
「Matto Ki Saikil(マットーの自転車)」は、2020年10月23日に釜山国際映画祭でプレミア上映され、インドでは2022年9月16日に劇場一般公開された作品である。貧しい一家がいかに自転車に依存して生活をしているのか、ハッとした気付きのある社会風刺映画だ。
監督はMガーニー。主演は「Raajneeti」(2010年)などを監督したことで知られるプラカーシュ・ジャー。彼は過去に「Jai Gangaajal」(2016年)や「Saand Ki Aankh」(2019年)でも演技をしたことがあるが、主役を務めたのは今回が初だ。
他に、アニター・チャウダリー、アーローヒー・シャルマー、イディカー・ロイ、ディンピー・ミシュラー、チャンドラプラカーシュ・シャルマー、アヤーン・マダール、アーリヤン・マダール、カリーム・ザファル、ガウラヴ・チャトゥルヴェーディーなどが出演している。
舞台はウッタル・プラデーシュ州のブラジ地方。マットー(プラカーシュ・ジャー)は、ボロボロの自転車に乗って自宅のある村から近くの町へ行き日雇い労働をして日銭を稼ぐ貧しい中年男性だった。妻デーヴキー(アニター・チャウダリー)との間には長女ニーラジ(アーローヒー・シャルマー)と次女リムカー(イディカー・ロイ)という2人の娘がいた。長女は19歳になっており、結婚相手を探さなければならなかった。だが、既にマットーは借金だらけであり、娘を嫁に出すためにはまとまった金を必要としていた。
村の近くではエクスプレスウェイの工事が始まっており、村人たちは農地を売却するかどうかで割れていた。スィカンダル・ファウジー(チャンドラプラカーシュ・シャルマー)は開発に賛成の立場で立候補し当選する。
デーヴキーが病気になり、マットーは彼女を病院に連れて行く。治療費は彼女の首飾りを売って何とか工面した。自転車はもう寿命を迎えており、毎日どこか故障した。それでもマットーは大事に乗り続けたが、あるときトラクターにひかれて潰れてしまう。マットーは自転車を手放さざるをえなくなる。
自転車を失ったマットーは徒歩で町へ行って稼ごうとするが、仕事に間に合わず、雇い主からは文句をいわれる。そこでマットーはあちこちから借金して新しい自転車を購入することになる。娘たちも内職をして少し貯金をしてくれていた。村で自転車修理屋を営む親友のカッルー(ディンピー・ミシュラー)が購入の際には彼に協力した。
町で新しい自転車を買ったマットーは意気揚々と自宅に戻る。家族も大喜びする。だが、翌日仕事の帰り道にマットーは強盗に遭って自転車を奪われてしまう。警察はまともに取り合ってくれず、政治家になったファウジーも手の平を返したように彼を冷遇する。失意のマットーは、インド国旗が高々と掲げられる中、去って行く。
自転車の映画といえば、ヴィットリオ・デ・シーカ監督のイタリア映画「自転車泥棒」(1948年)が有名だ。この作品はサティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督などにも多大な影響を与えており、インド映画の文脈でも無視することができない。現代でも自転車が重要な役割を果たすインド映画は時々見られる。たとえば「Ek Tha Hero」(2023年)や「Meiyazhagan」(2024年)などである。
それでも、「Matto Ki Saikil」という題名やポスターのビジュアルを見たときの正直な感想は、「2020年代になっても自転車の話?」というものだった。
「Matto Ki Saikil」の舞台となっているのは、ウッタル・プラデーシュ州マトゥラー近郊と思われる農村である。登場人物が話している言葉はヒンディー語のブラジ方言であり、そこから既に地域は推測できるのだが、自動車のナンバープレートや店の看板などによって確定される。ほとんど発展から取り残されているような村ではあるのだが、村人たちの話題の中に「エクスプレスウェイ」が出て来ており、すぐそこまで開発の波が迫ってきていることが分かる。これはデリー近郊のノイダとアーグラーを結ぶヤムナー・エクスプレスウェイのことであろう。目下、用地買収が行われており、村人たちは政府に農地を売って一獲千金を目論んでいるのだ。だが、中には「農民が農地を失ったら生きていけない」と警鐘を鳴らす者もおり、村が二分されている。ヤムナー・エクスプレスウェイが建設されていたのは2007年から12年であり、「Matto Ki Saikil」の時代を2010年前後と考えることは可能である。
ただ、既に人々の手にスマートフォンが届いているのも観察できる。それを重視するならば、時代はインドでスマートフォンが急速に普及した2016年以降だと考えられる。どちらにしろ、それほど昔の物語ではない。
