今日はPVRアヌパム4で、2005年7月22日公開のヒンディー語映画「Viruddh」を観た。「Viruddh」とは「反抗」という意味。その勇ましい題名とは裏腹に、映画は家族愛と社会批判を中心としたドラマである。監督はマヘーシュ・マンジュレーカル。キャストは、アミターブ・バッチャン、シャルミラー・タゴール、ジョン・アブラハム、アヌシャー・ダンデーカル、アミターブ・ダヤール、サチン・ケーデーカル、サンジャイ・ダット、シヴァージー・サッタム、プレーム・チョープラー、シャラド・サクセーナーなどである。
ヴィディヤ(アミターブ・バッチャン)はエアインディアを退職して、学校の校長を退職した妻のスミー(シャルミラー・タゴール)と共にムンバイーで老後の生活を送っていた。二人の間には一人息子のアマル(ジョン・アブラハム)がおり、現在ロンドンで生活していた。 アマルは自分の誕生日に2年振りにムンバイーに戻って来ることになった。ヴィディヤは、ロンドンで出会った英国人の恋人ジェニー(アヌシャー・ダンデーカル)と共に帰って来た。ヴィディヤとスミーは、すぐに二人を結婚させる。全てはうまく行っていたそのとき、アマルが州首相の息子ハルシュワルダン(アミターブ・ダヤール)に殺されてしまう。 アマルには何の罪もなかった。ただ、ハルシュワルダンが、妊娠した元恋人を射殺する現場を目撃し、飛び掛ったために撃たれてしまったのだった。しかし、父親の後ろ盾があるハルシュワルダンは、アマルを麻薬の密売人に仕立て上げ、しかもアマルを殺害した犯人まででっち上げる。こうして法廷でハルシュワルダンの無実が確定してしまった。 今までどんなことがあろうと沈黙を守っていたヴィディヤだったが、遂に自ら動き出す。ヴィディヤはハルシュワルダンの働く会社へ乗り込み、そこで直接彼と話をする。ハルシュワルダンはヴィディヤの前で、アマルが無実であることを認めると同時に、いくらでも金は出すと提案する。実はヴィディヤは、ハルシュワルダンとの会話を全てカセットに録音していた。ハルシュワルダンは警備員を呼んでヴィディヤを捕まえさせようとするが、その瞬間ヴィディヤは銃を取り出し、ハルシュワルダンを射殺してしまう。この銃は、近所で自動車修理屋を営んでいたアリー(サンジャイ・ダット)から手に入れたものだった。 ヴィディヤは逮捕されるが、ハルシュワルダンがアマルの無実を供述したテープが裁判所に提出され、新事実が明らかになったため、ヴィディヤは無実となって釈放される。
前述のように、家族愛と社会批判をテーマにした感動作。前半と後半ではガラッと雰囲気が変わり、前半は老夫婦とその一人息子との間の家族愛がスローペースで描かれ、後半はアマルの死を巡ってヴィディヤが権力に立ち向かう様が描かれていた。敢えて言うならば、家族の絆とは何かを問い直してシルバー層に大いに受けた映画「Baghban」(2004年)と、カルギル戦争で息子を失った父親が、その代償に政府からガソリンスタンドを獲得するまでの闘争を描いた「Dhoop」(2003年)を合わせたような作品であった。
前半の一番の見所は、自動車修理屋のアリーをスミーが叱るシーンであろう。アリーが隣に自動車修理屋を開いて以来、毎日トンキンカンキンとうるさい音が響いて来ていた。それに我慢ならないヴィディヤはアリーに直談判しに行くのだが、1年に3ヶ月は牢屋で暮らしているというゴロツキ上がりのアリーを見て恐れおののき、何も言えずに帰って来てしまう。アリーはそれからヴィディヤをからかうようになり、ヴィディヤは次第に元気をなくしていく。それを見たスミーは、密かにアリーのところへ行き、棒でアリーを叩きながら、「私が校長してたときには、あんたみたいな悪ガキを何百回も叩いて何人も何人も更生させてきたんだよ!」と叱る。スミーが去った後、アリーは仲間たちに、「もしオレにあんなおっかあがいたら、オレは今頃弁護士か医者だっただろうよ」とつぶやき、それからヴィディヤをからかうのをやめ、恭しい態度で接するようになる。それを見たヴィディヤは、自分の努力によってアリーの態度が変わったのだと思い込み、妻に「どうだ、見たか!」と自慢する。スミーは自分のしたことは言わずに、ただ夫を持ち上げて「それはすごいですね」と褒める。こういう健気な夫婦仲が描かれていてホロリとした。
