Lovers in the Blue Night

3.0
Lovers in the Blue Night
「Lovers in the Blue Night」

 「Lovers in the Blue Night」は、2026年9月11日にヴェネツィア国際映画祭にてプレミア上映され、同年10月27日および31日に東京国際映画祭にて「青い夜の恋人たち」の邦題と共に上映された作品である。インドと米国の共同製作とされている。2026年10月31日にヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞した。

 監督は「Songs of Forgotten Trees」(2025年)のアヌパルナー・ロイ。キャストは、プリータム・ピラーニヤー、ニーリマー・シャルマー、ジャティン・サリーン、ブーシャン・シンピーなど。

 カリーム(プリータム・ビラーニヤー)はバングラデシュ北東部シレト地方出身で、サイクロンによって村が水没したことでインドに逃げてきた難民だった。妻のアミーナー(ニーリマー・シャルマー)と共にムンバイーまで流れてきて、違法滞在者としてスラム街に住みながら、殺鼠剤を売って生計を立てていた。アミーナーは生計の足しのためにバー「ブルー・ナイト」でテレフォンセックスの仕事をしていた。

 カリームは空き巣を生業とするスッカー(ブーシャン・シンピー)に気に入られ、仲間に引き込まれる。スッカーはピンキーという名の恋人と同棲しており、彼女は妊娠していた。カリームは実は同性愛者であり、スッカーに男色の気があることを感じ取って、あるとき彼と性行為をする。だが、スッカーはピンキーとの将来を真剣に考えるようになり、カリームを突き放す。

 一方、アミーナーの元には、彼女のことを「ウスリー」と呼ぶ客から恋文が届くようになり、彼のことを想うようになる。結婚以来、カリームとの間に夫婦生活がなかったのも彼女の心をその客に向かわせた。アミーナーは、恋文の主が、職場で働くオムラーン(ジャティン・サリーン)だと勘違いする。オムラーンもアミーナーに惚れており、その勘違いを利用する。アミーナーとオムラーンは急接近し、カリームの留守中に身体を重ねる。また、アミーナーは夫が同性愛者であることを知り、ショックを受ける。

 スッカーから拒絶されたカリームは、彼を殴り倒して家に戻る。だが、彼が同性愛者であることを知ったアミーナーからも拒絶され、家から追い払われる。アミーナーはオムラーンと共にどこかへ逃亡することを決める。

 東京国際映画祭の上映作品紹介では、「Lovers in the Blue Night」は「ヒンディー語映画」とされていた。だが、実際にはこの映画で使用されている言語はもっと複雑である。そして、その複雑さにこそ監督が作品に込めたメッセージの大半が隠されている。

 まず、サイクロンによって故郷を失いムンバイーまで流れてきたカリームとアミーナーはバングラデシュ人である。バングラデシュの国語はベンガル語であり、よってベンガル語を話すのだが、彼らはバングラデシュの中でも特に東北部シレト(Sylhet)の出身という設定のようだ。シレトはインドのアッサム州スィルチャルなどと地続きであり、彼らの話す言葉はベンガル語の中でも限りなくアッサム語に近い。ベンガル語ではなく、「シレティー語」という独立した言語に分類されることもある。よって、カリームはムンバイーで、バングラデシュ難民であることを隠すために、西ベンガル州などではなく「アッサム州出身」と言っていたのである。

 ムンバイーでカリームが出会うのはスッカーという空き巣集団のボスである。彼はマハーラーシュトラ州の田舎から恋人ピンキーを連れてムンバイーに逃げてきたマラーティーである。よって、彼らの母語はマラーティー語だ。さらに、アミーナーが職場であるバーで出会った青年オムラーンはグジャラート州出身であり、グジャラーティー語を母語としていた。

 つまり、「Lovers in the Blue Night」は、ムンバイーが舞台でありながら、4人の主要キャラクターは皆「よそ者」である。マハーラーシュトラ州出身のスッカーまでムンバイーで「よそ者」扱いされているのには違和感を感じたが、どうやらスッカーのカーストは低いようで、そういう意味でも差別を受けていたと思われる。ちなみに、恋人のピンキーは上位カーストのようで、彼らが故郷から逃げ出したのもこの異カースト間の恋愛が原因だった。また、スッカーが仕えていた政治家シャイレーシュ・パワールや、直属のボスであるパーティルも上位カーストのマラーターだと考えていい。

