Margarita with a Straw

4.0
Margarita with a Straw
「Margarita with a Straw」

 ここ最近、日本でコンスタントにインド映画が一般公開されるようになっており、今年も以下のように複数の作品が上映された――「Bhaag Milkha Bhaag」(2013年/邦題:ミルカ)、「Kahaani」(2012年/邦題:女神は二度微笑む)、「Ferrari Ki Sawaari」(2012年/邦題:フェラーリの運ぶ夢)、「Go Goa Gone」(2013年/邦題:インド・オブ・ザ・デッド)、「Yeh Jawaani Hai Deewani」(2013年/邦題:若さは向こう見ず)、「Aashiqui 2」(2013年/邦題:愛するがゆえに)。予定にある中ではおそらく今年最後の一般公開作となるのが「Margarita with a Straw」である。「マルガリータに乾杯を!」の邦題と共に2015年10月24日から公開されており、名古屋では10月31日から名演小劇場で掛かっている。また、この作品は同年のあいち国際女性映画祭でオープニング上映されており、ショーナーリー・ボース監督と主演カルキ・ケクランが来日している。ちなみに、インド本国では2015年4月17日の公開である。

 「Margarita with a Straw」の言語は基本的にヒンディー語と英語。監督のショーナーリー・ボースは1984年の反スィク暴動をテーマにした「Amu」(2005年)で知られているが、寡作である。今回は障害者の性欲という微妙な問題を取り上げている。監督の従妹が障害を持っており、彼女とのやり取りがアイデアの源泉となったようだ。このような映画を作ろうと思った場合、ヒンディー語映画業界広しと言えども、なかなか演じられる女優がいないのだが、主演にキャスティングされたのはインド生まれのフランス人女優カルキ・ケクラン。見た目はフランス人そのままなのだが、生粋のインド人役として起用されることが度々あり、既にインド人観客はあまり彼女の人種を気にしなくなっているように感じる。確かに現在の彼女の立ち位置は、このようなセンシティブな役が巡って来やすいだろう。彼女が演じるのは、脳性麻痺の19歳女性ライラーである。

 他に、ほぼ無名の女優であるサヤーニー・グプターが盲目の女性ハーヌムを演じている。映画を観ていると、彼女は実際に盲人なのではないかと思ってしまうのだが、普通に目が見える健常者である。「Sparsh」(1980年)で盲人を演じた名優ナスィールッディーン・シャーから手ほどきを受けて盲目の女性を演じ切った。また、ライラーの母親役として、南インド映画界を主な活躍の場とするレーヴァティーが出演している。それ以外のキャストは、クルジート・スィン、フサイン・ダラール、ウィリアム・モーズリー、テンジン・ダラなど。

 19歳のライラー(カルキ・ケクラン)は脳性麻痺で車椅子生活、言葉もままならない。だが、母親のシュバーンギニー(レーヴァティー)のサポートもあり、デリー大学ラームジャス・カレッジに通い、勉強や好きな音楽に打ち込んでいた。

 ライラーは、同じく車椅子のドルヴ(フサイン・ダラール)という友人がいたが、彼女が本気で恋していたのはバンドのヴォーカリスト、ニマ(テンジン・ダラ)だった。ニマはライラーの作詞力を高く買っていた。しかし、ライラーがニマに告白すると、ニマは返答をしてくれなかった。身体障害者が健常者と恋することはできなかった。

 ショックを受けたライラーは大学に行かなくなる。見かねたシュバーンギニーはニューヨーク大学への願書を出す。父親(クルジート・スィン)は反対していたが、かねてからライラーは海外留学を夢見ていた。ニューヨーク大学から入学許可が届き、ライラーは渡米することになる。

 ライラーはニューヨークでハーヌム(サヤーニー・グプター)という盲目の女性と出会う。ハーヌムはパーキスターン人とバングラデシュ人のハーフであった。ハーヌムは実はレズビアンであり、ライラーにアプローチするようになる。ライラーはハーヌムと同性愛の関係となり、二人は同棲し始める。