後半は打って変わって、一般庶民を抑圧する権力との戦いである。もしアマルを殺した犯人が普通の犯罪者だったら、警察も動きやすかったが、相手は州首相の息子だった。すぐにもみ消し工作が始まり、アマルとジェニーは麻薬密売人に仕立て上げられ、別の男が犯人とされてしまう。また、ハルシュワルダンがアマルを殺した現場を目撃したアマルの親友も、圧力によって目撃証言を撤回せざるをえなくなる。遂にはヴィディヤが大金をはたいて雇った弁護士まで匙を投げてしまう。とうとう堪忍袋の尾が切れたヴィディヤは、ハルシュワルダンの会社に乗り込んで彼を射殺する。ヴィディヤは法廷において、「システムが正義を行わないなら、一般庶民が正義を行わなければならなくなる」と、腐敗し切った権力システムを糾弾する。「Sarkar」(2005年)でも「システム」という言葉が出てきたが、やはりこの映画でも「システム」の腐敗が主題となっていた。
全体を通しての主役は、何と言ってもアミターブ・バッチャンだ。かつて「怒れる若者」として絶大な人気を誇ったアミターブは、今でも「怒れる老年」として健在である。「Baghban」ではヘーマー・マーリニーとスクリーン上で絶妙なコンビを披露したが、今回のお相手はシャルミラー・タゴールであった。どちらの女優も、かつてヒンディー語映画を彩ったトップ女優である。シャルミラー・タゴールは後半には活躍の場を失うが、前半の主役は彼女だと言っていいだろう。現在のヒンディー語映画界の「怒れる若者」であるジョン・アブラハムは、今回は落ち着いた性格の好青年を無難に演じていた。英国人の女の子ジェニーを演じたアヌシャー・ダンデーカルは、はっきり言ってインド人である。全然イギリス人には見えない・・・。彼女は「Mumbai Matinee」(2003年)に出ていたらしいが記憶にない。警察を演じたサチン・ケーデーカルはインパクトがあった。特別出演のサンジャイ・ダットは、弱気になったヴィディヤの弁護士をコテンパンにやっつけるという力技で観客を魅せていた。
それにしても、監督のマヘーシュ・マンジュレーカルは不思議な人物だ。彼は「Viruddh」のようなシリアスなドラマも撮るし、「Rakht」(2004年)のようなハートフルなホラー映画も撮るし、「Padmashree Laloo Prasad Yadav」(2005年)のような馬鹿げたコメディー映画も撮る。俳優もやっており、「Kaante」(2002年)、「Run」(2004年)、「Musafir」(2004年)などでは悪役やそれに準じる役を演じている一方で、「Padmashree Laloo Prasad Yadav」ではコメディアンを演じた。全く実態が不明の男だ。ヒンディー語映画界で今一番面白い人物かもしれない。
「Viruddh」にミュージカルシーンは全くなく、上映時間も2時間強。ロンドン・ロケが行われているが、ほとんどのシーンはムンバイーである。「Joggers’ Park」(2003年)で出てきたジョギング用公園が、「Viruddh」でも出てきたような気がした。インドでは都会を中心に全土で早朝の散歩・ジョギングがブームとなっているようで、僕の家の前にある巨大な森林地帯ディアパークも、早朝は散歩・ジョギング客でいっぱいとなる。
アマルの恋人ジェニーはヒンディー語が片言しかしゃべれないという設定であった。何とかしゃべろうとするのだが、女性なのに男性形の文章を言ってしまったりしていた。しかし、時間が経つに連れて次第に文法の間違いが直ってきていた。僕もヒンディー語を学習した外国人の一人なので、その芸の細かさが面白かった。
「Viruddh」は、「Baghban」のような映画が好きな人にオススメの映画である。やはり観客は年配層が中心だった。シルバーカップル向け映画という新たなジャンルがヒンディー語映画界で確立しつつあるのかもしれない。