テルグ語映画「Baahubali: The Beginning」(2015年/邦題:バーフバリ 伝説誕生)と「Baahubali 2: The Conclusion」(2017年/邦題:バーフバリ 王の凱旋)の成功により、インド映画各産業では叙事詩的な大作を指向する傾向が強まった。元々資産力のあるヒンディー語映画界においては「Baahubali」シリーズの影響は甚大で、「Padmaavat」(2018年/邦題:パドマーワト 女神の誕生)や「Manikarnika: The Queen of Jhansi」(2019年/邦題:マニカルニカ ジャーンシーの女王)など、スケールの大きな映画が相次いで作られた。だが、南インド諸映画の中では弱小勢力のイメージの強いカンナダ語映画界でも、「Baahubali」的な映画が作られるのは意外であった。
2018年12月21日に公開されたカンナダ語映画「K.G.F: Chapter 1」は、カンナダ語映画界で過去最高となる8億ルピーを投じて作られた叙事詩映画である。「Baahubali」と同じく二部構成であり、まずは「Chapter 1」を銘打った第1部が公開された。
監督は、2014年に監督デビューしたばかりのプラシャーント・ニール。主演はカンナダ語映画界のトップスターの一人、ヤシュ。ヒロインは新人のシュリーニディ・シェッテイー。第1部の悪役も新人のラーマチャンドラ・ラージューが演じており、大予算型映画としては、かなり思い切った配役である。予算を主要キャストの起用にではなく、内容の充実に充てようという意気込みが感じられる。
他に、ヴァシシュタ・N・スィンハー、アチユト・クマール、マーラヴィカー・アヴィナーシュなどが出演している。また、カンナダ語映画界の重鎮アナント・ナーグがナレーション役を担当している。
ちなみに、「K.G.F」はカンナダ語映画ながら、タミル語版、テルグ語版、マラヤーラム語版、ヒンディー語版も作られており、多言語展開されている。言語ごとに少し異なるようで、例えば、ヒンディー語版では、専用アイテムソング「Gali Gali」が挿入され、モウニー・ロイがアイテムガール出演している。他の言語では、代わりにタマンナーがアイテムガール出演するアイテムソング「Jokae」があるようだ。まず鑑賞したのはヒンディー語版だが、2023年7月14日に「K.G.F」シリーズの全二部が日本で同時公開されることになり、後に日本語字幕付きのカンナダ語版も鑑賞した。今回のレビューはこの2つのバージョンを見比べたものになる。
題名の「K.G.F」とは、「Kolar Gold Fields」の頭文字で、実在するコーラール金鉱のことを指している。古代からその存在は知られていたが、英領時代に機械が導入されたことで金鉱として急速に発展し、2001年まで採掘が続けられていた。「K.G.F」は、実在するこのコーラール金鉱を巡る架空のドラマである。
1951年、マイソール州コーラールにて大規模な金鉱が発見された。マフィアのドン、スーリヤヴァルダンは金鉱を石灰岩と偽って独占した。この秘密を知る者はわずかだったが、それぞれ絶大な権力を持ち、ボンベイ、マラーバル、バンガロールなどの各分野で影響力を持っていた。 同じ1951年、貧しい家にロッキー(ヤシュ)は生まれる。父親は元々おらず、幼いときに母親を亡くし、10歳の頃にボンベイに流れ着く。そこで金の密輸業者シェッティーの手下となる。ロッキーは急速に頭角を現し、やがてシェッティーを凌ぐ影響力を持つようになる。 それに目を付けたのが、スーリヤヴァルダンの協力者の一人、アンドリュースであった。バンガロールに住むアンドリュースはシェッティーのボスで、ロッキーをバンガロールに呼び寄せる。 バンガロールに着いたロッキーは早速一人の女性を見初める。名前はリーナー(シュリーニディ・シェッテイー)。スーリヤヴァルダンの協力者の一人で政治家のラージェーンドラ・デーサーイーの娘であった。アンドリュースとデーサーイーがロッキーに与えた任務は、スーリヤヴァルダンの息子ガルラ(ラーマチャンドラ・ラージュー)の抹殺であった。ガルラは、死の床にあるスーリヤヴァルダンと共にコーラールにいた。ロッキーはコーラールに送り込まれる。 コーラールでは、多くの人々が奴隷として金鉱で働かされていた。ロッキーは奴隷の一人として金鉱に忍び込み、情報を収集する。そして、タイミングを見計らって反旗を翻し、ガルラを殺す。
