Lipstick Under My Burkha

4.0
Lipstick Under My Burkha
「Lipstick Under My Burkha」

 「Lipstick Under My Burkha」は、18歳から55歳まで4人の女性の性愛を赤裸々に描写した問題作だ。2016年10月26日に東京国際映画祭で「ブルカの中の口紅」という邦題と共にプレミア上映された後、ムンバイー映画祭でも上映された。だが、性描写が過激すぎたために劇場一般公開のための認証が得られず、いくつかのカットの後、ようやく2017年7月21日に公開された。

 監督はアランクリター・シュリーヴァースタヴァ。「Turning 30!!!」(2011年)で監督デビューした女性だが、その前には「Dil Dosti Etc」(2007年)などにもエグゼクティブ・プロデューサーとして関わっている。また、「Apaharan」(2005年)や「Raajneeti」(2010年)で知られるプラカーシュ・ジャーがプロデューサーを務め、エークター・カプールなども協力している。

 キャストは、ラトナー・パータク・シャー、コーンコナー・セーンシャルマー、プラービター・ボールタークル、アーハナー・クムラー、シャシャーンク・アローラー、スシャーント・スィン、ヴィクラーント・マシー、ヴァイバヴ・タトワワーディー、ソーナール・ジャー、ジャガト・スィン・ソーランキー、ナミター・ドゥベーなどが出演している。

 舞台はマディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパール。旧市街にある邸宅ハワーイー・マンズィルには、ウシャー・パルマル、通称ブワージー(ラトナー・パータク・シャー)とその借家人が住んでいた。

 借家人の一人、シーリーン・アスラム(コーンコナー・セーンシャルマー)は、夫ラヒーム(スシャーント・スィン)に内緒でセールスガールをしていた。ラヒームは夜になるとコンドームなしでシーリーンとセックスをし、そのおかげで彼女は妊娠と堕胎を繰り返していた。

 借家人の一人、リーラー(アーハナー・クムラー)は、もうすぐお見合い相手のマノージ(ヴァイバヴ・タトワワーディー)と結婚することになっていた。だが、リーラーにはアルシャド(ヴィクラーント・マシー)というフォトグラファーの恋人がおり、二人はセックスに明け暮れていた。リーラーは結婚式前にアルシャドと逃げようとしていたが、アルシャドとの関係はアップダウンを繰り返していた。

 借家人の一人、リハーナー・アビーディー(プラービター・ボールタークル)の両親はブルカーの仕立屋をする敬虔なイスラーム教徒だった。リハーナーはブルカーを着て大学に行っていたが、大学に着くとブルカーを脱いだ。彼女は米歌手マイリー・サイラスの大ファンで、ロックバンドを組もうとしたり、抗議活動に参加したりしていた。リハーナーは、ドラマーのドルヴ(シャシャーンク・アローラー)と親しくなる。

 寡婦のブワージーは、毎晩官能小説を読んで性欲を紛らわせていた。あるとき彼女は水泳教室に行き、筋骨逞しいコーチ、ジャスパール(ジャガト・スィン・ソーランキー)に一目惚れする。ブワージーは水着を買って水泳教室に足繁く通うようになる。また、夜になると官能小説の主人公「ロージー」を名乗ってジャスパールに電話をしていた。ジャスパールはてっきり目当ての女性からの電話だと勘違いし、ブワージーといやらしい会話を楽しむ。

 あるときシーリーンはラヒームが見知らぬ女性と浮気をしているところを見つけてしまう。シーリーンはその女性を追いかけ、ラヒームは自分の夫だと伝える。当然、ラヒームにセールスガールをしていることがばれる。彼は相変わらずコンドームなしのセックスを強要し、彼女に外出を禁じる。

 リーラーはアルシャドと喧嘩をし、マノージとの結婚を進める。マノージと結婚すれば自分の家が持てたが、何となく彼との結婚に乗り気になれなかった。一方、彼女に冷たくなったアルシャドは急にまたリーラーの身体を求めてくる。二人の男性の間に揺れていたリーラーだったが、アルシャドとのセックスを映した動画がマノージに見られてしまい、彼との結婚は破談となる。

 リハーナーはドルヴと付き合うようになったが、ドルヴの元恋人ナムラター(ナミター・ドゥベー)はリハーナーが万引きをして衣服を入手していたことを警察に密告する。リハーナーは警察に逮捕される。父親はリハーナーを一刻も早く結婚させることを決め、大学へ行くことも禁止する。

 ジャスパールに、夜中に電話していたのがブワージーだったことがばれ、同居する彼女の甥の家族にもそれが知られてしまう。ブワージーは家から追い出される。彼女を優しく受け入れたのが、シーリーン、リーラー、そしてリハーナーだった。

