Ala Vaikunthapurramuloo (Telugu)

4.5
Ala Vaikunthapurramuloo
「Ala Vaikunthapurramuloo」

 2020年1月12日公開のテルグ語映画「Ala Vaikunthapurramuloo(ヴァイクンタプラムにて)」は、生まれたばかりの赤ちゃんのすり替えから起こる物語を描いたマサーラー映画である。

 監督は「S/O Satyamurthy」(2015年)などのトリヴィクラム。主演はアッル・アルジュン。他に、プージャー・ヘーグデー、タブー、ジャヤラーム、スシャーント、ニヴェーター・ペートゥラージ、ムラリー・シャルマー、サチン・ケーデーカル、サムティラカニ、ラージェーンドラ・プラサード、などが出演している。また、1,000本以上の映画にクレジットされ、ギネスブックにも登録されているコメディアン俳優ブラフマーナンダムが「Ramuloo Ramulaa」に特別出演している。

 ヴァールミーキ(ムラリー・シャルマー)はARK社に勤めるしがない会社員だった。同期で入社したラーマチャンドラ(ジャヤラーム)は、アナント・ラーマクリシュナ、通称ARK(サチン・ケーデーカル)の娘ヤショーダー(タブー)と結婚し、逆玉の輿を実現しており、ヴァールミーキは彼の出世に嫉妬していた。

 偶然、ヴァールミーキの息子とラーマチャンドラの息子は同日に同じ病院で生まれた。ヴァールミーキは、看護婦スローチャナーと共謀して赤ん坊を入れ替える。スローチャナーは上階から落ちて頭を打ち、昏睡状態になる。この秘密を知っているのはヴァールミーキだけとなった。ラーマチャンドラの息子として育てられた子供はラージ(スシャーント)、ヴァールミーキの息子として育てられた子供はバントゥー(アッル・アルジュン)と名付けられた。ヴァールミーキは、ラーマチャンドラへの嫉妬心をバントゥーにぶつけ、彼を冷遇して育てた。

 それから25年後。バントゥーはアムーリヤー(プージャー・ヘーグデー)が経営する旅行代理店に就職し、彼女と恋に落ちる。一方、ラージはARK社の御曹司として大切に育てられるが、あまり野心がなく、経営者に向いていなかった。ARKは、アムーリヤーの経営手腕を高く評価し、彼女を孫のラージと結婚させようとする。一方、スローチャナーは25年の昏睡から目を覚まし、たまたまその場にいたバントゥーに対して出生の秘密を明かして息を引き取る。バントゥーはヴァールミーキを問い詰めるが、そのことを人々に明かそうとはしなかった。しかし、彼はARKに気に入られて雇われ、彼の家に入り込むことになる。

 ARK社は、港湾マフィアのアッパラ・ナーイドゥ(サムティラカニ)に無理矢理買収を持ちかけられ、危機に瀕していた。一度、ラーマチャンドラはナーイドゥに刺されるが、バントゥーに助けられる。バントゥーはナーイドゥが本拠地とする港に乗り込み、彼の息子パイディタッリを脅す。その勇姿を見て、ARKはますますバントゥーを気に入る。だが、バントゥーとアムーリヤーがキスしているところが目撃され、バントゥーは追い出されてしまう。

 ナーイドゥはラームチャンドラの姪ナンディニー(ニヴェーター・ペートゥラージ)を誘拐し、会社の譲渡を求める。ラーマチャンドラは姪を救うために書類にサインし、ラージはナーイドゥの邸宅に乗り込もうとする。だが、予め連絡を受けたバントゥーがナーイドゥとその手下を蹴散らしていた。

 実はARKはバントゥーの出生の秘密を知っていた。彼はラームチャンドラの前で、本当の息子はラージではなくバントゥーだということを明かす。だが、バントゥーはそれをヤショーダーやラージに伝えないで欲しいと頼む。バントゥーはARK社の幹部に抜擢される一方で、ヴァールミーキの家にラージが送られ、教育を任せられる。ラージは、生まれたときにバントゥーと入れ替えてくれればよかったのにとつぶやく。

 逆玉の輿に乗って出世した同僚ラーマチャンドラに対するヴァールミーキのちんけな嫉妬心が引き起こした、生まれたばかりの赤ん坊の交換を起点とする物語だった。普通ならば悲劇として味付けされるような導入部なのだが、この邪悪な交換によって一番割を食ったはずのアッル・アルジュンが完全無欠のヒーローとして徹底的に祭り上げられているために、悲哀の情感が支配するような時間帯はほとんどない。とにかく「スタイリッシュ・スター」アルジュンのスタイリッシュなロマンス、ダンス、そしてアクションが前面に押し出され、マサーラー映画の方程式に忠実に則って作られた娯楽大作であった。ヒンディー語映画が失いかけているインド映画の伝統が全て揃っていると感じた。