 ところが、ライラーは彼女のアシスタントとして大学が任命した白人男性ジャレッド(ウィリアム・モーズリー)と、ふとしたことがきっかけで、セックスをしてしまう。ライラーはそのことをハーヌムに言い出せずにいた。

 夏休みが近付き、ライラーはインドに一時帰国することになった。ハーヌムもヴィザを申請して受理され、2人で一緒にインドへ渡った。そこでライラーは母親に自分がバイセクシャルであることを打ち明ける。シュバーンギニーは戸惑う。また、ライラーはハーヌムに、ジャレッドとセックスしたことを自白する。ハーヌムは激怒し、米国に帰ってしまう。そんなときシュバーンギニーは結腸ガンで入院する。既に第4ステージにまで進んでおり、間もなく彼女はライラーらに看取られながら死去する。

 一番の理解者であった母親を失い、ハーヌムとも絶交したライラーは、自分自身とのデートに出掛ける。

 インドに限らないし、映画に限らないが、安易な感動を演出するために、身体的・精神的な障害が取り上げられることが多々ある。インドでは、あろうことか、障害をギャグのネタに使うこともあり、観ていて決して心地良いものではない。よって、障害者モノの映画に対しては、若干の慎重さをもって臨んでいる。

 ところが、「Margarita with a Straw」は決して観客を感動の渦に巻き込もうとしていなかった。ショーナーリー・ボース監督は淡々と主人公ライラーのプライベートな日常と、プライベートな感情や欲情を描き出す。ライラーの人生には喜びあり、挫折あり、希望あり、苦悩ありだが、それらは必ずしも全てが身体障害者に限定されたものではない。むしろ、劇中で「ノーマルワーレー(普通の人々)」と呼ばれていた健常者でも直面する出来事の延長線上にある。よって、それらの出来事でもって観客を無理に感動させようとはしていない。そこにあるのは、身体障害者の性欲という、今まであまり語られて来なかった問題を浮き彫りにして行くひたすら冷静な視点だ。感動を押し付けるタイプの映画は身体障害者を「特殊」扱いしていると言えるのだが、「Margarita with a Straw」は身体障害者を「普通」扱いしている。だからチープな感動を追い求めておらず、より引き込まれるものがある。

 劇中でライラーが直面する問題はいくつかの段階に分けて考えられる。彼女にとって最初の挫折は、純粋に才能を評価してもらえないことだ。ライラーはバンド仲間と共にカレッジ対抗のコンペティションに出場し、見事優勝する。ところが、審査の理由として、身体障害者が作詞した曲である点が挙げられた。ライラーは自分の作詞力にプライドを持っており、ハンディキャップがなくても認められると自負していた。よって、そのような講評を聞いたとき、彼女は賞を拒絶するのである。この点のみは、身体障害者ゆえに被る、優遇という名の差別だ。

 次にライラーは健常者との失恋を経験する。ライラーはバンドのヴォーカリスト、ニマに恋しており、彼に告白をする。だが、ニマは彼女の気持ちに応えてくれなかった。それは彼女が身体障害者だったからではないかもしれない。しかし、ライラーには、「健常者と身体障害者の恋愛は不可能」という「ルール」を突き付けるものとなった。その影響でライラーは不登校になる。

 ニューヨークに渡ったライラーは、ハーヌムとの出会いをきっかけに同性愛に目覚める。しかし、彼女が根っからの同性愛者なのかどうかについては怪しい。ハーヌムに嫌われたくなくて彼女に合わせていたというのが実のところであろう。実際、彼女は白人男性ジャレッドにも恋心を抱き、彼との性行為も受け容れる。ライラーは自身の性的指向をバイセクシャルと判断し、それを帰郷時に母親にカミングアウトする。母親がそれを完全に飲み込んだのかどうかについては映画では不明瞭だ。だが、決して歓迎された訳ではなく、ここでもライラーは大きな壁にぶち当たる。

