Shaandaar

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Shaandaar
「Shaandaar」

 インドの伝統的な結婚式は1週間続き、その間、様々な儀式が執り行われる。その様子をずっと追った映画もいくつか作られており、インド文化を知るためにはいい教材となる。このジャンルでもっとも有名なヒンディー語映画は1990年代の大ヒット娯楽映画「Hum Aapke Hain Koun..!」(1994年)であるが、より写実的なものになると「Monsoon Wedding」(2001年/邦題:モンスーン・ウェディング)も傑作である。

 2015年10月22日公開の「Shaandaar」も、2010年代のウェディング映画と位置づけることができるだろう。監督は「Queen」(2014年/邦題:クイーン 旅立つわたしのハネムーン)のヴィカース・ベヘル。主演はシャーヒド・カプールとアーリヤー・バット。他に、パンカジ・カプール、サンジャイ・カプール、サナー・カプール、ヴィカース・ヴァルマー、スシュマー・セートなど。カラン・ジョーハル、アヌラーグ・カシヤプ、ヴィクラマーディティヤ・モートワーニーがプロデュースしており、カラン・ジョーハルが特別出演する。 

 大富豪アローラー家ではカムラー(スシュマー・セート)が女帝のように権勢を振るっていた。カムラーの息子ヴィピン(パンカジ・カプール)は、パイロットになる夢や恋人のプラバーを捨てて、母親の言う通り、ギートゥーと結婚し、二人の間にはイシャー(サナー・カプール)が生まれた。また、ヴィピンはある日、アーリヤー(アーリヤー・バット)を養女に迎えた。カムラーとギートゥーはアーリヤーに冷たい態度を取るが、イシャーとアーリヤーは実の姉妹のように仲良く育った。

 アローラー家は破産の危機に直面しており、同じく大富豪のファンドワーニー家と政略結婚をして共同事業を立ち上げ、何とか財政を立て直そうとしていた。こうして、イシャーはファンドワーニー(サンジャイ・カプール)の弟ロビン(ヴィカース・ヴァルマー)と結婚することになり、アローラー家とファンドワーニー家は結婚式会場となる古城に滞在することになった。

 ウェディングプランナーのジャグジンダル・ジョーギンダル、通称JJ(シャーヒド・カプール)は、ヴィピンからは嫌われながらも、アーリヤーと深い仲になる。JJとアーリヤーは不眠症という共通の病気を持っていたが、二人は一緒になるとよく眠ることができた。

 実はファンドワーニー家も破産寸前で、アローラー家との政略結婚により事業を立て直そうとしていた。ロビンも、太ったイシャーとは結婚したくなかったが、家のために我慢して結婚に同意していた。イシャーも、ロビンに嫌気が指していたが、「結婚は妥協」という母親の言葉を信じて結婚を辞めなかった。

 だが、結婚式の途中でカムラーが急死し、風向きが変わった。婚姻の儀式の直前にイシャーは結婚を取り止める。ファンドワーニーは無理矢理結婚させようとするが、ヴィピン、JJ、アーリヤー、イシャーは、ロビンを人質に取って逃げ出す。

 「Shaandaar」は、シャーヒド・カプールとアーリヤー・バットというスターキャストがありながら興行的に失敗した残念な作品である。それを知って敢えて鑑賞したので、映画の出来が悪くても特に憤慨するようなことはなかった。全体的に安っぽいコメディータッチで、確かに前半は馬鹿馬鹿しいシーンのオンパレードである。興行的な失敗は正当な評価だと言える。

 だが、そんな失敗作の中にも、特に後半に光るものがあった。アローラー家の女帝として君臨していたカムラーが急死してからの流れだ。インドでは、死は不吉な出来事であり、結婚式の直前や最中に家族や親戚で死人が出ると、その結婚式は延期となることが普通だ。カムラーの死が公になれば、式は中止となる公算が高かった。アローラー家は財政再建のために何としてでもファンドワーニー家との婚姻を成立させる必要があり、カムラーの死を隠し通すことを決める。何かと口うるさかったカムラーが急に黙ってしまうのは変だったが、何とか式が終わるまで隠し通そうとするところにコメディー要素が生じる。カムラーの死は終盤だったので、この要素がフル活用されることはなかったが、面白い映画になり得る可能性は感じた。

 序盤から終盤までほとんどナンセンスなドンチャン騒ぎに終始していたが、締め方は良かった。終わり良ければ全てよし、とまでは言わないが、いい終わり方だった。イシャーは太った女の子で、それを自覚しつつも、ついつい甘い物に手を出してしまっていた。だが、結婚式直前ということで、お菓子を我慢していた。婚姻の儀式、火の周りを7回まわるサート・ペーレーが始まる直前に、イシャーの着ていた花嫁衣装が裂けてしまう。それを見てロビンは笑いをこらえきれなくなる。それを見たイシャーは吹っ切れて、花嫁衣装を脱ぎ捨て下着姿になり、花婿に対して言い放つ。「私は太っているけど、私は自分が好き。それを受け容れてくれないなら結婚はしない。」