主人公マットーの村では、人々の生活に格差が見られる。マットーの家は土地の半分に掘っ立て小屋が建っているような昔ながらの家なのだが、隣には数階建ての建物が建っており、経済格差がある。さらに、隣家の子供はバイクを乗りこなしているものの、マットーの家にはボロボロの自転車が1台あるだけである。村の中では、農地を政府に売って自動車を購入した者も現れていた。もはや格差は都市と農村ではなく、農村内部にまで侵食しつつあるのである。そして、マットーは完全に発展から取り残された者だった。
もしマットーにいくらかの農地があればまだ何とかなったかもしれない。だが、彼の家系はおそらく先代に農地を手放してしまっており、マットー自身は町で肉体労働をする日雇い労働者であった。1日の稼ぎは300ルピーほどのようであった。マットーにとって、村と町を移動するための交通手段として自転車は生命線だった。もしテンポ(乗り合いバス)を使うと往復で40ルピー掛かってしまう。彼のようにその日暮らしをする人々にとっては、40ルピーも大金だ。その点、自転車ならば、疲れはするが、無料だった。
「Matto Ki Saikil」の前半は、マットーにとって自転車がいかに大事なのかが延々と描写される。確かに仕事のため、生活のために必須アイテムではあったが、それ以上に彼がボロボロになるまで乗ってきた愛車は、彼の精神を支え、彼の自尊心と密着した存在だったことが分かる。
その自転車が突然、トラクターにひかれてつぶされてしまう。今までマットーは修理しながら乗ってきたが、もはや修理が不可能なレベルのつぶれ具合だった。それはマットーの人生のメタファーでもあった。自転車を失ったマットーは、それでも何とか稼ごうとするが、町への移動が困難になったため思うように仕事が得られなくなる。やはり彼のような労働者にとって、生活のために自転車は必須だった。
そこでマットーは思い切って借金をして新しい自転車を買うことにする。既に借金まみれではあったが、自転車がなければ借金を返すこともままならないし、自転車さえあれば少なくとも収入は得られるので、この決断はまっとうなものだったといえる。だが、どうやら村には新しい自転車を狙う強盗もいたようで、買ってすぐに自転車は盗まれてしまう。
マットーはまず警察に犯人捜索を懇願するが、「自転車盗難ごときで」と相手にされない。次ぎに選挙に当選したばかりのファウジーのところに駆け込むが、やはり「自転車盗難ごときで」と突き返される。ここまでマットーの苦労を見てきた我々は、マットーの人生にとって1台の自転車がどれほど欠かせないものだったのか分かるのだが、一般の人々はそんなことは分からない。マットーには借金だけが残った。これから彼や家族はどうやって生きていけばいいのか。全く先が見えない中、独立記念日なのか、インドの国旗が高々と掲げられ、愛国歌「Sare Jahan Se Achcha Hindustan Hamara(私たちのインドは世界のどの国よりも素晴らしい)」のメロディーが流れる。痛烈な皮肉である。
主演のプラカーシュ・ジャーは、プネーのインド映画テレビ学校(FTII)中退者であり、社会活動や政治活動に従事していることもあって、政治的に意識の高い人物だ。彼が主演したこの「Matto Ki Saikil」にも政治色が感じられるが、それは決して現与党であるインド人民党(BJP)の支持に傾いていない。むしろ批判的である。たとえば、マットーが畑で用を足していると衛生局の人間がやって来て野外排泄者を取り締まろうとする場面がある。これは、モーディー政権によるスワッチ・バーラト運動への批判と受け止められる。よく見るとマットーの家にはトイレがあったが、使われていないようであった。映画の主題ではなかったが、屋外で排泄することすら自由にできない窮屈な世の中をあげつらい、マットーのような貧困者を追いつめる社会構造を浮き彫りにしようとしている。
映画は本物の農村や地方都市で撮影されており、何から何まで全てリアルだ。村の様子、病院の様子、警察署の様子など、作り物感が全くない。セリフも前述のようにブラジ方言で統一されている。プラカーシュ・ジャーはビハール州出身のはずだが、ブラジ方言をマスターし、まるでブラジ地方で生まれ育った貧しい労働者そのもののようなしゃべり方をする。
「Matto Ki Saikil」は、いまだに自転車が生活の生命線になっている貧しい人々がインドには存在することを改めて感じさせてくれる意義深い作品である。とかく発展の方に目が行ってしまいがちだが、インドにはその発展から取り残された人々が大量におり、底上げが急務になっている。全ての人々が自信を持ってインド国旗を掲げられるような日が来るまで、このような映画は作られ続けることだろう。
