現在のヒンディー語娯楽映画界を方向付けた人物の筆頭としてヤシュ・チョープラー監督が挙げられる。1960年代から多くのヒット作を作り続け、特にロマンス映画の方程式を築き上げ、さらには業界最大手プロダクション、ヤシュラージ・フィルムスの創始者でもある。だが、アミターブ・バッチャンやシャールク・カーンなどにスーパースターのステータスを与えた張本人と表現すればもっとも分かりやすいだろう。今のヒンディー語映画の姿があるのは、その大半がヤシュ・チョープラー一人の貢献によるものと表現しても大きな語弊はない。そのヤシュ・チョープラーが2012年10月21日にデング熱より急死してしまい、インド全体に大きな激震が走った。
ヤシュ・チョープラーはロマンス超大作「Veer-Zaara」(2004年)以降、8年振りにメガホンを取っており、最新作「Jab Tak Hai Jaan」のディーワーリー公開が間近に迫っている中での訃報であった。享年80歳。まだまだ元気そうだったのだが、残念ながら「Jab Tak Hai Jaan」が彼の遺作となってしまった。だが、その題名「命ある限り」の通り、チョープラー監督は命ある限り映画を作り続けた。正に映画人の鑑と言っていいだろう。このような経緯もあって、「Jab Tak Hai Jaan」はインド映画ファンにとって特別な作品となった。
今年はディーワーリー祭が11月13日となり、「Jab Tak Hai Jaan」は監督の急死というハプニングがあったものの、予定通りそれに合わせての公開となった。ディーワーリーは1年の内で映画の成功がもっとも約束された日と信じられており、毎年ハイリスク・ハイリターン型の大作が集中する。同日公開の対抗馬作品はアジャイ・デーヴガン主演「Son of Sardaar」となった。
当然キャストやクルーも豪華だ。主演はシャールク・カーン、カトリーナ・カイフとアヌシュカー・シャルマー。シャールクとカトリーナの共演は初、シャールクとアヌシュカーは「Rab Ne Bana Di Jodi」(2008年)で共演済み。音楽はARレヘマーン、作詞はグルザール。脚本はヤシュ・チョープラーの息子アーディティヤ・チョープラーが書いている。意外なことにヤシュ・チョープラー、ARレヘマーン、グルザールの3人が共に仕事をしたのはこれが初めてであるらしい。各界の天才が一堂に会した作品だ。
監督:ヤシュ・チョープラー
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:ARレヘマーン
歌詞:グルザール
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
衣装:マニーシュ・マロートラー、シーラーズ・スィッディーキー、ウルヴァシー・シャー
出演:シャールク・カーン、カトリーナ・カイフ、アヌシュカー・シャルマー、アヌパム・ケール、リシ・カプール、ニートゥー・スィン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。
2012年。英国ディスカバリーチャンネルに勤務する男前なインド人女性アキーラー・ラーイ(アヌシュカー・シャルマー)はインドのラダック地方を取材で訪れていた。アキーラーはひょんなことからインド陸軍サマル・アーナンド少佐(シャールク・カーン)と出会い、彼の日記を読む。サマルは爆弾処理の専門家で、ボムスーツを着用せずに爆弾を処理する命知らずの勇気で知られていた。今まで58個の爆弾を処理して来ていた。 サマルの日記には10年前、25歳からの出来事が綴られていた。軍人家系に生まれたサマルは軍人になることを嫌がり、ロンドンにチャンスを求めてやって来ていた。サマルは誰をも幸せにする不思議な魅力を持っており、街角でストリート・ミュージシャンをして小銭を稼ぎつつ、教会の雪かき、魚市場の店員、レストランのウェイターなどをして暮らしていた。 サマルはミーラー・ターパル(カトリーナ・カイフ)という実業家の娘と出会う。