 カリームはスッカーと、アミーナーは客やオムラーンとコミュニケーションを取るのだが、そこで使われていたのが片言のヒンディー語であった。ムンバイーでは、社会の底辺において英語ではなくヒンディー語がリングアフランカの役割を果たしている様子を観察することができる。それぞれかなり訛っており、字幕なしではとても理解できないほどなのだが、登場人物同士は意思疎通できるようで、ヒンディー語を通して、ムンバイーというよそ者が集う街で心を通わせることになる。本作品の第一の特徴は、ムンバイーの路地裏の言語的リアリズムを追求している点にあり、この挑戦はパーヤル・カパーリヤー監督の「All We Imagine As Light」(2024年/邦題:私たちが光と想うすべて)を容易に想起させるものである。

 そこに重ねられるのが、カリームとアミーナーのそれぞれの性的フラストレーションである。映画の中盤で突然明らかになるのだが、カリームは実は同性愛者であり、それを隠してアミーナーと結婚していた。そして、結婚後もアミーナーとは夫婦生活がなかったようである。その結果、アミーナーは性的フラストレーションを抱えることになる。アミーナーはテレフォンセックスの仕事をしていたが、そこで彼女のことを幼馴染みの「ウスリー」と勘違いして言い寄ってきた客に惹かれ、その客の正体がオムラーンであると勘違いしてしまった。オムラーンも彼女の勘違いを利用してアミーナーにアプローチし、二人は肉体関係になる。

 一方、カリームはスッカーに男色の気を感じ、徐々に彼と距離を詰めていく。スッカーはどうやらバイセクシャルのようで、カリームからのアプローチを受け入れ、性行為をするが、やはり恋人ピンキーとの将来を重視するようになり、カリームを捨て去る。それがカリームを怒らせ、アミーナーとの決裂を生み、彼にとっては悲しい結末へと導く。

 同性愛が描かれた映画ではあるが、アヌパルナー・ロイ監督が同性愛者に寄り添ってこの映画を作ったようには思えなかったのは気になるところだ。アミーナーは夫が同性愛者だと分かると嫌悪感を露わにして彼を家から追い出し、そのままオムラーンと一緒にどこかへ行くことを決意する。映画は、アミーナーとオムラーンが肩を寄せ合ってアラビア海に沈む夕日を眺めるシーンと共にやたら美しく終わっているのだが、主人公であるはずのカリームに救いは用意されていなかった。アミーナーを主人公として考えると、同性愛者だと発覚した夫を捨て去って別の男性と新生活を始めるという、かなり自分勝手な映画になってしまう。そして、同性愛は忌むべきものとして扱われたまま終わってしまうことになる。これは時代に逆行していないだろうか。

 もうひとつ気になったのは、バングラデシュ難民が政治家の選挙運動に協力することでインドの市民権を取得できるような描写があったことだ。これこそ、目下モーディー政権がインド全国で進めている選挙名簿改訂の核心だ。戦争、災害、貧困などによって大量のバングラデシュ難民がインドに流れ込み、汚職や不正によって市民権や投票権を取得して選挙に影響を及ぼすようになっているとされる。モーディー政権はそれを防ぐために、正規の市民と不法移民の選別をしようとしているのだが、イスラーム教徒の難民を他の宗教を信仰する難民と区別して排除する方針を打ち出していることで、物議を醸している。

 ロイ監督が映画の中で、何らかの形で現代インドで争点になっているこの宗教問題に触れようとしていることは、別の点からも明らかである。オムラーンはバーで働くとき、オーナーから名前を「オーミー」に改めるように指示されていた。「オムラーン」という名前はイスラーム教徒のものであり、イスラーム教徒に対する排斥の機運が高まっている現代インド社会では無用なトラブルを招きかねない。だから「オーミー」というヒンドゥー教徒の名前に変えさせたのだった。

 映画からは、ロイ監督がストーリーを通して多くのことを語りたがっていることがひしひしと感じられた。だが、多くの事柄はストレートに表現されていないし、あまりにも多くのことを一本の映画に詰め込みすぎているようにも感じた。たとえば、同性愛の要素を入れなくても、ムンバイーの底辺で死に物狂いで生きる「よそ者」の姿を描いた作品として十分に成り立ったのではないかと思われる。アミーナーの性的フラストレーションは、夫を同性愛者にしなくても表現できたはずだ。

 「Lovers in the Blue Night」は、メインストリームの映画ではあまり描かれてこなかった、ムンバイーの街角の暗闇の中で「よそ者」たちが繰り広げるリアルな人間模様と言語状態を赤裸々に描写しようとした作品である。途中から急にLGBTQ映画に移行するサプライズもある。だが、必要以上に多くのことを詰め込み過ぎており、消化不良に陥っていて、結局何を言いたかったのか曖昧になってしまっていた。それでも、パーヤル・カパーリヤー監督に続き、特定の言語に依拠せずに、字幕を活用しながら、インド社会のリアルで複雑な言語状況をそのまま映し出そうとする映画が現れ、何か新しい動きが始まっているように感じられることは、とても心強いし興味深い。