ヒンディー語映画を理解する上で押さえておいた方がいい文学作品がいくつかあるが、12-13世紀に活躍したペルシアの詩人ニザーミーが著した悲恋物語「ライラーとマジュヌーン」はその筆頭である。「ライラー」は「ライラ」、「マジュヌーン」は「マジュヌー」とも表記される。「Laila Majnu」(2018年)など、インドにおいて現代に至るまで物語自体が度々映画化されているし、台詞や歌詞の中に「ライラー」や「マジュヌーン」は頻繁に登場し、引用される。
「ライラーとマジュヌーン」の物語は、元々は8世紀のアラブ地方に実在したとされる人物の行状を基にした民話だとされている。ニザーミーがペルシア語の韻文にまとめたことで、ペルシア語文化圏を中心としたアジア各地に伝わった。「ライラーとマジュヌーン」はインドにも伝わり、現在に至るまで人々に愛されている。
あらすじは以下の通りである。
主人公は、アラブ地方で権勢を誇ったアーミル族首長の一人息子カイスと、絶世の美女ライラーである。二人は学舎で出会い、恋に落ちるが、カイスはライラーへの恋の余りに狂人のようになってしまい、やがて「マジュヌーン(精霊に取り憑かれた者=狂人)」と呼ばれるようになる。ライラーの父親がそんな狂人に娘を嫁に出すことを拒絶したため、カイスはますます狂人化してしまう。カイスは家を飛び出し、悲哀に満ちた詩を吟じながら砂漠を放浪するようになり、やがて獣を従える獣人となる。一方、ライラーはイブンサラームという男性と結婚させられるが、カイスへの気持ちを貫き通し、貞操を守り続ける。息子が狂人となったことに心を痛めた父親が死に、母親も後を追った。一方、ライラーの夫イブンサラームも死ぬ。一度はカイスとライラーの間で文が交わされ、密会する機会も作られたが、遂に二人が顔を合せることは叶わなかった。まずはライラーが疱瘡に罹って死に、カイスは彼女の墓を守りながら、やがて人知れず命を落とす。
あらすじにすると簡略にまとめられてしまうのだが、ニザーミーの物語では、マジュヌーンとなったカイスの狂おしい恋心が延々と韻文によって描写される。岡田恵美子訳「ライラとマジュヌーン」(平凡社)から、いくつかを抜き出してみよう。
たとえあなたの怒りが激しい炎をあげようとも、私の涙がその火を消してみせよう。
私の友は足許の影ばかり。だがその影とも恋仇になることを恐れて、言葉を交わしはしない。
母の乳とともに肉体に入りこんだ愛の精魄は、魂とともにこの肉体を去るであろう。
しかも、「ライラーとマジュヌーン」はスーフィズム(イスラーム教神秘主義)文学の代表格であり、カイスのライラーに対する恋心は、人間の神に対する信仰心に昇華されている。ライラーへの恋に焦がれたカイスは、砂漠の中で獣同然の生活を送る内に、世俗的な恋愛から脱却し、愛の本質を知ることになる。
以前は欲念が純潔を穢していた。それも浄められた。魂は暗黒の境から自由になった。肉体は欲望の庭を毀ちさった。私の存在の本質は愛。愛は炎となって、肉体を香木のように灼きつくしている。
あなたは目の前に私の姿を見て、それを私だと思っている。そうではない。私はもう存在しないのです。ここに在るものは、ただ愛だけです。
つまり、カイスにとって、ライラーを手に入れることが目的ではなくなって、ライラーへの愛を心に抱き続け、その形而上の愛に身も心も人生も全てを捧げる行為そのものに目的を見出すようになったのである。
中世、西アジアから南アジアに掛けて、スーフィーと呼ばれる行者が活躍した。彼らは粗末な衣をまとい、粗食を心掛け、俗世や俗念との縁を切って、忘我の境地に至ろうとした。彼らの考えでは、自我を消滅することで、自身の中に神のみが残ることになるからだ。そして、神との合一化が実現することで、無限の幸福が得られるとされた。
しばしば、神と人の関係は男女の恋愛で喩えられた。神と人との関係において、人間は、恋に落ち、身を滅ぼしながら愛の道を進む男性の姿で表現された。そしてその男性が追い求める女性こそが神であった。微に入り細を穿ち女性の美が描写されるが、それは女性そのものの美ではなく、神の美の賞賛であった。
「ライラーとマジュヌーン」の物語は、正にそのスーフィズム思想を体現したものとなっている。カイスはライラーとの恋に狂って放浪者となり、食うや食わず、ほぼ裸の状態で砂漠をさまよい歩く。その姿こそが、神を求める人間の理想の姿なのである。そして、ライラーの墓を抱いて絶命したカイスこそ、神との合一に成功し、無限の幸福を得られた者なのである。そう解釈すると、「ライラーとマジュヌーン」は悲恋物語ではなくなる。
ヒンディー語のロマンス映画を読み解く際、上で「ライラーとマジュヌーン」に適用した解釈方法を把握しておくことは非常に重要となる。ヒンディー語映画では、恋に狂った男性が身を滅ぼして行く映画がいくつもある。「Devdas」(2002年)が好例だ。そして、基本的にハッピーエンドを好むインド人観客も、そのような悲恋物語だけは大好物である。
ただ、これら狂恋系のロマンス映画を、不幸な男性を主人公にした物語としてしまうのはあまりに単純すぎる。その裏には、スーフィズムに裏打ちされた独特の世界観が横たわっており、恋の道を貫いた上での死は、主人公にとってかえって幸福であるとの解釈も成り立つからである。「Rockstar」(2011年)や「Raanjhanaa」(2013年)なども、重度にスーフィズムの影響を受けたロマンス映画であり、単純な解釈は禁物である。
「Aaja Nachle」(2007年)では「Laila Majnu」という劇中ミュージカル劇があり、多少の脚色はあるものの、「ライラーとマジュヌーン」の物語をざっと追うことができる。
ちなみに、エリック・クラプトンの名曲「Layla」も、この「ライラーとマジュヌーン」の物語に着想を得たとされている。