男女比を見た場合、インドは世界でも人口に占める男性の割合が高い国である。女性100に対し男性108であり、これは中国に並ぶ数字だ。自然な状態でも出生時には男性の方が若干生まれやすいのだが、それを差し引いてもインドでは男性の人口が不自然に多い。その大きな要因は、女児の間引きをしているからである。かつては女児が生まれると殺す習慣があった。医学が発達したことで、今度はまだ胎児の内から性別検査をし、女児であることが分かると堕胎する女児堕胎が横行するようになった。
2003年12月17日公開の「Matrubhoomi」は、女児の間引きをし過ぎて、女性がいなくなってしまった架空の世界を舞台にしたディストピア映画である。監督は新人マニーシュ・ジャー。キャストは、チューリップ・ジョーシー、スディール・パーンデーイ、スシャーント・スィン、アーディティヤ・シュリーヴァースタヴァ、ピーユーシュ・ミシュラー、パンカジ・ジャーなどである。
舞台は、女児の間引きをし過ぎて女性が一人もいなくなってしまった地域。ラームシャラン(スディール・パーンデーイ)は、5人の息子の嫁探しに苦労していた。ブラーフマンのジャガンナート(ピーユーシュ・ミシュラー)に嫁探しを依頼していたが、過去10年間、一人も見つけられなかった。 ある日、ジャガンナートは偶然に川向こうの民家で一人の妙齢の女性カールキー(チューリップ・ジョーシー)がいるのを発見する。早速父親のプラターブと交渉し、ラームシャランの息子との縁談をまとめる。プラターブに50万ルピーと5匹の雌牛を渡し、カールキーを5人の息子と結婚させることにした。 カールキーの初夜の相手をしたのはラームシャランであった。その後、長男のラーケーシュ(パンカジ・ジャー)から始まり、五男のスーラジ(スシャーント・スィン)まで、順に夜の相手を務めることになった。しかも、家事も全てを押しつけられていた。カールキーはその生活に苦痛を感じるが、五男のスーラジだけは彼女に優しく、二人は仲良くなる。だが、それが父親や兄弟たちの嫉妬を買う。ある日、スーラジは自殺を偽装されて殺されてしまう。 悲しむカールキーは、小間使いのラグと共に家を逃げ出す。だが、ラーケーシュたちに追いつかれ、ラグは無残に殺される。カールキーは牛舎に鎖でつながれた。 ラグの叔父(アーディティヤ・シュリーヴァースタヴァ)と兄は復讐するためにラームシャランの家に忍び込むが、カールキーが鎖でつながれているのを見つけ、レイプする。ラームシャランや兄弟たちも密かに牛舎にやって来ては欲望を満たす。その内、カールキーは妊娠する。 父親は誰かという話になり、兄弟の中で喧嘩が起きるが、ラームシャランが自分の子だと言い張る。だが、ラグの叔父はラグの兄が父親だと考え、ラームシャランの家に押しかける。ラームシャランの家族とラグの家族の間で血で血を洗う抗争が起き、ラームシャランの一家は皆殺しにされてしまう。一方、カールキーは女の子を産む。
映画の副題は「A Nation Without Women(女性のいない国)」であり、女児の間引きや堕胎が横行するインド社会のなれの果ての姿を大袈裟に見せることでその因習に強い警鐘を鳴らす内容であることは映画を少し観ただけで分かる。インド社会において女性の地位が低いのはよく知られているが、生まれることもままならないほどの低さであるのは、観る者に衝撃を与えるであろう。
だが、この映画にはもうひとつのテーマがあった。それはカースト問題である。地域に残った唯一の女性カールキーを嫁に入れたラームシャランの一家は、村の中でも支配的なカーストであり、ラージプートなどの上位カーストであることが分かる。一方、ラームシャランの家で小間使いをしていたラグは低カーストであった。もしかしたら不可触民かもしれない。
女性のいなくなった時代および場所では、男性たちは欲求不満の毎日を送っていた。性のはけ口がないため、夜な夜な高い金を払ってアダルトビデオ上映会に集い、そして獣姦をして発散する。食事を作る仕事をする女性もおらず、高カーストの家でも、低カーストの小間使いを雇って食事を作らせなければならなくなっていた。低カーストの作った食事を高カーストの者が食べるというのは、カースト制度上は有り得ないことである。
さらに、インド社会では結婚時に花嫁側が花婿側に持参金を支払うことになっているが、女性がほぼ絶滅してしまった社会では、当然のことながら、花婿側が花嫁側に多額の持参金を支払わなければならなくなっていた。
前半は、女性がいなくなったらどうなるかというディストピアがまざまざと見せつけられる。だが、カールキーの存在が明らかになったことで、映画は異なった方向へ向かう。「女性のいない国」の物語のはずが、女性が登場してしまったことで、女性がいなくなったことでどんな不都合が起こるかを物語る流れが停止するのである。
持参金の例に見られるように、女性が希少価値を持つ社会では女性の地位が上がるのではないかと期待される。だが、「Matrubhoomi」が描くディストピアでは、女性の地位はちっとも上がっていないばかりか、1人の女性が5人の男性と結婚させられるという事態に陥る。インド神話では、パーンダヴァの5王子がドラウパディーという共通の妻を持ったエピソードがあるが、一般的には一夫多妻は認められていない。例外はイスラーム教徒のみである。もちろん、ラームシャランの一家はイスラーム教徒ではない。女性のいなくなった社会は、女性にとってもディストピアであった。
終盤は、カースト間の抗争で締めくくられる。身籠もったカールキーの子供が誰の子供かということを巡り、ラームシャランの家族内でも一悶着あるが、それで終わらず、カースト間の衝突に発展する。一度、ラームシャランの家から逃げようとしたカールキーは捕まり、牛舎に鎖でつながれるが、彼女は毎晩のように誰かにレイプされる。その中には、ラグの叔父や兄も含まれていた。よって、カールキーがいざ妊娠すると、低カーストの者たちまでもが父親を主張し始めたのである。
これがきっかけになって村の中ではカースト間の衝突が始まる。ラームシャランの兄弟はライフル銃を持っていたが、低カーストの者の方が圧倒的に多勢で、すぐに数で高カーストを圧倒し、皆殺しにしてしまう。女性を巡ってのラストではあったが、女性が直接の原因ではなく、それ以前から村にくすぶっていたカースト間の軋轢が爆発した形だった。よって、本論からずれたエンディングという印象は否めなかった。
映画の中でほぼ唯一の女性を演じたチューリップ・ジョーシーは「Mere Yaar Ki Shaadi Hai」(2002年)でデビューした女優だ。ヒンディー語が苦手なようだが、今回はほとんど台詞がない役で、言葉の弱さは目立たなかった。普通の女優が容易に選ばないような役に果敢に挑戦したのは高く評価したい。他に、スディール・パーンデーイ、スシャーント・スィン、ピーユーシュ・ミシュラーなどの演技が注目される。
「Matrubhoomi」は、不自然な男女比を抱えるインドが近い将来どういう危機に直面するかを映像化して見せた意欲作である。途中からテーマがカースト問題に転換するのは一貫性を欠くようにも思えるが、インドの因習に警鐘を鳴らすために映画が効果的な媒体であることを証明しており、後世まで語り継がれるべき作品の一本だと評することができる。