Barah Anna

4.0
Barah Aana
「Barah Aana」

 2009年3月20日には主に4本の新作ヒンディー語映画が公開された。「Firaaq」(2008年)、「Aloo Chaat」(2009年)、「Straight」(2009年)、そして「Barah Aana」である。これらはどれも完全にマルチプレックス観客層向けの映画であり、この週だけを見るとヒンディー語映画もずいぶん様変わりしたと感じさせられるだろう。しかし、1週間に4本ものヒンディー語映画が同時公開されるのは異常事態だ。頻繁に映画を観ている僕でも、1週間に2本ぐらいが限界で、それ以上になるとスケジュールのやりくりが難しくなる。これらの中で何本か見逃してしまうだろうと思っていたが、話題作の枯渇のおかげか、1週のみで公開打ち切りになることもなく、本日「Barah Aana」を見ることができた。その結果、3月20日公開のヒンディー語映画は全て鑑賞することができた。結論から先に言うと、これらの中では「Barah Aana」がもっともバランスの取れた映画であった。社会派映画という観点では「Firaaq」がダントツであるが、総合的な楽しさでは「Barah Aana」に軍配を上げたい。

監督:ラージャー・メーナン
制作:ラージ・イェーラースィー、ジアリア・アチリ、ラージャー・メーナン
音楽:シュリー
出演:ナスィールッディーン・シャー、ヴィジャイ・ラーズ、アルジュン・マートゥル、ヴィオランテ・プラチード、タニシュター・チャタルジー、ジャヤティー・バーティヤー、ベンジャミン・ギラーニー、マハーバーヌー・モーディー・コートワール
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。

 政府の記録では手違いで死亡したことになっているシュクラー(ナスィールッディーン・シャー)は、人生手詰まりとなり、メヘター夫妻(ベンジャミン・ギラーニーとジャヤティー・バーティヤー)の家で運転手を務めて細々と暮らしていた。メヘター夫人はシュクラーを嫌っており、事あるごとに彼に罵声を浴びせかけていた。ヤーダヴ(ヴィジャイ・ラーズ)はとあるマンションで警備員を務めていた。住人たちは彼を小間使い扱いし、あれこれ雑用を任せられていた。アマン(アルジュン・マートゥル)はレストランでウェイターをしていた。常連客の白人女性ケイト(ヴィオランテ・プラチード)に密かに恋をしていた。三人はムンバイーのスラムに住んでおり、お互いに下層民の苦労を分かち合う戦友であった。

 ある日、村に住むヤーダヴの息子が病気になってしまう。その治療のためにはまとまった金が必要だった。ヤーダヴはマンションの各戸を回って情けを乞うが、彼に同情する者は皆無だった。仕方なくシュクラーは彼になけなしの金を与える。だが、ヤーダヴはそのお金を駅ですられてしまう。不幸には不幸が重なるものであった。意気消沈したヤーダヴは道端でうずくまっていたが、からかってきた若者を殴って気絶させてしまう。ヤーダヴはその若者の両手を縛り、目隠しをして家に引きずって来る。シュクラーとアマンは余計なトラブルに巻き込まれるのを恐れたが、ヤーダヴを助けることにし、協力してその若者を睡眠薬で眠らせて夜中に誰もいない場所に置いて来た。

 だが、金に困っていたヤーダヴは、アマンとシュクラーに内緒で、若者の親に連絡して身代金を取っていた。ヤーダヴはその金をアマンとシュクラーに分配する。アマンはたじろぎながらも金を受け取るが、真面目なシュクラーはヤーダヴの勝手な行動に腹を立てた。

 アマンはケイトとデートを重ねるようりなり、ある日告白もするが、ケイトは拒否する。先日の一件ですっかり味を占めたヤーダヴは、金がないから振られたのだとアマンに吹き込み、同じように誘拐を繰り返して身代金を一緒に稼ごうと誘う。アマンはそれに乗り、シュクラーも乗り気ではなかったが協力することにする。一般庶民を狙い、多額の身代金を要求しなかったことで、誘拐は何度もうまく行く。三人は打って変わって羽振りが良くなる。アマンは金に困っていたケイトに金を渡し、もう貧乏人でないことを見せるが、気付いたらケイトは家を立ち去って姿をくらましていた。