 出生から25年後に、生まれた病院で赤ん坊の交換があったと発覚すると、当然のことながら親子関係にズレが生じる。親の視点から描くか、子の視点から描くかで見え方は異なるが、「Ala Vaikunthapurramuloo」は主人公が子供の立場であるため、子の視点から描いた作品になっていた。育ての親を親とするか、生物学的な親を親とするか、ストーリー原案者のセンスが問われるのだが、この映画では育ての親であるヴァールミーキがその交換の張本人であり、全く同情できない悪人だったため、複雑な感情を催す余地があまりなかった。その辺りは脚本段階で意図的にシンプルに設定されていたのだと感じた。

 バントゥーは、出生の秘密を知るまでは、なぜ父親が自分に冷たく当たるのか分からずにいた。そして、父親の愛情を勝ち取ろうと努力をしていた。しかし、出生の秘密を知ったことで、彼はその呪縛から解放される。もはやバントゥーはヴァールミーキを父親とみなさなくてよくなり、彼の愛情を勝ち取る必要もなくなったのである。

 では、自分が本来享受すべきであった、裕福な実業家ラームチャンドラの息子としての権利をバントゥーが主張したかというと、そうではなかった。彼は、財産目当てでラームチャンドラなどに接近したのではなく、バラバラになりかけていた人間関係をひとつにまとめ、マフィアから標的になっていた血族を守るために、ラームチャンドラの家に入り込んだのだった。バントゥーは無私無欲な親孝行者として描写されており、それがアッル・アルジュンのスター性をさらに高める効果をもたらしていた。

 取って付けたような設定ではあったが、バントゥーは嘘が付けない性格でもあった。これは、「Bajrangi Bhaijaan」(2015年/邦題:バジュランギおじさんと、小さな迷子)でサルマーン・カーンが演じたバジランギーとも共通する。だが、物語全体を通して、バントゥーは、嘘の上に成り立つものはないという信条を実践し、あらゆる問題を解決してしまった。教訓めいてはいるが、これもインド映画のひとつの特徴だ。

 ヴァールミーキの実の息子であるラージにも注目したい。父親から冷遇されて育てられたバントゥーが成績優秀だったのに対し、何不自由ない生活を送っていたラージは勉強が苦手で、おっとりとした性格だった。ARK社の次期社長としての資質も欠いていた。また、あまりに育ちがいいためか、彼は「No」と言うのが苦手だった。彼は心の中で、ラームチャンドラの息子として生まれたことをプレッシャーに感じていた。映画のラストでヴァールミーキの家で「研修」することになったとき、彼は生まれて初めて解放感を感じる。結局、いくら養育環境が変わったとしても、蛙の子は蛙であった。

 親子の関係に血縁は重要かどうかという問いに対するトリヴィクラム監督の答えは、多少混乱気味だった。バントゥーがラームチャンドラに受け入れられ、ラージがヴァールミーキの家でリラックスするというラストは、血は争えないという結論を強く示唆している。ただ、ラームチャンドラの妻ヤショーダーは、ラージが実の息子ではないことを知らされていない。この点では、血統よりも育ちの方が尊重されている。結局、明確な結論は出ていないと感じた。もっとも、インドではどちらかといえば、血を重視する方向に持って行くことの方が多い。

 「Ala Vaikunthapurramuloo」は、テルグ語映画界でトップクラスの大スターに成長しているアッル・アルジュンの魅力をてんこ盛りにしたような作品だ。まずは彼が現在のインドにおいてもっともダンスがうまい俳優だということを雄弁に物語っている。特にヒロインのプージャー・ヘーグデーと踊る「Butta Bomma」の踊りは素晴らしく、インド全土から絶賛された。また、アクションシーンでもスタイリッシュさが重視されており、まるで踊っているかのようなファイトシーンがいくつも用意されている。それぞれのアクションシーンに異なった工夫がなされていて、観ていて飽きが来ない。

 アッル・アルジュンも素晴らしかったが、ムラリー・シャルマーの悪役振りも負けず劣らず良かった。ムラリーはヒンディー語映画界でも脇役俳優としてよく登場するが、ここまで重要な役で起用されたことはあまりなかったのではないかと思う。そして、彼はそのチャンスをしっかり物にしていた。

 他に、ヒンディー語映画の観点ではタブーの出演も特筆すべきだ。タブーはアーンドラ・プラデーシュ州(当時)の州都ハイダラーバードの出身であり、テルグ語も難なく使いこなす。ヒンディー語映画での出演時と変わらぬ貫禄ある演技で、映画を引き締めていた。

 「Ala Vaikunthapurramuloo」は、テルグ語映画界の「スタイリッシュ・スター」アッル・アルジュンがあらゆる物事を本当にスタイリッシュに決めまくる爽快な娯楽映画である。コロナ禍の2020年において、テルグ語映画界を中心に大ヒットした。アルジュンの魅力が詰め込まれており、観て損はない映画だ。