 題名の中に、イスラーム教徒女性が着用する「ブルカー」が入っているため、イスラーム教徒女性が主人公の物語という先入観をどうしても持ってしまう。確かにイスラーム教徒女性は出て来るのだが、主な登場人物4人の内、イスラーム教徒はシーリーンとリハーナーの2人だけだ。後の2人はヒンドゥー教徒である。

 舞台となるハワーイー・マンズィルの大家はヒンドゥー教徒である。最年長者のブワージーが主として振る舞っており、彼女の甥やその家族がその邸宅に同居していた他、借家人に部屋を貸していた。借家人の中にはヒンドゥー教徒もいればイスラーム教徒もいた。

 デリーに住んでいた者の目からすると、この居住形態は異様だ。通常、ヒンドゥー教徒の大家はイスラーム教徒に部屋を貸そうとしない。マディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールは、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が共存してきた古都であり、もしかしたらボーパールでは、この映画で描かれているように、異なる宗教の人々が同じ建物に集住するのは普通なのかもしれない。ちなみにボーパールといえば1984年に発生した世界最悪の産業災害、ボーパール化学工場事件が有名だ。設定上、ブワージーの家族はこの事故で亡くなったということになっていた。また、プロデューサーのプラカーシュ・ジャーは好んでボーパールをロケ地にしてきたことで知られる映画監督であり、「Lipstick Under My Burkha」の舞台がボーパールだったのもプロデューサーの意向が反映されたものだと推測される。

 では、なぜ「ブルカー」を題名に含めたのかという問いが生じる。口紅を付けながらブルカーを着ていたのは、4人の女性の中では一番若いリハーナーであったが、リハーナーが主役級のキャラという印象も受けなかった。欧米では、イスラーム教徒女性が着るブルカーは女性抑圧の象徴と考えられることが多い。おそらくこの映画の題名の「ブルカー」も、単なる服装ではなく、イスラーム教にも限定せず、インドの女性全体を束縛するものを示していると考えるのが適切であろう。

 ただし、女性の束縛が4人の女性たちのエピソードに共通する主題というわけでもない。リーラーと他の3人は切り離して考えるべきである。なぜならリーラーは、結婚相手と恋人の間で揺れながら、もっとも奔放に生きていたからだ。性欲のはけ口としてアルシャドを求め、経済的安定を与えてくれる人としてマノージとの結婚を進めていた。二股をかけていたというよりも迷走だ。リーラーにとってマノージは退屈な「いい人」であり、アルシャドとの駆け落ちを心の中では求めていたが、アルシャドの煮え切らない態度に業を煮やし、腹いせとしてマノージと婚約し、結婚も急いでいたというのが実際のところだ。また、アルシャドとのセックスビデオをマノージに見られてしまい結婚は破談となるが、そのビデオは自分で撮影したもので、自業自得だった。インド映画には、性に奔放に生きた女性は何らかの形で罰せられるという法則があるが、リーラーのエピソードはそれと大差がなかった。

 より興味深いのは残りの3人のエピソードだ。シーリーンは夫から愛されていない上に束縛されており、夜には一方的なセックスを強要され、しかも妊娠と堕胎を繰り返していた。ただ、夫に認めてもらいたいという欲求も持っていた。夫に秘密でセールスガールの仕事を始めたが、それが意外にはまり、職場で売上トップになるほど才能を発揮した。もちろん、追加収入を得て少しでも生活を楽にしたいという気持ちもあった。だが、夫の浮気を見つけ、しかも外で働いていることを知った夫からは、「女は男の真似をするな」と一喝されて終わる。シーリーンは全く自己の存在の意義を見出せなかった。

 リハーナーの家は厳格なイスラーム教徒であった。だが、教育には熱心で、彼女を大学まで通わせてくれた。インドにおいて、経済的に余裕がない中、娘を大学まで通わせるのは、かなり先進的な考えを持った家だといえる。本当はそれだけでリハーナーは恵まれていた。だが、リハーナーにはもっと大それた夢があった。それはロックスターになることである。ブルカーを着て家を出たリハーナーは、途中でブルカーを脱いで洋服になり、他の大学生たちの輪の中に加わる。また、イマドキの大学生ファッションに身を包みたいと思っていたがお金がなかったので、ショッピングモールで万引きをしてオシャレなアイテムを揃えていった。ドルヴという恋人もできるが、実は彼は仲良くなったナムラターの元恋人だった。しかもナムラターはドルヴに妊娠させられていた。ナムラターはリハーナーに嫉妬し、彼女の万引き行為を警察に密告する。リハーナーは警察に逮捕され、父親を失望させてしまう。

 このようにシーリーンとリハーナーのエピソードは、娘や妻に対する家族からの抑圧と、そこからの自由を求めた若い女性たちの物語になっていて、平行関係にある。しかしながら、どちらも立場が弱く、最終的には抑圧に押しつぶされてしまう。「Lipstick Under My Burkha」のメインストーリーはこの2つだと考えていい。

