I, Me Aur Main

3.5

 インド人の母親は一般に息子を溺愛することで知られており、その当然の帰結として、インド人男性の多くはマザコンである。女の子が厳しく躾けられるのに対し、男の子はかなり自由放任主義で育てられるところもあり、インド人男性は自然と自分を女性よりも優位に考えるようになる。インド社会にはこびる女性蔑視の要因は、母親による溺愛にあるとまでいわれている。

 2013年3月1日公開の「I, Me Aur Main」は、母親から溺愛されて育った自己中心的な男性を主人公にしたロマンス映画だ。監督はカピル・シャルマー。コメディアンのカピル・シャルマーとは別人で、「Ghajini」(2008年)などで助監督を務めてきた人物である。メインキャストは、ジョン・アブラハム、チトラーンガダー・スィン、プラーチー・デーサーイーの3人である。また、ラーイマー・セーン、ザリーナー・ワハーブ、サミール・ソーニー、シーナー・シャーハーバーディー、ミニ・マートゥルなどが出演している。

 舞台はムンバイー。母親のニシャー(ザリーナー・ワハーブ)から溺愛されて自己中心的な男性に育ってしまったイシャーン(ジョン・アブラハム)は、音楽プロデューサーとして音楽会社に勤めていた。ボスのビーナー(ラーイマー・セーン)とは対立をしていた。イシャーンは、姉のシヴァーニー(ミニ・マートゥル)の紹介で出会ったアヌシュカー(チトラーンガダー・スィン)と過去3年に渡って同棲していた。だが、あまりにイシャーンが無責任だったため、とうとう我慢しきれなくなったアヌシュカーはイシャーンと別れ、彼を家から追い出す。

 イシャーンはアパートを探して住み始めるが、その隣人となったのがスタイリストのガウリー(プラーチー・デーサーイー)であった。イシャーンは天真爛漫なガウリーに惹かれ、やがて付き合うようになる。しかし、アヌシュカーはイシャーンの子を身籠もっていた。アヌシュカーはそのことをイシャーンに言い出せなかった。アヌシュカーと付き合い出したアガスティヤ(サミール・ソーニー)やシヴァーニーはそのことをイシャーンに伝えるべきだと考え、場もセッティングするが、やはり無責任なイシャーンは、その場も台無しにする。

 イシャーンとビーナーの対立はとうとう頂点に達し、イシャーンは会社を辞める。そして、自分で発掘した新人歌手のアーマラー(シーナー・シャーハーバーディー)をローンチすることにする。ガウリーの助けを借りてアーマラーを飾り立て、歌も用意する。一方、ガウリーはパリに留学しようとしており、イシャーンを誘う。イシャーンはそれを承諾するが、そのときアヌシュカーが身籠もっているのは自分の子供だということを知り、ジレンマに陥る。また、そのことを知った母親からも叱責される。

 アーマラーのお披露目会の日、アヌシュカーが産気づいて病院に運び込まれたことをイシャーンは知る。居ても立ってもいられなくなったイシャーンは、アーマラーやガウリーを会場に残し、病院へ向かう。アーマラーは、本当に自分が歌いたかった歌を歌い、鮮烈なデビューを飾る。アヌシュカーは元気な女の子を産む。イシャーンは彼女に結婚を申し出るが、アヌシュカーは結婚しなくても幸せな家族の形は作れると言って拒否する。

 8ヶ月後・・・。アヌシュカーはアガスティヤと結婚し、イシャーンは生まれた赤子の世話をきちんとしていた。子育てはアヌシュカーと交代で見ていた。

 自分勝手なプレイボーイと、彼を巡る複数の女性のロマンス映画であり、一見すると何の変哲もないお気楽な娯楽映画である。だが、終盤に入ると意外な展開が続き、最後には驚くような結末が待っていた。非常に興味深いまとめ方をしていた映画だといえる。