ミーラーは父親(アヌパム・ケール)が決めた許嫁ロジャーと結婚するところであったが、サマルはミーラーが幸せそうでないことに気付き、彼女の本音を引き出す。ミーラーは本当はお嬢様ではなく、彼女の心はもっと破天荒な冒険を求めていた。サマルは彼女を真夜中にロンドンの不良たちが集う集会に招き、一緒に踊る。ミーラーは人生でもっとも楽しい時間を過ごす。このときサマルはミーラーに恋してしまい、彼女に愛の告白をする。ミーラーもサマルに恋をしていたが、はっきりと返事はしなかった。だが、ミーラーはサマルから歌とギターを習う内に関係は深まって行く。 ミーラーは父親を失望させることはできなかった。ミーラーの母親(ニートゥー・スィン)は彼女が12歳の頃に別の男と逃げてしまった。そのときから父親はミーラーを一人で育てて来てくれた。ミーラーは父親を誰よりも愛しており、彼の意向に反することはできなかった。信心深いミーラーは教会で神様に、サマルとは絶対に一線を越えないと誓う。 結婚式を前に、ミーラーの元に母親から突然贈り物が届く。ミーラーはサマルに相談し、一緒に母親に会いに行く。母親は英国郊外でイムラーン(リシ・カプール)と共に幸せそうに暮らしていた。母親はミーラーに、なぜ父親の元を去ったか説明する。父親との結婚はお見合いで、恋愛結婚ではなかった。彼女はミーラーが4歳の頃にイムラーンと出会い恋に落ちるが、そのときはミーラーのことを考え父親の元を去らなかった。だが、その8年後、イムラーンはまだ彼女のことを待っていてくれた。母親はそのとき父親を捨ててイムラーンと同棲し始めた。 それを聞いたミーラーは、愛していない人と結婚することの間違いに気付く。ミーラーは母親を許すと共に、サマルに愛の告白をする。サマルとミーラーは付き合うようになり、肌も重ねる。ある日ミーラーは父親にサマルと結婚したいと話すことを決める。ところがそのときミーラーの目の前でサマルは交通事故に遭ってしまう。サマルの息は止まっていた。ミーラーはその場に座り込んで神様に祈る。もうサマルとは会わない、だからサマルを生き返らせて欲しい、と。その願いが聞き入れられたのか、蘇生措置によってサマルは息を吹き返す。 その後ミーラーはしばらく連絡不通となっていた。回復したサマルは不審に思う。そんなときミーラーがサマルの自宅を訪れる。ミーラーは神様との約束を明かし、彼とは結婚できないと言う。また、できることならロンドンを立ち去るように頼む。それを聞いたサマルはすぐさまロンドンを発ち、インドに帰る。 それからのサマルは神との戦いだった。もしミーラーと会うことで自分が死んでしまうならば、一緒にいないことで絶対に死なないはずである。サマルは陸軍に入隊し、神に挑戦するように自ら死地に飛び込み続ける。もっとも危険な爆弾処理班に入ったのもその理由からであった。 その日記を読んだアキーラーはサマルに興味を持ち、彼の人生のドキュメンタリーを作ることを思い立つ。上司からも2週間の時間をもらい、軍の上層部からも許可が下りた。アキーラーは意気揚々とサマルの密着取材を始める。ところがいきなりアキーラーはチョンボをしてしまう。爆弾処理中のサマルに近付き、地雷を踏んでしまったのだ。サマルの機転により、その爆発によって誰も死傷しなかったが、アキーラーは大目玉を喰らってしまう。だが、徐々にサマルもアキーラーに心を開くようになる。アキーラーはサマルに恋してしまい、自分をガールフレンドにするように頼む。サマルはそれを笑って受け流し、アキーラーも彼がミーラーを愛していることを知っていたので深く落ち込まなかった。 2週間の取材は終わり、アキーラーはロンドンに帰って行った。アキーラーが作ったドキュメンタリーは上司に気に入られ、放送が決定する。だが、そのためにサマル本人をロンドンに呼ばなければならなくなってしまった。アキーラーはサマルに電話をし、ロンドンまで来られるか聞く。サマルは断るものの、アキーラーのキャリアに関わることであり、休暇を取ってロンドンまでやって来る。