 シュクラーはメヘター夫人の罵声に遂に耐えかね、次の誘拐の目標を彼女に定める。ヤーダヴとアマンは絶対に失敗すると考えていたが、シュクラーが強制するため、実行せざるをえなくなる。誘拐はしたものの、案の定メヘター夫人に正体がばれてしまう。身代金も200万ルピーという大金を要求したために警察に通報されてしまい、三人は逮捕されてしまう。

 ところがシュクラーは死亡したことになっていたため罪を問われず、ヤーダヴとアマンも釈放されることになった。人生捨てたものではなかった。

 スラムに住む下層の三人が、身代金目当ての誘拐を繰り返すようになるというストーリー。だが、単なる犯罪映画ではなく、人生の悲しい真実が散りばめられたユーモアのある映画となっていた。

 主人公の職業はそれぞれ運転手、警備員、ウェイターであり、最下層ではないが、下層の人間と言ってよい。彼らは常にリッチな人々から見下されて生きることを運命づけられており、それは特にシュクラーやヤーダヴの日常でよく描写されていた。だが、一連の出来事を経験する内に、ヤーダヴらはひとつの真実に目覚める。薄給の仕事を真面目にこなしていても、いつまで経っても人生は開けないし、尊敬も得られない。だが、誘拐のような悪事に手を染めた途端、一気に大金が手に入った。三人は、真面目に働くことが馬鹿馬鹿しくなったわけではないが、アルバイトとして度々誘拐を繰り返すようになる。最後は私怨に駆られ、欲を出したために警察に逮捕されてしまうが、彼らが本当に求めていたのは金ではなく、いくばくかの尊敬であったことは、映画の最後で語られていた。衣食住が足り、真っ当な尊敬が得られていれば、彼らも道を踏み外すことはなかった。これは、社会に対する痛烈な批判であるし、敢えてマルチプレックス層向けの映画に仕上げることで、マルチプレックスで映画を観ることに経済的負担を感じない富裕層の良心に問い掛ける作りとなっていた。

 エンディングへの重要な伏線となっていたのは、冒頭のシーンである。主人公の一人シュクラーは何らかの手違いから、政府の書類上は死亡したことになっており、死亡証明書まで出ていた。そのせいで彼はまともな職に就くこともできず、運転手をして細々と暮らさざるをえなかった。だが、誘拐が明るみに出て、警察に逮捕された後は、逆に死亡したことになっていることが功を奏した。政府は、公式には死んだことになっている人間が犯した罪を裁くことができないのである。シュクラーらはお咎めなしとなり、釈放された。まだ生きているのに死んだことになってしまうというのはインドではしばしばあることで、時々新聞などでも同様の記事を目にする。死んだことにされてしまった人は、裁判所で「自分が死んでいないという証拠を出せ」というとんちんかんな要求されたりするらしい。インドで実際に起こっているそのような珍現象に触れながらも、下層の人々には下層の人々の強みがあるという点が暗示されていた。

 題名になっている「Barah Aana」は、直訳すれば「12アーナー」になる。アーナーは昔の貨幣単位で、ルピーの16分の1の価値である。つまり、12アーナーとは4分の3ルピーのことだ。エンディングのナレーションで「12アーナーの人生」というフレーズも出て来るが、これは1ルピーを100年と考え、その4本の3、つまり「75年の短い人生」と受け取っていいだろう。言い換えれば、12アーナーとは人生の隠喩である。

 演技上の見所は、「Monsoon Wedding」(2001年)以来となる、ナスィールッディーン・シャーとヴィジャイ・ラーズの共演である。ナスィールッディーン・シャーは力の抜けた演技が非常にうまい俳優である一方、ヴィジャイ・ラーズは怪しげな下層民を演じさせたら右に出る者がいない。その二人がそれぞれ得意とする役柄をまるで水を得た魚のように喜々として演じており、それを見るだけでエキサイティングな体験であった。もう一人の主人公アルジュン・マートゥルは、今まで脇役で出演を重ねて来た駆け出しの俳優で、今回は今までで一番の大役を任されたと言える。まだ個性が感じられないが、欠点は感じられなかった。

 「Barah Aana」は地味な雰囲気の映画だが、ナスィールッディーン・シャーとヴィジャイ・ラーズの共演もあるし、脚本も優れており、今一番観る価値のある映画となっている。「Slumdog Millionaire」(2008年)のおかげで下層の人々への注目が集まっているが、「Barah Aana」は下層の人々の心情がよりはっきりと描写されており、「Slumdog Millionaire」と合わせて観るに値する。


https://www.youtube.com/watch?v=Q8CPJmJW8Us