 主人公イシャーンの周囲には、最大6人の女性が存在する。まずは母親。そして姉。子供の頃から母親は姉よりもイシャーンを可愛がっていたため、イシャーンは自己中心的な性格の男性に育ってしまった。そして彼が付き合っているのがアヌシュカー。だが、物語の序盤で二人は破局する。破局と同時にイシャーンが出会ったのが、隣人のガウリーである。また、職場ではイシャーンはボスのビーナーと対立関係にあり、一触即発の状態だった。そして音楽プロデューサーの彼がローンチしようとしていたのが新人歌手のアーマラーであった。しかも、最後にアヌシュカーが生んだのは女の子であるため、彼の人生にさらにもう一人女性が加わる。

 母親、姉、イシャーンの関係は、インドによくありそうな人間関係である。母親は息子を可愛がり、姉はそういう差別的な待遇に不満を持ちながらも慣れてしまい、諦めていた。イシャーンは一連の事件の中で責任ある行動を取ろうと努力するようになるが、その最大のきっかけは、母親から平手打ちされたことだった。おそらく母親からそういうことをされたのは人生で初めてのことだったのではないか。そして母親は言う。もっと早くこうしていれば、良い子に育ったのに、と。イシャーンは常に、「イシャーンが一番」と言われて育ってきた。だが、彼は初めて、自分は一番ではないと突き放されたのである。

 イシャーン、アヌシュカー、ガウリーもよくある三角関係ではある。ただ、イシャーンとアヌシュカーは早々に破局し、イシャーンとガウリーの恋愛が始まる。多少クールな印象のあるアヌシュカーに比べ、ガウリーは天真爛漫でガーリーな女の子だった。イシャーンが彼女に恋するのに時間は掛からなかった。だが、アヌシュカーが妊娠し、自分の子供を身籠もっていることを知り、イシャーンは二人の女性の間で揺れるようになり、最終的にはアヌシュカーを選ぶことになる。一人でパリに発つことになったガウリーにとっては少し可哀想な結末だったが、その後もイシャーンとは完全に切れていない様子がエンディングで描かれる。

 驚きだったのは、イシャーンとアヌシュカーが、出産を機に結婚という道を選ばなかったことだ。通常のインド映画ならば、これで仲直りし、結婚で一件落着となるところだろう。だが、「I, Me Aur Main」では、結婚せずに父と母で分担して子育てをするという、新しい家族の形が提示されていた。しかもアヌシュカーはアガスティヤと結婚したと考えられる。インドのロマンス映画としては、非常にラディカルな結末だった。

 職場においてイシャーンがなぜそんなにビーナーと対立していたのか、よく分からなかったが、イシャーンが育てた新人歌手アーマラーのデビューシーンは、結末に華を添える効果をもたらしていた。イシャーンは流行に乗ったアップテンポな曲でアーマラーをデビューさせようとするが、アーマラーは度々それが自分に合わないと訴えてきていた。だが、イシャーンは自分の方が市場を知っていると言って聞き入れなかった。だが、母親から平手打ちを喰らい、自分を押し通すことが必ずしも最上ではないと目が覚めたイシャーンは、土壇場でアーマラーに、本当に歌いたかった歌を歌わせる。会場を訪れていたビーナーの賞賛を勝ち取ったことは、アーマラーのその後の成功を暗示していたといっていいだろう。

 ジョン・アブラハム、チトラーンガダー・スィン、プラーチー・デーサーイーをはじめ、俳優たちはそれぞれ精いっぱいの演技をしていた。だが、演技よりもストーリーの意外性の方に注目が集まるタイプの映画であった。そして、あまりに溺愛し過ぎるインドの母親たちへの警鐘にもなっていた。この種のメッセージが込められた映画は珍しいと感じる。

 「I, Me Aur Main」は、簡潔に説明してしまえば、自己中心的なプレイボーイと複数の女性を巡るロマンス映画ということになるが、それだけでは収まらない意外性のある脚本が売りの作品である。ジョン・アブラハム、チトラーンガダー・スィン、プラーチー・デーサーイーのトリオの共演というキャスティングにも意外性がある。しかもラーイマー・セーンまで出ている。あまり見ないコンビネーションである。興行的には失敗に終わったが、どこをどうしてこうなったのか、その成り立ちが興味深い作品である。