 彼女は、脳性麻痺であるために、常に「普通ではない」と言われて来た。だが、いざバイセクシャルだと打ち明けると、今度は「それは普通ではない」とされ、拒絶された。ライラーは、この矛盾が納得できなかった。そんなモヤモヤした気持ちのまま、彼女はハーヌムにジャレッドとのことを打ち明ける。ハーヌムにとってそれは「裏切り」であり、決して許されるものではなかった。ライラーはハーヌムの愛情をも失う。この辺りまで来ると、ライラーが身体障害者である必要はなく、純粋なLGBT映画としても問題ない。

 最後にライラーは母親を結腸ガンで失う。母親が彼女の全てを受け容れようと受け容れまいと、一番の理解者は母親であった。その母親を失ったことは、ライラーにとって大きな転機だった。もう頼れる人はいないし、同時に気兼ねする人もいない。ライラーはライラー自身として生きて行かなければならなくなった。

 ここでストロー付きのマルガリータが登場する。題名の「Margarita with a Straw」が直訳すると「ストロー付きのマルガリータ」になる。

 劇中で最初にこれが登場するのは、ニューヨークでハーヌムと一緒にハングアウトしたときだ。ライラーは今まで酒を飲んだこともなかった。だが、ハーヌムとの「デート」で初めてカクテルを口にする。ライラーは手が不器用なので、コップを持ってうまく飲むことができず、飲むにはストローが要る。そういう訳で、ストロー付きのマルガリータなのである。このときのマルガリータが象徴するのは、子供から大人への一歩、そしてストローが象徴するのは、まだ自立していないことだと言える。

 一方、エンディング直前に登場するストロー付きのマルガリータは、明らかに意味が異なる。このとき、ライラーは母親もハーヌムも失っていた。彼女は友達からの誘いを「デートがあるから」と言って断り、オープンテラスのカフェへ赴く。彼女のデート相手は鏡に映った彼女自身であった。そして手にしているのがストロー付きのマルガリータ。しかも、自分でマルガリータの容器を移してストロー付きの蓋をした。ここでマルガリータが象徴するのは自分自身を受け容れる前向きな姿勢や自分の道は自分で決める決意であり、ストローは自立を象徴する。つまり、ストローが全く逆の意味を表すことになっており、非常に巧みな演出だと評価することができる。

 上でも書いたが、おそらくライラーの役はカルキ・ケクランだからこそできた。あまりに要求するものが多く、高く、通常のヒロイン女優は触れることもできない役だ。何も知らない人が観たら、絶対にカルキは本当に脳性麻痺だと思うだろう。それほど迫真の演技だった。唯一ネックなのは、彼女の外見がフランス人だということのみである。パンジャーブ人の父親とタミル人の母親の間にカルキが生まれることは考えにくい。

 カルキと同性愛関係になるサヤーナー・グプターも、無名ながら体当たりの演技だった。この2人は濃厚なレズシーンにも挑戦しているし、乳首も見せていた。カルキのマスターベーションシーンもあった。もしかしたらインド公開版ではこれらはカットになっていたかもしれない。テーマもさることながら、こういう部分でも冒険をしていた映画だった。

 社会派映画の範疇に入る作品ながら、意外に音楽も充実していた。アッサム人歌手ジョイ・バルアーの歌う「Dusokute」はストーリーに組み込まれている重要な曲だったが、他にも多くの曲がBGMとして活用されていた。大半の曲はミッキー・マックリアリーが作曲している。チェンナイ生まれのニュージーランド人音楽家という変わり種だ。

 「Margarita with a Straw」は、障害者の性欲という、今まであまり日が当たらなかったテーマに果敢に切り込んだ作品だ。決して感動の安売りをしておらず、淡々と問題を描き出しており、好感が持てた。カルキの圧倒的な演技にも注目したい。「マルガリータに乾杯を!」の邦題で公開中で、後にBD/DVDも発売されるだろう。チャンスがあれば多くの人に観てもらいたい映画だ。このようなインド映画が日本の映画愛好家たちの目に触れるのは、インド映画の多様性を知らしめることにつながり、インド映画の今後にとって絶対にプラスになると感じる。