しかしアキーラーと出会った瞬間に交通事故に遭ってしまい、記憶喪失となってしまう。サマルからは10年前、2002年の交通事故以降の記憶が飛んでしまっていた。病床のサマルはミーラーの名前を呼び続けた。 医者は、サマルが知っている人を呼んで会わせ、徐々に記憶を回復させる手法を採る。そのためにはミーラーを呼ぶことがもっとも重要だった。アキーラーはミーラーに会いに行く。アキーラーが見るとミーラーは娘の誕生日パーティーをしているところでとても幸せそうだった。アキーラーはミーラーにサマルがロンドンにいること、そして記憶喪失になったことを伝える。ミーラーはすぐにサマルを見舞いに行き、10年振りに出会う。 サマルはまず今が2002年ではなく2012年であることを知らされる。ミーラーは、サマルにショックを与えないために、この10年間に自分たちは結婚したと嘘を付く。そしてその嘘に合わせ、アキーラーはサマルのロンドン時代の旧友と協力して、サマルのこの10年間のストーリーを作る。そのストーリーでは、サマルはインド料理レストラン「サマルズ・キッチン」を立ち上げ成功させていることになっていた。 だが、ミーラーは嘘を付き続けることに苦痛を感じ始める。医者もそろそろ真実を教える頃だと考え、サマルの目の前にアキーラーを登場させることを決める。アキーラーは、サマルの取材をしにディスカバリーチャンネルから派遣されたという設定でサマルと落ち合う。見たところサマルはアキーラーのことを覚えていないようであった。サマルは、アキーラーが乗っているロイヤルエンフィールドを見て運転したいと言い出す。サマルとアキーラーは共にロンドンを駆け巡る。 このときのアキーラーの心情は複雑であった。アキーラーはサマルに強く恋していたが、サマルの記憶を呼び戻すためには彼が愛し続けるミーラーの助けを借りなければならなかったからだ。しかし、このとき初めてアキーラーはサマルの本当の姿を目の当たりにする。明るく、活動的で、常に人を楽しませようとする陽気な人間であった。アキーラーがラダック地方で出会った彼は、滅多に笑わず、内に閉じこもった暗い人間だった。アキーラーは、自分が見たサマルは単なる影だったと気付く。そしてミーラーこそがサマルにとって必要な女性だと認める。また、そのことをミーラーに伝えたアキーラーは、実はミーラーはこの10年間結婚していないことを知る。ミーラーが主催していた誕生日パーティーはロジャーの娘のものであって、彼女の娘ではなかったのだ。 一方、サマルは一人で地下鉄に乗っているときに爆弾騒ぎに巻き込まれる。本能の赴くままにサマルは爆弾に近付き、簡単に処理してしまう。このとき彼は全てを思い出す。そしてミーラーを教会に呼び寄せ、神様に対し、自分を殺すか、ミーラーをよこすか、二者択一を求めながらインドへ帰って行く。 インドで復帰したサマルは通算107個目の爆弾を処理していた。そこへミーラーがやって来る。サマルはミーラーにプロポーズをし、108個目の爆弾処理へと向かう。今やミーラーを手に入れたサマルにとって、これが最後の爆弾であった。
出会い、別離、そして再会という軸と、恋愛結婚とお見合い結婚の間の葛藤という軸の2つを中心に展開する純愛劇を、歌と踊り、コミカルな脇役キャラ、海外ロケなどで味付けした、正統派インド製ロマンス映画。だが、「正統派」とか「典型的」とか、まるで定石通りの何の工夫もない映画のような扱いをするのはおこがましい。なぜならヤシュ・チョープラー自身がその娯楽映画の方程式を作り出したのであり、彼は自分のスタイルを最後の最後まで貫いただけだ。そして素晴らしいのは、ほとんど陳腐にはならず、むしろ観客の様々な情感点を刺激する優れた作品にまとまっていたことだ。正に匠の仕事と言える。
この映画では主に3つの方向から「愛」が探求されていたと言える。ひとつは結婚における恋愛について。ひとつは愛と宗教・信仰心の対立について。ひとつは世代間の恋愛観ギャップについて。