 娯楽業界で痩せたモデル体型の女性がもてはやされるのはどこの国でもそう変わらないことだろう。だが、近年、ヒンディー語映画では、太った女性が主人公の映画がいくつか作られるようになった。「Dum Laga Ke Haisha」(2015年)や「Fanney Khan」(2018年)などである。頭髪や肌の色など、その他の身体的なコンプレックスをテーマにした映画も出て来た。それらが共通して主張しているのは、あるがままの自分を受け容れるべし、ということである。「Shaandaar」からも明確にそのメッセージを読み取ることができた。

 主人公の男女が不眠症という悩みを共有しているという点も、もう少し工夫すれば、いいギミックになったように感じた。運命の人と一緒にいることで不眠症が解消されるというのは、何ともロマンチックだった。

 異なるコミュニティー同士の結婚は、近年のヒンディー語映画では面白おかしく取り上げられることが多い。インドは、決して「インド人」としてまとまった国ではなく、人々は、宗教、民族、カーストなど、重層的なアイデンティティーを抱えているが、地域性はその中でもかなり強いアイデンティティーを構成している。パンジャーブ人、ベンガル人、タミル人など、「~人」として括ることのできる地域性が存在する。「Shaandaar」での結婚は、パンジャーブ人とスィンド人の結婚であった。パンジャーブ人は、パンジャーブ州出身者とほぼイコールであるが、スィンドという地名はインドにはないので説明が必要だろう。スィンド地方は現在のパーキスターン南部に位置している。モヘンジョ・ダーロなどがある地域で、中心都市はカラーチーだ。印パ分離独立時に多くのスィンド人がインドに移住して来ており、インドにも一定数のスィンド人コミュニティーが存在する。商売上手で知られており、NRI(在外インド人)の中でもプレゼンスが高い。「Shaandaar」のファンドワーニー家はスィンド人家系で、一般のインド人がイメージする金満家スィンド人が投影されていた。スィンド人が見たら決して気持ちの良いものではないだろう。

 低俗な映画ではあったが、シャーヒド・カプールとアーリヤー・バットは素直な演技をしていた。シャーヒドは、実の父親であるパンカジ・カプールと初共演である。以前、シャーヒドは父親の監督する「Mausam」(2011年)で主演を張ったが、スクリーンを共有するのは初めてのことだ。しかも、パンカジ演じるヴィピンはシャーヒド演じるJJのことを毛嫌いするという設定である。

 ファンドワーニーを演じたサンジャイ・カプールはアニル・カプールの弟。兄弟だけあって、顔から声から雰囲気までよく似ている。国際的な俳優に成長した兄に比べたら最近出番が少ない。女帝カムラーを演じたスシュマー・セートはベテラン女優で、最近では「Student of the Year」(2012年)などにも出演していた。貫禄の演技であった。

 近年のヒンディー語映画では珍しく、ダンスシーンが多めの映画だった。音楽監督はアミト・トリヴェーディー。圧巻だったのは終盤のカッワーリー・バトル風「Senti Wali Mental」だ。インドの結婚式では、花婿側と花嫁側に分かれてお互いを揶揄する歌を歌い合う儀式があるが、それをゴージャスにしたような演出になっていた。この歌の中で双方が言いたいことを言い合うのだが、最終的には花嫁側のアローラー家が花婿側のファンドワーニー家をねじ伏せ、結束を強める結果となった。歌で感情を表現し、ストーリーを前に進めるのは、インド映画の美しい特徴である。

 ただ、ヨーロッパの古城を結婚式会場とするデスティネーション・ウェディングであることもあり、インドの伝統的な結婚式の儀式に則って物事が進む映画ではなかった。例えば花嫁や女性たちがメヘンディー(手足にヘナで描かれた吉祥模様)を施す「メヘンディー」という儀式があるが、なぜかそれが「メヘンディー・ウィズ・カラン」というイベントになっており、カラン・ジョーハルが本人役で登場して、新郎新婦などにクイズを出す、かなり奇抜な展開となっていた。この映画を見ても、インドの結婚式の流れを理解することはできないだろう。

 「Shaandaar」は、シャーヒド・カプールとアーリヤー・バットが主演のデスティネーション・ウェディング映画。残念ながらフロップに終わってしまったが、いい映画になり得る要素はいくつか持っており、光るものはあった。わざわざ観る必要はないが、何の取り柄もない映画ではない。