Traffic Signal

3.5
Traffic Signal
「Traffic Signal」

 ヒンディー語映画界で注目すべき監督は何人かいるが、その中でもマドゥル・バンダールカル監督は独自の地位を築いている。ダンスバーのダンサーの実生活に迫った「Chandni Bar」(2001年)、セレブリティーの実態に迫った「Page 3」(2005年)、仁義なき企業戦争を追った「Corporate」(2006年)など、今まで映画になりにくかったテーマに果敢に挑戦している。そのバンダールカル監督の最新作が、2007年2月2日に公開された「Traffic Signal」である。なんと今回は、信号で活動する乞食や物売りたちをテーマにしている。またやってくれた!という感じである。

監督:マドゥル・バンダールカル
制作:パーセプト・ピクチャー・カンパニー
音楽:シャミール・タンダン
歌詞:サミール
出演:クナール・ケームー、ニートゥー・チャンドラ、ランヴィール・シャウリー、コーンコナー・セーンシャルマー、サミール・カーン、ウペーンドラ・リマエー、スディール・ミシュラー、Dサントーシュ、マノージ・ジョーシーなど
備考:PVRプリヤー4で鑑賞。

 スィルスィラー(クナール・ケームー)は、生後10日の頃からムンバイーのケールカル・マールグの信号で乞食をして育った。成長したスィルスィラーはその信号一帯の乞食や物売りを取り仕切るマネージャーとなった。ケールカル・マールグの信号では、地面にサーイーバーバーの絵を描いて賽銭を集めるラングラー・マーンニャ(ウペーンドラ・リマエー)、警察官になるのを夢見る子供パーヤー(サミール・カーン)、グジャラート州から来た服売りのラーニー(ニートゥー・チャンドラ)、津波で家族を失った子供ツナミなどがいた。ケールカル・マールグはローカルマフィア、ジャッファル(Dサントーシュ)の支配下に入っており、ジャッファルの上にはハージー(スディール・ミシュラ)という大ボスのマフィアがいた。ハージーは政治家とも深いつながりを持っていた。また、夜には売春婦ヌーリー(コーンコナー・セーンシャルマー)が客待ちをし、コンピューター・エンジニア崩れのドミニク(ランヴィール・シャウリー)は、通行人を騙して日銭を稼いでいた。

 あるとき、ムンバイー各地にフライオーバーが建設されることになった。当初、ケールカル・マールグにフライオーバーが建設される予定はなかったが、不動産屋と政治家は結託して、無理矢理そこにフライオーバーを建設しようとしていた。だが、それを頑なに拒否していたのがフライオーバーのエンジニア(マノージ・ジョーシー)であった。政治家はハージーにエンジニア暗殺を依頼する。ハージーはジャッファルとスィルスィラーを使ってケールカル・マールグにエンジニアの乗った自動車を止めさせ、暗殺者に殺させる。

 エンジニアが暗殺されることを知らなかったスィルスィラーは、その結果に大きなショックを受ける。さらに、ケールカル・マールグにフライオーバーが建設されることを知り、自分たちの生活が危機にさらされていることを直感する。スィルスィラーは日ごろ世話になっていた社会活動家カーキーの助けを借り、裁判所にエンジニア暗殺の証人となって出廷する。それにより、政治家、不動産屋、ハージーは逮捕され、巨大なスキャンダルが発覚する。

 インドに住んでいると日ごろよく目にする乞食や物売りたち。特に大きな交差点で信号待ちをしているときに近寄って来る乞食や物売りは面倒な存在である。だが、面倒とは言ってもその煩わしさは信号が青になるまでのこと。信号さえ変われば、そこで活動する乞食や物売りのことなどすっかり忘れてしまうのが日常である。しかし、この映画を観てしまったら、彼らに対する視線はだいぶ変わってしまうだろう。

 こんな面白いデータがある。寿命を80歳とすると、ムンバイーにおいて赤信号で止まっている時間は一生の内の20日に相当し、信号待ちのときに乞食や物売りに対して使う金額は、一生で1,200ルピーだと言う。その20日の時間から1,200ルピーの儲けを引き出すことを目的として、乞食や物売りたちは一生懸命自動車にへばりついて来るのである。

