
2011年6月24日公開のマラヤーラム語映画「Adamite Makan Abu(アーダムの息子アブー)」は、ハッジを夢見る貧しい老夫婦の物語である。2018年のイスラーム映画祭にて「アブ、アダムの息子」の邦題と共に上映されたことがある。YouTubeで日本語字幕付きのものが公式に配信されている。
監督は新人のサリーム・アハマド。音楽はイサーク・トーマス・クットゥカパッリ。キャストは、サリーム・クマール、ザリーナー・ワハーブ、ムケーシュ、カラーバヴァン・マニ、タンピー・アントニー、スーラジ・ヴェンジャラムードゥ、ネドゥムディ・ヴェーヌ、TSラージュー、MRゴーパークマールなど。
ケーララ州の田舎町に住む貧しい香水売りアブー(サリーム・クマール)は、いつか妻のアイシュンマー(ザリーナー・ワハーブ)と共にハッジへ行きたいと願っていた。アブーとアイシュンマーの間にはサッタールという息子がいたが、ドバイに移住した後、ほとんど帰って来なかった。
ハッジ月が始まった。今年こそはハッジをしたいと思い立ったアブーは、地主のマリエッカル・アサイナル・ハージー(TSラージュー)から紹介してもらった、コーリコードの旅行代理店へ行く。アシュラフ社長(ムケーシュ)はアブーを歓迎し、パスポートの申請方法を丁寧に教える。アブーは、村に住む聖人ウスタード(タンピー・アントニー)の助けを借りて必要書類を揃え、妻と共に申請する。実地調査のために警察が家を訪れ慌てるというハプニングもあったものの、無事に二人のパスポートが発行される。
アブーは旅費の工面をしなければならなくなった。長いことコツコツ貯めてきたお金はあったが、それだけでは足りなかった。そこで彼は、庭に生えていたジャックフルーツの木や飼っていた牛を売り、目途を付ける。実現が近づいたことで、アブーとアイシュンマーはお世話になった人々にお礼回りをする。その中には、かつて隣の家に住んでいて、土地の境界で揉めたスライマーン(MRゴーパークマール)もいた。
ところが、ジャックフルーツの幹が空洞だったことで売り物にならないことが分かる。買い手の材木商ジョンソン(カラーバヴァン・マニ)はそれでも言い値を渡そうとしたが、善良なアブーは受け取ろうとしなかった。友人の教師ゴーヴィンダン(ネドゥムディ・ヴェーヌ)も資金援助を申し出たが、それもアブーは受け取らなかった。アシュラフ社長も採算度外視でアブーたちをハッジに連れて行こうとするが、それも断った。結局、アブーとアイシュンマーのハッジは中止となった。
聖地マッカ(メッカ)を巡礼するハッジは、イスラーム教徒にとっての五行のひとつであり、経済的・身体的に可能ならば、一生に一度は行うべきものとされている。ヒジュラ暦の第12月ハッジ月に行われるマッカ巡礼を「ハッジ」といい、それ以外の月に行われるメッカ巡礼を「ウムラー」という。もちろん、ハッジ月に行うハッジはウムラーに勝る。非イスラーム教徒にとってはなかなか分かりづらい概念だが、「Adaminte Makan Abu」は、敬虔なイスラーム教徒にとってハッジがどのような意味を持つのかをじっくりと描き出してくれる。
物語の舞台はケーララ州の田舎町だ。コーリコードからそれほど遠くない場所にあると思われる。どうやら主人公はマラーバル・ムスリムのようだ。ケーララ地方には預言者ムハンマド存命中にイスラーム教が伝わったとされており、マラーバル・ムスリムはそのときに改宗した人々の末裔とされている。主人公アブーの住む村にはまとまった数のイスラーム教徒が住んでいる様子だった。ただ、ヒンドゥー教徒やキリスト教徒も共存していて、宗教の別なく親交を結んでいた。
