Arjun Patiala

1.5
Arjun Patiala
「Arjun Patiala」

 21世紀のインド映画界で起こった大きな変化のひとつに、地方言語の映画製作が活性化したことが挙げられる。インド映画界の御三家と言えば、ヒンディー語、タミル語、テルグ語であったが、21世紀に入り、ヒンディー語の方言であるボージプリー語やチャッティースガリー語、パンジャーブ州で話されるパンジャービー語、グジャラート州で話されるグジャラーティー語など、様々な言語で映画が作られるようになった。特にボージプリー語とパンジャービー語の映画は大きな勢力に成長している。

 2019年7月26日公開の「Arjun Patiala」は、表向きヒンディー語映画ではあるが、実質的にはパンジャービー語映画である。プロデューサーはディネーシュ・ヴィジャーン。監督は、パンジャービー語の大ヒット映画「Sardar Ji」(2015年)などのローヒト・ジュグラージ。主演は「Sardar Ji」でも主役を演じたディルジート・ドーサンジ。ヒロインはクリティ・サノン。他に、ヴァルン・シャルマー、ローヒト・ロイ、パンカジ・トリパーティー、スィーマー・パーワー、ムハンマド・ズィーシャーン・アユーブ、アビシェーク・バナルジー、サニー・リオーネなどが出演している。

 柔道の全国大会で優勝したアルジュン・パティヤーラー(ディルジート・ドーサンジ)は警部補となり、フィーローズプル署の署長に就任した。アルジュンは早速、部下の心を勝ち取り、オニダ・スィン巡査部長(ヴァルン・シャルマー)を腹心とする。

 アルジュンは、ニュースレポーターのリトゥ・ランダーワー(クリティ・サノン)と出会い、恋に落ちる。リトゥは、3年間掛けて地元の悪党たちを調べ上げていた。アルジュンとオニダはその情報を元に、悪党たちをお互いに争わせて一網打尽にする。悪党の中で生き残ったのはサクール(ムハンマド・ズィーシャーン・アユーブ)のみとなった。

 リトゥはアルジュンの行動に疑問を持ち、彼を問いただすが、アルジュンははぐらかす。その態度に怒ったリトゥはアルジュンと別れることにする。そして、警察が悪党たちの抗争を引き起こしたという証拠を掴もうとする。一方、アルジュンは、上司アマルジート・スィン・ギル警部(ローニト・ロイ)によって、州議会議員プラープティ・マッカール(スィーマー・パーワー)を紹介されていた。オニダは、アマルジートとプラープティが共謀していることを知ってしまう。だが、アルジュンは最初からその策略に参加していたのだった。

 プラープティはアルジュンに、オニダとサクールを抹殺する命令を出す。だが、アルジュンはオニダとサクールを殺さず、逆にプラープティを罠にはめようとする。混乱の中でサクールは殺され、プラープティは逮捕される。

 上のあらすじを読んでも何が何だか分からないと思うが、正に何が何だか分からない映画だった。誰が何のために行動しているのか、とにかくよく分からないのである。監督の力不足と断じる他ない。

 ただ、構成はユニークだった。実はこの物語は、アビシェーク・バナルジー演じる監督によって、パンカジ・トリパーティー演じるプロデューサーが聞かせられた映画の構想の再現になっている。監督が「悪役は5人」と言えば、物語の中でも悪役は5人になっているし、「サニー・リオーネを起用する」と言えば、本当にサニー・リオーネが出て来る。

 また、主要キャラの登場シーンでは、「ヒーローのヒーロー」とか「ヒーローのハートビート」など肩書きが表示されたり、時々撮影スタッフが映って、映画の撮影をしているかのような演出がされたりする。小洒落た作りにはなっていた。

 ストーリーは意味不明だったものの、俳優たちは精いっぱいの演技をしていた。ディルジート・ドーサンジ、クリティ・サノン、ヴァルン・シャルマーなど、若手の成長株が伸び伸びと演技をしていたのには好感が持てた。ローニト・ロイとスィーマー・パーワーもいい味を出していた。

 サチン・ジガルによる音楽も良かった。映画の雰囲気に合わせて、ノリノリのパンジャービー・ナンバーが多かった。サニー・リオーネが踊るアイテムナンバー「Crazy Habibi Vs Decent Munda」、ヒロインのクリティ・サノンが負けじと踊る「Main Deewana Tha」など、景気づけになっていた。

 ちなみに、序盤で柔道の試合が出て来たが、日本人にとっては興味深いシーンだった。頭にターバンを巻いて柔道着を着ている姿はおかしく、立ち回りも変だったが、こうやって何気なく柔道が映画の中に出て来ることで、インドに柔道が根付いている様子が感じられる。

 「Arjun Patiala」は、ヒットメイカーであるディネーシュ・ヴィジャーンがプロデュースする、パンジャービー語映画的なヒンディー語映画である。主演のディルジート・ドーサンジとクリティ・サノンなどが好演していたし、音楽にも光るものがあるが、いかんせん、脚本が混沌としており、監督の力量も不足していた。何が何だか分からない映画である。