インド映画は常に恋愛結婚の味方であり、お見合い結婚は克服するべきものとして描写される。「Jab Tak Hai Jaan」でもヒロインのミーラーは恋愛結婚とお見合い結婚の葛藤に悩まされることになる。お見合い結婚というのは多くの場合、両親や家族に対する愛と信頼の延長線上であることが多い。現代の若い日本人は理解しがたいかもしれないが、大半のインド人は両親を絶対的に信頼しているが故にお見合い結婚を最良の結婚と考えている。ミーラーも同様で、今まで一人で自分に愛情を注いで来てくれた父親の期待を裏切りたくないがために、父親が決めた相手とお見合い結婚をしようとしていた。だが、サマルと出会ったことで恋愛結婚への願望も生まれ、悩まされることになる。これは言い換えるならば家族愛と異性愛の間の葛藤であり、簡単に解決できるものではない。
それでも「Jab Tak Hai Jaan」を含むインド映画は、心に素直に従い、恋愛結婚することを推奨する。なぜなら夫婦間に愛のない結婚は必ず失敗するからだ。ミーラーは、自分の母親がお見合い結婚をしたばかりに、結婚後に別の男性と恋に落ち、最終的に父親の元を去ったことを知り、一転してサマルと恋愛結婚することを決断する。結婚の失敗によってもっとも影響を受けるのはその夫婦の子供であることをミーラーは自身の経験から痛感していた。だから彼女は心に嘘を付いてまで愛していない男性と結婚することの間違いを知ったのだった。
しかし、ミーラーは信心深い女性だった。パンジャービーの家系なのでヒンドゥー教かスィク教だと思うのだが、劇中では彼女はキリスト教の教会に足繁く通い、神様に願い事をしていた。ミーラーはサマルと付き合い出す前に神様に、「サマルとは絶対に一線を越えない、もし越えたらどんな罰でも甘んじて受け容れる」と誓う。だが、結婚において恋愛は欠かせないと知ったミーラーは、その誓いを破り、サマルと付き合い出す。彼女にとって神様に背いた初めての体験であった。それは迷信を打ち破る勇気ある一歩であったが、父親にサマルとの結婚を明かす直前にサマルが交通事故に遭ったことで、彼女の心の中で抑圧されていた神様への畏敬がリバウンドして強烈に呼び戻される。息が止まったサマルを見たミーラーは神様に、今後一切サマルとは会わないと約束し、サマルの蘇生を願う。その願いが届いたのか、サマルは息を吹き返す。ミーラーは神様との約束通りサマルと関係を断ち切り、彼をロンドンから追い出す。
ミーラーは、神様に何かを叶えてもらうためには、何か大切なものを差し出さなければならないと信じていた。ミーラーは大切なサマルの命を救うために、大切なサマルを差し出した。サマルにとってはその理屈は到底理解しがたいものであったが、ミーラーのことを愛していたがために、ミーラーのその決断を受け容れる。そのときから神様との戦いが始まった。サマルは、ミーラーのその理屈が間違いであることを示すために、死ななければならなかった。ミーラーと一緒にいなくても自分が死ぬということを提示しなければならなかった。ミーラーはサマルを愛するが故にサマルを手放し、サマルはミーラーを愛するが故に自ら死地へ飛び込んだ。インド映画が長年に渡って描き続けて来た純愛の究極の形である。
このサマルとミーラーの純愛と対比する形でアキーラーの恋愛観が提示される。ミーラー演じるカトリーナ・カイフとアキーラー演じるアヌシュカー・シャルマーはそこまで年齢が離れている訳ではない。カトリーナは1984年生まれ、アヌシュカーは1988年生まれである。だが、劇中ではミーラーの方がアキーラーよりも1世代上という設定になっており、アキーラーは「今時の世代」を代表していた。アキーラーの言葉を借りれば、この世代の恋愛観は「インスタント・ラブ」であり、「セックスをしてから付き合うか考える」という恋愛パターンを取る。アキーラーはロンドン在住なので、それをインドの文脈にそのまま当てはめるのは危険であるが、とにかく日本人とそう変わらない恋愛観の世代の女性と考えればいいだろう。アキーラーは純愛なるものがこの世に存在することを信じられなかった。
