「第三の性」同士が皆うまくいくわけではない難しさが描かれていた。

 他にもこの映画では従来とは異なる性の在り方が散発的に描かれていた。ヌッチーとムムターズが「ジョイランド」と呼ばれる遊園地に一緒に行くシーンがあるが、そこではこの二人の間に同性愛的な絆が見受けられた。ヌッチーが生んだ4人の女の子の内、一人はどうも男の子っぽい趣味を持っており、将来的に性別不合を起こす可能性が示唆されていた。

 ムムターズが、路地裏で自慰行為をする近所の男性を覗き見ながら自慰をするシーンがあった。これはムムターズが性的な欲求不満を抱えていることを示しているのかもしれないが、その一方で、彼女の中にも強い男性性があると受け止められるとも感じた。ムムターズは、ヌッチーとは異なって、あまり女性らしく着飾ることに興味を持っていなかった。美容院で働いてはいたが、その仕事振りもどちらかというと男性的であった。さらに、夜、夫婦の中で性的な主導権を握っているのも彼女であった。それらのことを考え合わせると、彼女が自殺した真の理由とは、妊娠という事実によって、自分が女性であることを完全に自覚せざるをえなかったからではなかろうか。

 ハイダルがムムターズの妊娠を聞き、号泣するというシーンがあったが、それについても同じような解釈が成り立つ。インドでもパーキスターンでも、普通、妻の妊娠を聞くと夫は喜ぶものだ。だが、ハイダルの泣き方は、そういう感情の表し方ではなかった。この日、ハイダルはビーバーに拒絶されていた。ただでさえ感情が不安定になっていた。その上で妻の妊娠を聞かされる。それは、彼が男性であることの証明であった。徐々に自分を女性と考え始めていたハイダルが、妻の妊娠によって自分がやはり男性であったと自覚するのである。

 このように考えていくと、「Joyland」の中核を成しているのはあくまでハイダル、ムムターズとその家族であり、ヒジュラーであるビーバーはどちらかというと外的な触媒である。彼女の人生に深く切り込もうとするような意図は感じられなかった。

 アマヌッラーと近所のおばさんファイヤーズの関係にも注目したい。ファイヤーズは10年ほど前に夫を亡くしており、それ以来、アマヌッラーの家を訪ねてはお菓子などをお裾分けしていた。彼女はアマヌッラーに会いに来ていたのだった。家族が「ジョイランド」に行っている間、ファイヤーズはアマヌッラーと二人きりとなる。彼らが何をしたのかは明示されない。ただ単に添い寝をしただけだと思われる。だが、この関係は家族にとって大問題となり、結局ファイヤーズは追い出され、出禁となる。

 おそらくアマヌッラーもファイヤーズに好意を寄せていたと思われる。もしかしたらこの二人の間には、それ以前から何らかの関係があったのかもしれない。だが、アマヌッラーも、自らが敷いた家父長制の犠牲者となり、ファイヤーズを受け入れることができなかった。彼がファイヤーズの前で失禁してしまう場面もあるが、これも男性性を強調してきたアマヌッラーにとっては屈辱的な出来事であった。男性も家父長制の中では弱みを見せる自由を失い、窮屈な人生を送ることになるのである。

 映画はカラーチーの海にハイダルが入っていくところで終わる。ラホールが束縛の象徴であるとしたら、海は自由の象徴だ。生涯一度もラホールを出たことのなかったハイダルは、ビーバーとの出会いやムムターズの死を通して、より広い世界を希求するようになる。海はビーバーとの思い出であり、妻との約束だったが、それ以上に彼が自分自身に戻っていくための目的地であると感じた。

 ところで、パーキスターンで人気の映画も、インド映画と同じく、歌と踊りに彩られた娯楽映画である。だが、「Joyland」の作りはむしろインドのアート系映画や、ヨーロッパ映画に近かった。敢えて被写体を中心に映さない独特の撮影法や、長回しを多用したストーリーテーリングなど、作家性も十分に感じられた。ハイダルとビーバーが初めてキスをしそうになるシーンなど、人口光の使い方もユニークだった。このような映画がパーキスターンでも作られているというのは新鮮な驚きだった。内容が内容なだけに、右翼団体から公開差し止めの訴訟が出され、一時公開が中止されたが、マラーラー・ユースフザーイーなどの働き掛けにより、それが撤回されたという経緯がある。

 ただ、アート系映画といっても、歌と踊りが全くなかったわけではない。ハイダルが「ムジュラー劇団」のバックダンサーに就職するというプロットだったし、そこで出会うビーバーもダンサーであったため、歌と踊りはあった。イスラーム教を国教とするパーキスターンにおいても、女性が踊るムジュラーを見せる劇場があり、しかも今でも残っているということには驚いた。

 言語はウルドゥー語とパンジャービー語のハイブリッドだった。社会階層が比較的低い人々はパンジャービー語でしゃべっていた。

 「Joyland」は、古都ラホールの保守的な家庭において、多様な性の萌芽を含めた、家父長制の崩壊が起こる瞬間を描いた作品である。トランスジェンダーや同性愛といったセンシティブな内容に踏み込んでおり、カンヌ映画祭でもクィア・パルム賞を受賞したため、その点が殊更に強調されるが、映画が取り上げる問題意識はもっと広範なものだ。各人がありのままでいられる社会、それが最後の海で象徴されていた。それこそが題名の「ジョイランド」でもあるのだろう。必見の映画である。