構想の段階から「Baahubali」の影響があったのかどうかは分からないが、最終的に完成した作品からは随所に「Baahubali」の影響が見られた。それに加えて「マッド・マックス 怒りのデスロード」(2015年)から影響を受けたと思われる世紀末的なテイストも加わっていた。
南インド映画に特にその傾向が見られるが、「K.G.F」の主人公ロッキーも一騎当千の無敵の存在であった。何人が一度に襲いかかろうが、銃火器を駆使しようが、ロッキーには敵わない。ロッキーが一度戦闘態勢に入れば、彼にかすり傷ひとつ負わすことはできない。暴力描写も過激で、スプラッター映画並に血が飛び散る。まずはヤシュ演じるロッキーのヒーロー振りを楽しむ、大衆向け娯楽映画であった。
また、これも南インド映画に特徴的なのだが、主人公は女ったらしでもある。敵と戦っているときのキャラと、ヒロインと接しているときのキャラが、まるで二重人格者のように異なる。ロッキーは正に典型例であった。シュリーニディ・シェッテイー演じるヒロインのリーナーは、最初はロッキーを見下していたが、すぐに彼に惚れてしまい、いつの間にか彼を恋人だと考えるようになる。とりあえず第1部ではロマンス要素は最小限で、リーナーも単なる添え物に過ぎなかったが、第2部ではどんな役割を果たすのであろうか。
第1部では、基本的には1981年、ロッキーが30歳の頃の時間軸が中心となる。だが、物語自体は、現代の視点から、コーラール金鉱に関する本「エル・ドラド」を著した著者アーナンド・インガラギによって語られることになる。そして、合間合間に、ロッキーの少年時代や、ボンベイのアンダーワールドで暗躍した1978年の出来事も差し挟まれ、時間が行ったり来たりする。それをちゃんと追い掛けていないと、筋を見失う怖れのある、複雑な構成になっていた。編集がうまければ混乱せずに鑑賞できるのだが、「K.G.F」については不親切なところがあり、時々いつの話をしているのか迷子になってしまうことがあった。
語り口は独特だ。まるで全編がダイジェスト版か予告編であるかのように、佳境だけが次から次へと全力でぶつけられてくる感じで、ゆっくり落ち着けるようなシーンは少ない。常に何らかの衝撃的な出来事が起こって登場人物は恐怖か驚愕の表情を浮かべており、ホッとできるのはダンスシーンくらいだ。これはショート動画に慣れた世代にショート動画の連続を見せて一本の映画にしようとしているということだろうか。普通に考えたら下手な作りなのだが、ここまで意図的かつ徹底的にやられると、逆に斬新な手法であるように感じられてしまう。
第1部の最後では、インディラー・ガーンディー首相をモデルにしたと思われる女性の首相ラミカー・セーンや、ドバイからコーラール金鉱を狙うドン、イナーヤト・カリールが登場し、第2部への布告となっている。さらにスケールの大きな映画になりそうだ。
「K.G.F: Chapter 1」は、カンナダ語映画史上最高額の製作費を費やして作られた叙事詩的スケールの映画であり、インド全土で公開されて25億ルピーの興行収入を稼ぎ、カンナダ語映画史上最大のヒット作となった。カンナダ語映画の新たな歴史を切り拓いた記念碑的作品であり、一見に値する映画である。総合的な評価は第2部を観てからにしたい。
続編の「K.G.F: Chapter 2」は2022年4月14日に公開された。