だが、結局アキーラーはサマルとミーラーの関係を目の当たりにし、純愛が存在することを思い知らされる。2人とも10年間も離れ離れながらお互いを想い続けて来たのだ。アキーラーはサマルに恋していたが、純愛の前には「インスタント・ラブ」は全く敵わないことを知り、潔くミーラーに道を譲る。これは現代の軽い恋愛に対するアンチテーゼだと言える。
この3方向からの探求の結果、最終的に導き出された結論は、「愛にはタイミングがある」ということだ。愛はいつでも燃え上がるものだが、それが実現するのには時間が掛かることがある。ミーラーの母親とイムラーンのように8年掛かることもあれば、サマルとミーラーのように10年掛かることもある。だが、信じ続け、想い続ければ、必ず愛は実る、神様ですら妥協する、そんなメッセージがこの映画に込められていた。
基本的にこの映画は最初から最後まで楽しめたが、ひとつだけ興醒めだったのは記憶喪失の辺りだ。記憶喪失をストーリーに組み込んでドラマチックさを演出するのは古今東西の映画やTVドラマで使い古された常套手段で、ヤシュ・チョープラー監督には、こういう便利過ぎる転機を使わずに映画をまとめて欲しかったと思った。ラダックやカシュミールでこんなに爆弾が発見されるのか、水泳全国大会出場のアキーラーがなぜパンゴン・ツォで溺れたのか、など細かい点で突っ込みは入れられるのだが、大きな文句があったのは記憶喪失の辺りだけだ。
ヤシュ・チョープラーは、ヒロインをもっとも美しくスクリーンに映す監督として知られており、「Jab Tak Hai Jaan」でも、現代のヒンディー語映画において一線で活躍する2人の女優カトリーナ・カイフとアヌシュカー・シャルマーを魅力的に映し出していた。カトリーナは演技力にグッと自信を付けた印象だったし、アヌシュカーは持ち味のチャキチャキッ振りに磨きを掛け、独自の地位を築き上げたと言える。アヌシュカーはカトリーナに比べると顔に上品さが欠けるのだが、その表現力と自信に満ち溢れた演技によって、サブヒロインながらメインヒロインのカトリーナを圧倒していた。この2人のケミストリーは必ずしも良くなかったが、分かりやすい対比になっていてキャスティングは間違っていなかった。
そしてもちろんシャールク・カーンも素晴らしい演技だった。彼は真摯に演技しようとすると失敗することがあるのだが、今回はサマルという二面性を持ったキャラクターになりきった優れた演技で、キャリア・ベストの演技のひとつと言って差し支えないだろう。シャールク・カーン映画には珍しく、ヒロインとのキスシーンやベッドシーンもあった。アヌパム・ケール、リシ・カプール、ニートゥー・スィンなどのベテラン俳優たちには、特別出演レベルの限られた出番しか与えられていなかったが、それぞれそつなくこなしていた。
「Jab Tak Hai Jaan」の影の主役はカシュミール地方やラダック地方の雄大な光景とロイヤルエンフィールドのバイクである。かつてカシュミール地方はインド映画のお気に入りのロケ地であったが、治安の悪化によってその地位はスイスなど海外の景勝地に奪われてしまった。ヤシュ・チョープラーはインド映画に海外ロケを効果的に導入した人物の一人である。しかし遺作において彼はロケ地をカシュミールに戻した。何か運命的なものを感じる。ラダック地方は「3 Idiots」(2009年)の大ヒットによって一気にメジャーなロケ地として浮上した。「Jab Tak Hai Jaan」でも高山湖パンゴン・ツォなどで集中的にロケが行われており、ラダックの自然の魅力がたくさん詰まった作品になっていた。ますますラダックを目指す国内観光客が増加することであろう。
