Teree Sang

2.5

 数週間前から、映画館に行くたびに1枚のポスターが気になっていた。「彼は17歳、彼女は15歳」というテロップと共に、妊娠した少女が写っている「Teree Sang」という映画のポスターであった。容易に「15歳で妊娠」というストーリーが想像できた。同様のテーマの映画では、16歳の妊婦が主人公の「JUNO/ジュノ」(2007年)が記憶に新しいが、サティーシュ・カウシク監督の弁では同映画のリメイクではないようである。主演の二人はほとんど無名だが、脇役陣にはなかなか興味深い顔ぶれが揃っており、観てもいいかという気分にさせられた。さらに、デリーでロケが行われていることを知り、さらに興味をそそられたのであった。「Teree Sang」は2009年8月7日より公開となった。

監督:サティーシュ・カウシク
制作:バラト・シャー
音楽:サチン・ジガル、バッピー・ラーヒリー、アヌ・マリク
歌詞:サミール、ヴィラーグ・ミシュラー
振付:ガネーシュ・アーチャーリヤ、アハマド・カーン、ホルムズド・カムバタ
出演:ルスラーン・ムムターズ、シーナー・シャーハーバーディー(新人)、ラジャト・カプール、ニーナー・グプター、サティーシュ・カウシク、スシュミター・ムカルジー、アヌパム・ケール(特別出演)
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。

 カビール・パンジャービー、通称クークー(ルスラーン・ムムターズ)は、オートリクシャーの運転手をする父親パンジャービー(サティーシュ・カウシク)と主婦の母親スシュマー(スシュミター・ムカルジー)と共にオールドデリーに住む17歳の少年であった。クークーは政府系学校に通っていたが成績はいい方ではなかった。ひょんなことからクークーは名門私立学校に通う15歳の女の子マーヒー(シーナー・シャーハーバーディー)と出会い、恋仲となる。マーヒーの父親は著名な弁護士モーヒト・プーリー(ラジャト・カプール)で、母親(ニーナー・グプター)はそのアシスタントをしていたが、二人とも仕事で多忙で家を留守にすることが多かった。マーヒーは家族の愛に飢えていたものの、冒険を好む明るい少女に育っていた。

 大晦日、両親がロンドン出張で留守なのをいいことにマーヒーはクークーとキャンプに出掛け、そこで一夜を共にする。だが、マーヒーは妊娠してしまう。まずマーヒーはそのことをクークーに打ち明ける。クークーとその仲間たちは中絶をさせようとするが、マーヒーにはそんな残酷なことは出来なかった。クークーは仕方なくそのことを両親に話す。パンジャービーは激怒するが、それ以上に激怒したのはプーリーであった。

 もはやどうしようもなくなったクークーとマーヒーは、ヒマーチャル・プラデーシュ州の山間の町ダルハウジーへ逃げる。そこでボロ屋に住み始めた2人は、すぐに所持金を使い果たしてしまったため、お金を稼ぎ始める。クークーは慣れない肉体労働をして苦労するが、何とか生活は軌道に乗りつつあった。

 一方、当初は表沙汰になるのを避けていたプーリーであったが、とうとう非常手段に打って出た。カビールが娘をレイプして誘拐したと公表し、全国的に指名手配させたのである。ダルハウジーでもそのニュースは広まり、クークーは表を出歩けなくなってしまう。だが、仕事をしなければ食べて行くものがなかった。マーヒーのための薬を買わなければならなかった。とうとう我慢しきれなくなって市場へ出て行ったが、そこで人々に発見され、追いかけ回される。クークーはマーヒーを連れて逃げ出す。

 ちょうどそのとき、クークーとマーヒーの居所を突き止めたパンジャービーとスシュマーがダルハウジーに来ていた。彼らはクークーとマーヒーをデリーに連れ帰る。ところがその途中でマーヒーが産気づいてしまい、病院へかつぎ込まれる。そこにはプーリーが警察と共に待ち構えていた。マーヒーはそのまま病室へ運ばれ、クークーは逮捕されてしまう。マーヒーは無事男の子を出産した。

 クークーの裁判が始まった。クークーにはレイプと誘拐の容疑がかかっており、原告側弁護士も敏腕であった。だが、パンジャービーは奇策に打って出る。全財産を投げ打ち、なんと原告であるモーヒト・プーリーにクークーの弁護士を依頼したのである。プーリーも複雑な気持ちながらそれを受け容れる。プーリーは弁護の中で、強姦か否かの分かれ目である女性側の同意を何歳から認めるべきかという議論から話を始め、クークーはマーヒーを妊娠させたが責任は果たしており、確かに過ちを犯したが罪は犯していないとし、もし罪人がいるとしたら娘を放任していた自分がそれであると結論づけ、クークーに対する訴えを取り下げた。しかし裁判長(アヌパム・ケール)は訴訟の棄却を認めず、代わりにマーヒーに対しては勉強をそのまま続けること、カビールに対しては3ヶ月間拘留所で今後のことについてゆっくり考えることを科した。

 低予算の映画で、主演の若手俳優二人の演技も未熟であったが、脚本は十分に面白く、示唆に富んだもので、しかも後半はスリルとアドベンチャーに満ちていて意外性があった。性教育映画としても価値がある。佳作の一本と言えるだろう。

