2000年1月21日公開の「Phir Bhi Dil Hai Hindustani(それでも心はインド人)」は、アズィーズ・ミルザー監督、そして主演シャールク・カーンとジューヒー・チャーウラーの失敗作に数えられている。だが、個人的にはとても思い入れの強い作品だ。なぜなら2001年春のパーキスターン旅行中にDVDを購入し(当時、インド映画のDVDは非常に珍しかった)、同年夏、インド留学に発つまでの間に、ヒンディー語の勉強や気持ちを高ぶらせるためによく見返していた映画だからである。
おそらくミルザー監督、シャールク、ジューヒーの三人にとっても思い入れのある映画だと思われる。なぜなら、この映画は三人が設立した映画プロダクション、ドリームズ・アンリミテッド(Dreamz Unlimited)が初めて製作した作品だからである。ミルザー監督はシャールクとジューヒーを主演に「Raju Ban Gaya Gentleman」(1992年/邦題:ラジュー出世する)と「Yes Boss」(1997年)を立て続けにヒットさせており、この三人の絆は深かった。彼らは一念発起して共同で会社を設立し、自分たちが本当に作りたい映画を作り始めたのである。残念ながら「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」は興行的には成功しなかったが、決して悪い映画ではなく、むしろコメディーを基調としながらインド人の愛国主義や自尊心に訴える、よくできた娯楽作であった。
インド留学前の初心を思い出しながら、Netflixで配信されたこの映画を2023年4月13日に改めて見返し、このレビューを書いている。
主演はシャールク・カーンとジューヒー・チャーウラーだが、他にも多くの個性的な俳優が出演している。パレーシュ・ラーワル、ジョニー・リーヴァル、アトゥル・パルチュレー、サンジャイ・ミシュラー、シャラト・サクセーナー、ニーナー・クルカルニー、ダリープ・ターヒル、サティーシュ・シャー、ゴーヴィンド・ナームデーヴ、シャクティ・カプール、マハーヴィール・シャー、バールティー・アチュレーカル、スミター・ジャイカル、ヴィシュワジート・プラダーン、モナ・アンベーガーオンカルなどである。
また、「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」の音楽は、映画の明るい雰囲気とマッチしており、楽しい曲が多い。作曲はジャティン・ラリト、作詞はジャーヴェード・アクタルである。
ちなみに、題名になっている「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」だが、インド映画ファンなら一発で分かるように、ラージ・カプール監督・主演の傑作「Shree 420」(1955年)の有名な挿入歌「Mera Juta Hai Japani」の一節から取られている。
मेरा जूता है जापानी
यह पतलून इंग्लिस्तानी
सर पे लाल टोपी रूसी
फिर भी दिल है हिन्दुस्तानी
私の靴は日本製
このズボンは英国製
頭の赤い帽子はソ連製
それでも心はインド製
舞台はムンバイー。アジャイ・バクシー(シャールク・カーン)は報道TV局KteaVの看板アンカーで、局のオーナー、カーカー(サティーシュ・シャー)から可愛がられていた。KteaVのライバル局ギャラクシーTVのオーナー、チノイ(ダリープ・ターヒル)は、有能なレポーター、リヤー・バナルジー(ジューヒー・チャーウラー)を高額で雇い、アジャイに対抗させる。 アジャイはリヤーに一目惚れし、彼女を追い掛けるようになるが、リヤーはそれを逆手に取ってアジャイを罠にはめる。それでもアジャイはリヤーのことが好きだった。二人は共に時間を過ごす内に恋仲になっていく。 KteaVとギャラクシーTVの争いには政治も関わっていた。KteaVは州首相(ゴーヴィンド・ナームデーヴ)の息が掛かっており、ギャラクシーTVは野党リーダー、ラマーカーント・ドゥアー(シャクティ・カプール)と結託していた。そして選挙も近づいていた。演説中にドゥアーの妹婿で実業家のマダンラール・グプター(マハーヴィール・シャー)がモーハン・ジョーシー(パレーシュ・ラーワル)という謎の男性に暗殺されたことでムンバイーは動揺する。ジョーシーは逮捕され、警察は面倒を避けるために彼を「外国人テロリスト」と決め付けた。 ジョーシーは護送中に行方不明になるが、アジャイが運転しリヤーが乗る自動車に隠れていた。二人はジョーシーがなぜグプターを殺したのか、その理由を聞く。ジョーシーの娘カヴィターがグプターにレイプされ、そのショックが元で死んでしまったのだった。アジャイとリヤーは、ジョーシーの告発を録画し世間に公表することを約束する。 ところがジョーシーは落ちこぼれマフィアのパップー・ジュニア(ジョニー・リーヴァル)に誘拐されてしまう。アジャイとリヤーは中国人に変装してパップー・ジュニアのアジトに侵入し、ジョーシーを救い出す。そして彼を、仲直りしたカーカーとチノイに託す。しかし、カーカーとチノイは、手を結んだ州首相とドゥアーにジョーシーを売り渡してしまう。ジョーシーは警察に逮捕され尋問を受ける。州首相は告発を収めたビデオテープを入手しようとした。ジョーシーはアジャイとリヤーを我が子のように感じるようになっており、彼らの命に危険が迫っていると知って、自分はテロリストであると認め、ビデオテープの在処も教えてしまう。ビデオテープはカーカーの手に落ちる。また、ジョーシーには死刑が宣告される。 アジャイとリヤーはカーカーの家に侵入してビデオテープを奪う。カーカーとチノイはジョーシーの死刑を生中継して視聴率を稼ごうとするが、アジャイとリヤーはTV局に忍び込んでジョーシーの告発ビデオを放映する。それを観た民衆は決起し、ジョーシーの死刑が執行されようとしている中央刑務所に集まる。州首相とドゥアーは何が何でもジョーシーを死刑にしようとするが、アジャイは間一髪でジョーシーを救い出す。