 リーラー、シーリーン、リハーナーに比べると、ブワージーのエピソードは前代未聞だ。何しろ初老女性の性欲が主題になっているのである。55歳のブワージーは約30年前のボーパール化学工場事件で夫を失っていた。つまり、25歳頃に彼女は夫を失っており、子供もいなかった。この30年間、彼女は性欲を持てあましながら過ごしており、いつしか官能小説を愛読するようになった。「Lipstick Under My Burkha」のナレーションを務めるのもブワージーだが、単なるナレーションではなく、「リップスティックの夢」という官能小説を読み上げる形になっている。小説の内容が、4人の女性の身に起こる出来事とリンクしているという仕掛けになっていた。

 さらに、ブワージーが恋愛の対象とするのが、若い水泳コーチ、ジャスパールである。ブワージーはジャスパールと会いたいがために水泳教室に通うようになり、夜中になると彼に電話して、官能小説の主人公ロージーを名乗って彼とテレフォンセックスをするようになる。

 ブワージーも特に何かの抑圧と戦っていたわけではなかった。家族の中では最年長であったし、ハワーイー・マンズィルの女主人として君臨し、甥たちからも尊敬されていた。だが、彼女がジャスパールに言い寄っていたことが発覚すると、シーリーンやリハーナーよりも激しい仕打ちを受けることになった。あんなにブワージーを慕っていた甥たちとその妻たちは血相を変えてブワージーを家から追い出したのである。

 もしこれが男性だったら、このように反射的な拒絶反応はなかったのではなかろうか。やはり女性が老齢になってから若い男性に一方的に恋をし、しかもいやらしい電話を掛けていたために、家族はまるで汚物を放り捨てるような反応をしたのだろう。そう考えると、「恋愛すらしてはいけない」というもっとも強力な束縛を受けていたのはブワージーということになる。この事実を浮き彫りにしただけでも、この映画は成功したといえる。

 また、もし4人の主役女性にもう一人女性を追加するとしたら、リーラーの母親を挙げたい。リーラーには父親がおらず、母親が女手ひとつで育ててきたが、彼女が何をしていたのかといえばヌードモデルである。インドでは全く尊敬されない仕事だ。おそらくハワーイー・マンズィルの住人たちも彼女の仕事は知らなかったのではなかろうか。彼女は生きるために恥も外聞もかなぐり捨てヌードモデルをしてきた故に、娘を経済的に安定した男性と結婚させることにこだわった。だが、リーラーはそれを理解していなかった。リーラーの母親は、リーラーがアルシャドと暗闇の中でセックスをしているところも目撃するが、ほとんど動じていなかった。おそらくリーラーに自分の若い頃を重ね合わせていたのだと思われる。つまり、リーラーの母親も、一時的な情愛に身を任せて、将来性のない男性と結婚し、リーラーを生んで、貧困の中、生きることになったのだと思われる。リーラーの母親の登場シーンは多くなかったが、そんなバックストーリーが勝手に浮かんでくるほどキャラクターが立っていた。

 女性の視点から女性の生きにくさを描いた映画であるため、相対的に男性たちは辺縁に追いやられている。しかも、自分勝手な男、妊娠させて逃げる男、煮え切らない男、退屈な男など、「こういう男とは関わるな」と言わんばかりの悪いサンプルが揃っている。

 アランクリター・シュリーヴァースタヴァ監督はこの映画の脚本も書いている。見事な手腕であり、それだけでこの映画は傑作の部類に入る。それに加えて、ラトナー・パータク・シャーやコーンコナー・セーンシャルマーをはじめとした俳優たちの名演技があり、さらに映画の質を高めていた。やはり、老齢ながら性欲に身をもだえたり、水着を着て水泳の練習をしたりと、八面六臂の活躍をしたラトナー・パータク・シャーに最大限の賛辞を送りたい。

 内容は深刻ながら、娯楽映画としてのパッケージングにも気を配っており、歌と踊りがいくつか差し挟まれていた。印象に残ったのは「Jigi Jigi」という曲だ。リーラーの婚約式で流れる曲で、パーキスターン人歌手ゼーブ・バンガシュが歌っている。ゼーブはアフガーニスターン国境沿いのカイバル・パクトゥーンカー州出身で、アフガーン音楽のエッセンスが混ざっている。題名の「Jigi Jigi」は、辞書によれば「喜びを表す言葉」とのことだが、隠語で「セックス」を意味することもある。

 「Lipstick Under My Burkha」は、4人の女性の視点から、インド社会における女性の生きにくさを鋭く、しかも娯楽映画テイストで面白く描写した傑作である。ただ、映像的・音声的に性描写は過激だ。東京国際映画祭などで上映された後、いくつもの箇所のカットを経てインドで公開されたため、複数のバージョンが存在する可能性がある。女性の視点から女性の性愛を描いたエポックメイキング的な映画であり、必見の作品だ。