 この作品は大まかに言って、2つの観客層に別々のメッセージを送っている。ひとつは10代の観客に向けたもので、青春を謳歌する権利は誰にでもあるが、性行為は結果を伴うと言うメッセージである。劇中ではクークーとマーヒーが避妊したのか否かは出て来なかったので、避妊は問題になっていない。高校や中学に通う年齢の男女が子供を作って責任が取れるのか、というもっと根源的な問いが問い掛けられていたと言っていいだろう。クークーとマーヒーの場合は、それぞれの家族を捨てて逃亡し、お金を稼いで生計を立てるという非現実的な手段を採ったが、それも長くは続かなかった。マーヒーは父親に、幼くして望まない妊娠をしてしまった女性に適切な道が用意されていないと泣きながら訴え、厳格な父親も最終的には娘の言葉にかなり影響されるが、裁判の判決は、決してクークーやマーヒーを甘やかすものではなかったし、解決法が提示された訳でもなかった。つまりそれは、責任を持てない年齢で一線を越えるべきではないというメッセージであった。

 もうひとつは未成年の子供を持つ親に向けたメッセージである。マーヒーの両親は仕事を優先するあまり、子供と共に過ごす時間を十分に持てなかった。しかも父親がマーヒーと話すときは叱るときだけであった。それが結局マーヒーの妊娠につながってしまった。

 弁護士のプーリーは、カビールを訴えたはずが、裁判において彼を弁護することになるのだが、その中で興味深いことを議論していた。性行為の際、女性の同意能力は何歳から認められるかという問題についてである。つまり、何歳より下の女性との性行為が違法行為となるか、である。どうもインドでは一般に16歳から同意能力が認められるようであるが、州によって違いがあるらしく、例えばマニプル州ではその年齢は14歳らしい。「Teree Sang」では15歳の少女が主人公になっていたが、それはその法律を踏まえての微妙な年齢設定なのであろう。

 主演のルスラーン・ムムターズは、「MP3 – Mera Pehla Pehla Pyaar」(2007年)でデビューした若手男優である。なんと彼はダニー・ボイル監督「Slumdog Millionaire」(2008年)の主演候補でもあったようだが、「ハンサムすぎる」という理由で落選してしまったらしい。もし「Slumdog Millionaire」に出演していたら人生が変わっていたことだろう。「Teree Sang」でのルスラーンは演技も踊りもまだまだ未熟で自信に欠けているところがあったが、まだまだこれからであろう。

 ヒロインは新人のシーナー・シャーハーバーディー。ルスラーンに比べてより自然な演技が出来ていたし、素朴な魅力のある女優だと感じたが、演技力はまだ発展途上であるし、このままスター女優に成長して行くようなオーラも感じなかった。だが、「Teree Sang」では、ベッドシーンまではなかったものの、15歳の妊婦というセンセーショナルな役を堂々とこなしているし、いきなりキスシーンにも挑戦していて、度胸は感じる。まだ若いので今後どういう道を歩むか分からないが、このまま映画界に進んで大化けすることもあり得る。

 他に、監督のサティーシュ・カウシクが主人公クークーの父親を味のある演技や台詞と共に演じていたし、ラジャト・カプールやアヌパム・ケールと言ったベテラン俳優が裁判シーンで落ち着いた演技を見せており、若手の主演を支えていた。

 「Teree Sang」は基本的に低予算映画であり、音楽に気合いが入っている訳ではないが、2曲だけ特筆すべきである。まずは「Morey Saiyan」。スローだが力強いロックバラードに仕上がっており、この曲だけ突出して素晴らしい。サチン・ジガルという新しい作曲家コンビが作曲している。もう1曲は「Lal Quile Ke Peechey」。この曲はデリーのテーマソングみたいになっており、この曲が使われるダンスシーンも、デリー中の名所旧跡で撮影されている。

 映画の大部分はデリーが舞台となっており、実際にデリーの各地でロケが行われている。今年はデリーが舞台の映画が多いが、「Teree Sang」はその一本に数えられる。ラール・キラー、チャーンドニー・チョーク、コンノートプレイス、クトゥブ・ミーナール、ジャンタル・マンタル、フィーローズ・シャー・コートラー、プラガティ・マイダーン、インド門などなどが登場する。他にヒマーチャル・プラデーシュ州の避暑地ダルハウジーが出て来る。

 「Teree Sang」は、15歳の少女が妊娠してしまうというセンセーショナルなプロットながら、大スター不在の地味な作品であるために、世間の注目は集めにくいかもしれない。完成度も一般の娯楽大作に比べたら低い。しかし、そのメッセージにはなかなか興味深いものがあり、この作品をヒンディー語映画の多様な進化の一端として捉えてもおそらく間違いではないだろう。デリー中心の映画と言う意味でも意義がある。ムンバイーで作られるヒンディー語大衆娯楽映画への対抗勢力として、デリー辺りにもうひとつヒンディー語映画の拠点があるべきだというのが僕の持論であり、「Teree Sang」はその可能性を感じさせてくれる作品であった。