お調子者のアジャイと自信家のリヤーの出会いと恋愛もあるのだが、この映画の軸になっているのは、政治家、警察、メディアによって「テロリスト」の濡れ衣を着せられたジョーシーの悲劇である。ジョーシーは確かに政治家と癒着する実業家グプターを銃殺したので完全に無罪とはいえないのだが、それに至った理由は十分に同情を買うものである。グプターに娘をレイプされ、それが原因で娘は死んでしまったのだ。アジャイとリヤーは力を合わせてグプターから「テロリスト」の汚名を晴らそうと奔走する。お馬鹿で騒々しいコメディータッチな展開で始まる映画ではあるが、スリルとサスペンス、ロマンスとアクションを織り交ぜながら、最後はインド人の愛国心に火を付けるドラマでまとめ上げている。
政治家や警察は昔からよくインド映画によって槍玉に上がってきた存在だったが、1991年の経済自由化以降、多数の民間TV局が参入してチャンネル数が激増したことで、チャンネル間で視聴率競争が激しくなった。人々の関心を勝ち取るために報道は過激化し、真実が置き去りにされ、センセーションが優先されるようになった。その結果、映画でも徐々にマスコミが批判の対象になるようになった。「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」の主人公アジャイも当初は過激化する視聴率競争の申し子として描かれており、それはリヤーも同様であった。この映画には明らかにメディア批判のニュアンスが感じられる。
しかしながら、インドはマハートマー・ガーンディーによる「サティヤーグラハ(真理の主張)」運動によって独立を勝ち取った国だ。インド国民もそれを誇りに考えている。権力者の恣意によって真実や正義が蔑ろにされ、死刑執行の生放送というグロテスクなアイデアまでもが堂々とまかり通ってしまうモラルハザードに、最後は民衆が「ノー」を突き付ける。死刑執行を間一髪で免れたジョーシーが民衆に向かって叫んだ言葉も「सत्यमेव जयते」、つまり「真実は常に勝利する」であった。
この映画の巧みなところは、最後にはインド人の良心を礼賛しながらも、インド人のずるさも認めていることだ。特にタイトル曲の「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」の歌詞は、そんな映画の雰囲気をよく捉えている。
अपनी छत्री तुमको दे दे कभी जो बरसे पानी
कभी नए पकेट में बेचे तुमको चीज़ पुरानी
(インド人は)雨が降ったら君に傘をあげるだろう
でも、新しい袋に古いものを入れて君に売るだろう
ズルもするけど心は優しい。インド人のそんな憎めない性格をインド人自身がメタ認知して歌い上げている点が面白い。アジャイやリヤーも正にそんな性格だった。全く非の打ち所のない登場人物だと非現実的な上に肩が凝る。これくらいの緩さがあった方がホッとできる。この映画やこのタイトル曲の歌詞は、これからインドに住み始めようとしていた自分の心にもかなりの余裕を与えてくれたと記憶している。
ライバルTV局のオーナーであるカーカーとチノイ、そしてライバル政治家である州首相とドゥアーも、いかにもインド人らしい性格だった。当初はお互いにいがみ合っていたが、カーカーとチノイは莫大な金銭的利益を前にして何の躊躇もなく手を結び、州首相とドゥアーも政治的な利害の一致を見て連立してしまった。その一方で、権力者に虐げられるジョーシーのような庶民もいた。一人一人は弱いが、団結して蜂起すれば、巨大な力になる。ガーンディーが証明した非暴力の力をこの映画は再びインド人に見せようとしている。
リヤーはハンドバッグにビデオカメラを入れ、盗撮によって政治家の不正を暴いた。実はこの映画が公開された2000年には、テヘルカー誌がスパイカメラを使ってクリケット選手のスティング・オペレーションをし、クリケット界の八百長を暴くという大きな事件があった。もしかしたらテヘルカー誌を創刊したジャーナリスト、タルン・テージパールとアニルッダ・ベヘルは、「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」を観てその手法を思い付いたのではなかろうか。
タイトル曲「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」は、映画のメッセージを凝縮していただけでなく、リフレインされることで音楽的に映画の統一性を醸成することにも貢献していた。ノリノリの「I’m the Best」も何度か繰り返され、やはり統一感を生み出していた。ストーリーと音楽がシンクロしてシナジー効果を生み出している好例である。
シャールク・カーンは得意のマシンガントークを炸裂させていた。今見るとこの頃の彼はかなりチャラチャラしているし、リヤーの口説き方も完全なストーカーでコンプライアンスに触れそうだが、コメディアンとしてのシャールクを存分に味わえる楽しさがある。そんなコミカルなシャールクの相手役としてジューヒーは適役だ。甲高くまどろっこしい声や、わざとらしい表情も、シャールクとスクリーンをシェアすることによって最大限生きてくる。ゴールデンコンビといっていいだろう。
「Phir Bhi Dil Hai Hindustani」は、シャールク・カーンとジューヒー・チャーウラーが主演のマサーラー映画だ。基本的にはコメディーだが、あらゆる娯楽要素が詰め込まれており、最後はインド人の愛国心を刺激して終わる。歌と踊りがストーリーとよく親和しているのも特徴だ。興行的にはフロップとして記録されているが、個人的にはとても思い入れのある作品だ。インド人が「インド人とは何か」と自分に問い掛け、その答えを出している映画として観ても面白い。是非多くの人に観てもらいたい作品である。