注目すべきは、ハッジを思い立ったアブーを助けたのはイスラーム教徒だけではなかったことだ。ヒンドゥー教徒のゴーヴィンダン、キリスト教徒のジョンソンがアブーのハッジを支えようとする。もちろん、イスラーム教徒も善良な人々ばかりで、特に旅行代理店のアシュラフ社長は採算度外視でアブーのハッジを応援しようとする。
「Adaminte Makan Abu」には悪い人がほとんど登場しない。かろうじて悪人といえるのは、パスポート作成の過程でアブーから賄賂を受け取った警察官くらいだが、インドでは賄賂は人間関係の潤滑油であり、これをもって彼を悪人と決め付けるのは気が引ける。かつて土地争いでアブーと揉めたスライマーンも、根は善人であった。インド映画ファンの悪い癖で、アブーほどの善良な人間は、絶対にどこかで誰かに足をすくわれるはずだと決め付け、今か今か、だますのはこいつかあいつかと、半ば期待しつつ観てしまうのだが、そのような人はついに一人も登場しない。ある意味、壮大な肩透かしだった。
結果的に「Adaminte Makan Abu」鑑賞後に残るのは、浄化された心である。これほどの強固な信仰心を見せられると、観ているこちらの心まで洗い流されてしまう。アブーとアイシュンマーはハッジには行けなかったものの、それでもまだ希望を捨てていないところにホッとさせられる。そして、今回ハッジに行けなかったのはジャックフルーツの木を切り倒してしまったからだと考え、庭に木を植えるのである。9/11事件以来、とかくイスラーム教はテロリズムと結びつけて考えられがちだが、その根底にはこのような平和を愛する気持ちがあることを感じさせてくれる。
以上が主軸になっているストーリーだが、それ以外にも若干のサイドストーリーがあった。ひとつはアブーとアイシュンマーの息子サッタールだ。ドバイに行ったまま帰って来ず、両親とはほぼ縁が切れてしまっていた。アブーは息子にハッジの金を無心することも潔しとしていなかった。劇中、ついにサッタールは姿を現さず、話の中だけの存在になっていた。その一方で、アシュラフ社長はアブーを実の父親に重ね、彼のハッジを何としてでも実現しようとする。赤の他人ながら実の息子よりもアブーのことを思いやってくれていた。だが、ハッジの資金は身内から調達しなければならないという規則があるようで、アブーはそのありがたい申し出を固辞する。ハッジを通して結び付く縁もあれば、ハッジを通して断絶が明らかになる縁もあるということだろうか。
ちなみに、「アブー」とは「父親」という意味である。アブーは「誰かの父親」を名乗りながら、息子から捨てられた存在だった。つまり、父親失格だった。そんな彼は、「アーダム(人類の始祖)の息子」を名乗るしかない。そんな皮肉が「アーダムの息子アブー」という題名に込められていると解釈していいだろう。
もうひとつ、ウスタードの存在は謎に満ちていた。村人たちから尊敬を受ける聖者であり、これまでいくつもの奇跡を起こしていた。メインストーリーにはほとんど影響を及ぼさず、途中で彼は静かに息を引き取る。ウスタードの遺体を巡って隣村同士でイザコザが起こったようなことが語られていた。
アブーを演じたサリーム・クマールは、多くを語らず、大きく見開いた目で物を語る絶妙な演技を見せていた。アブーをひたすら信じ、献身的に支える妻アイシュンマーを演じたザリーナー・ワハーブも実力派女優である。
「Adaminte Makan Abu」は、ハッジを夢見る老夫婦が少しずつ夢の実現に向けて前に進んでいく過程をじっくり描き出した作品だ。登場するのは善良な人々ばかりで、とにかく何も起こらない。何も起こらないのだが、主人公のアブーがあまりに敬虔すぎて、自らハッジの道を閉ざしてしまう。だが、それでもいいと思わせるだけの説得力がある。さまざまな宗教を信仰する人々が共存している姿からも感銘を受ける。心が洗われる映画であり、真の宗教映画といっていい。