ロイヤルエンフィールドは「英国で生まれインドで育った」オートバイブランドである。元々英国で生産されていたが、1956年にインドのサテライト工場で生産が開始された。その後1970年に英国での生産が停止したことで、事実上インドがこのブランドの拠点となり、現在でも国内外で販売されている。ロイヤル・エンフィールドはインドの二輪車業界の中では特殊な位置に置かれている。インドではバイクの売れ筋は100ccから150ccで、プレミアムセグメントの製品でも225ccから250ccぐらいの排気量に留められているのだが、ロイヤルエンフィールドだけは一貫して350ccや500ccの大型バイクを販売している。50年以上設計が変わっていないロイヤルエンフィールドの「生きたビンテージ」は、バイク好きの中でも一目置かれた存在で、そのビンテージ感やマッチョ感に憧れを持つ人も多い。「Jab Tak Hai Jaan」はロイヤルエンフィールドとタイアップしており、同社のバイクが全面的にプロモートされていた。ラダックの荒々しい風景とロイヤルエンフィールドのマッチョなスタイルは非常にマッチする。かつて「Dhoom」(2004年)という映画があって、インドに空前のバイクブームを巻き起こしたのだが、この「Jab Tak Hai Jaan」は代わってロイヤルエンフィールド・ブームを巻き起こすかもしれない。
音楽は前述の通りARレヘマーン。サントラCDを聴いた限りでは飛び抜けていい曲がないと感じたのだが、さすがに映画にはまると魅力を発揮する。レヘマーンの作る曲の多くは映画との相乗効果が素晴らしい。タイトルソング「Jab Tak Hai Jaan」は絶品であるし、アキーラーをフィーチャーした「Jira Re」もいい曲だ。詩の美しさでは「Saans」が一番だ。
「Jab Tak Hai Jaan」はヤシュ・チョープラー渾身の傑作ロマンス映画。彼が一貫して描き続けて来た純愛の究極の形を見ることになるだろう。スター男優シャールク・カーンの演技、今もっとも勢いのある女優2人――カトリーナ・カイフとアヌシュカー・シャルマー――の共演、ARレヘマーンの音楽、グルザールの歌詞、カシュミールやラダックの美しい自然、ロイヤルエンフィールド大活躍など、見所も盛りだくさん。もちろん今年必見の映画の1本だ。命ある限り観るべし。
詩の翻訳
तेरी आँखों की नमकीन मस्तियाँ
तेरी हाँसी की बेपरवाह गुस्ताख़ियाँ
तेरी ज़ुल्फ़ों की लेहराती अंगड़ाइयाँ
नहीं भूलूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान
तेरा हाथ से हाथ छोड़ना
तेरा सायों का रुख़ मोड़ना
तेरा पलटके फिर न देखना
नहीं माफ़ करूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान
बारिशों में बेधड़क तेरे नाचने से
बात बात पे बेवजह तेरे रूठने से
छोटी छोटी तेरी बचकानी बदमाशियों से
मुहब्बत करूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान
तेरी झूठी क़स्म-ए-वादों से
तेरे जलते सुलगते ख़्वाबों से
तेरी बेरहम दुआओं से
नफ़रत करूँगा मैं
जब तक है जान, जब तक है जान
陶酔し魅了する君の目を
屈託のなくこぼれ落ちる君の笑みを
波打って誘惑する君の垂れ髪を
僕は忘れない
命ある限り、命ある限り
君が僕の手を離したことを
君が僕を見放したことを
君が再び振り返って見なかったことを
僕は許さない
命ある限り、命ある限り
雨の中我を忘れて踊る君を
いちいち下らないことに腹を立てる君を
幼稚な悪ふざけをする君を
僕は愛し続ける
命ある限り、命ある限り
君の偽りの約束を
君の燃えくすぶる夢を
君の無情な祈りを
僕は嫌い続ける
命ある限り、命ある限り