 だが、「Traffic Signal」は一般のありきたりなドキュメンタリー映画とは違い、単にそういう社会の最底辺の人々に対する同情と憐れみに徹していなかった。むしろそこで描かれていたのは、どんな辛い人生でも何とか生きていこうとする人間の逞しさと、ひとつの信号を中心に形成された強固な団結であった。マルチプレックスで映画を観るだけの金銭的余裕がありながら、信号ではパンツ一丁で乞食をして金をせびる男、父親が死んでしまったと嘘をついて憐れみを買おうとする少年、他人の子供を借りて来て、子供のための乳代をせびるおばさんなどなど、言ってしまえば嘘と演技で塗り固めた狡猾な人々なのだが、そこには彼らを糾弾する姿勢はなく、逞しい生き様に対する温かい眼差しがあった。この映画で描写されていたことのどこまでが真実かは分からない。だが、かなりの説得力があった。

 目から鱗だったのは、それら路上で日銭を儲ける乞食や物売りたちが、実はかなり組織だって動いていることが描かれていたことである。各信号にはマネージャーがおり、マネージャーの上にはコレクターがおり、その上にはマフィアのドンがおり、マフィアのドンはその地区を票田とする政治家と親交を保っていた。また、警察と乞食や物売りは結託しており、彼らが商売をしやすいよう、警察は赤信号の時間を増やしたりしていた。また、金持ちのお抱え運転手も彼らと密通しており、なるべくその信号で自動車を止めるようにして、コミッションを受け取っていた。8月15日になると、乞食や物売りたちに一斉にインドの国旗が配られ、路上で売られていた。一説によると、この「路上インダストリー」は18億ルピー市場にまで膨れ上がっていると言う。これもどこまで真実なのかは分からないし、ここデリーでどこまで当てはまるのか分からないが、確かに各信号にいる乞食や物売りたちはいつも同じ人たちであり、縄張りのようなものが存在することは確実だ。

 よく、インドの乞食は金を恵んでもらいやすいように、自分の子供の手足を切断したりして身体障害者にする、と言われている。それに関しては、「Traffic Signal」では直接触れられていなかった。だが、ヒントとなる事象はあった。マフィアのドンは、身体障害者をどこかから見つけて来て、各テリトリーに不公平にならないように均等に配分していたのだ。やはり身体障害者は稼ぎ頭のようだ。だが、いくら乞食でも母親は母親であり、自分の子供をわざわざ身体障害者にするようなことがあるだろうか?実際は、各乞食グループは、身体障害者をどこかから「レンタル」して来て、より効果的に喜捨を集めようとしている、という方が実態に近いのかもしれない。同様に、乞食の女性が連れている赤ちゃんは、かなりの確率で「レンタル品」であるらしい。

 主人公スィルスィラーを演じたクナール・ケームーは、「Kalyug」(2005年)で本格デビューを果たした若手男優である。「Kalyug」ではまだ未熟であったが、この「Traffic Signal」に来て急に大成した感がある。普通のヒーローではなく、異色のヒーローが似合う男優に成長して行きそうだ。コーンコナー・セーンシャルマーとランヴィール・シャウリーが出て来たシーンは、物語の本筋とはあまり関係なかったが、二人の演技は強烈だった。しかしコーンコナーは前にも増して太ってしまったように見えるのだが、これは売春婦を演じるための役作りなのであろうか?ラーニー役のニートゥー・チャンドラは一応この映画のヒロインということになるのだろうが、特に活躍の場はなかった。

 映画には本筋以外にもいくつかのショートストーリーが組み込まれていた。それらが交互に展開しながら前半の大部分は進んで行く。ムンバイーの街角のスケッチ集のような映画であった。終わり方は少し唐突であったが、このストーリーをうまくまとめるのは不可能に近く、仕方のない逃げの一手だったように思える。マドゥル・バンダールカル監督によると、「Page 3」、「Corporate」、そしてこの「Traffic Signal」をもって、ムンバイー・トリロジーの完結であるらしい。

 「Traffic Signal」は、信号を商売の場とする逞しい人々を描いた一風変わったヒンディー語映画である。いろいろな意味で、彼らを見る目が一変するだろう。インドに住んでいる人、住んだ経験のある人に特にオススメの一本だ。


https://www.youtube.com/watch?v=-mkX-m1WiE8