Umrao Jaan (1981)

4.5
Umrao Jaan
「Umrao Jaan」

 1981年1月2日公開の「Umrao Jaan」は、ウルドゥー語作家ミルザー・ハーディー・ルスワーが1899年に出版した小説「Umrao Jaan Ada」を原作として、栄華を誇った時代のラクナウーのタワーイフ、ウムラーオ・ジャーンを主人公にした作品である。古典的名作の一本に数えられている。

 監督はムザッファル・アリー。映画監督でもあるが、その前に旧コートワーラー藩王国王族の末裔であり、芸術家である。音楽はカイヤーム、作詞はシェヘリヤール。

 主役のウムラーオ・ジャーンを演じるのはレーカー。タミル語映画界のスーパースターの一人、ジェミニ・ガネーシャンの娘で、当初は南インド映画界で子役として活躍していたが、1970年にヒンディー語映画に出演し始め、1970年代半ばには認められた存在になった。「Umrao Jaan」公開時のレーカーは、ヒンディー語映画界におけるトップ女優の一人で、アミターブ・バッチャンとの熱愛の噂がゴシップ誌を賑わせていた。「Umrao Jaan」は女優がソロで主演を張る作品であり、絶頂期の美貌と才能が遺憾なく発揮されていて、間違いなく彼女の代表作だ。

 他には、ファールーク・シェーク、ナスィールッディーン・シャー、ラージ・バッバル、ガジャーナン・ジャーギールダール、シャウカト・アーズミー、ディーナー・パータク、プレーマー・ナーラーヤン、バーラト・ブーシャン・バッラー、ムクリー、サティーシュ・シャー、リター・ラーニー・カウルなどが出演している。

 時は1840年、ファイザーバード。アミーラン(レーカー)は、警察官の父親、母親、弟と共に何不自由ない生活を送っていたが、父親に恨みを持つディラーワル(サティーシュ・シャー)によって誘拐され、ラクナウーに連れて行かれて、カーナム・ジャーン(シャウカト・アーズミー)の経営するコーター(娼館)に売り払われる。アミーランは「ウムラーオ・ジャーン」という源氏名を与えられ、フサイニー(ディーナー・パータク)の保護下に置かれ、カーナム・ジャーンの娘ビスミッラー・ジャーン(プレーマー・ナーラーヤン)と共にマウルヴィー・サーハブ(ガジャーナン・ジャーギールダール)から声楽、音楽、舞踊を習い、一人前のタワーイフに成長する。

 ウムラーオはカーナム・ジャーンのコーターに居候するゴーハル・ミルザー(ナスィールッディーン・シャー)から言い寄られていた。あるときゴーハルに抱きしめられていたところを見つかり、ゴーハルはコーターを追い出される。だが、ゴーハルはナワーブ・スルターン(ファールーク・シェーク)という上客を連れて来ることに成功し、カーナムから許される。

 スルターンはレーカーの歌舞や詩の才能、それにその美貌にほれ込み、足しげく通うようになる。だが、スルターンはあるときコーター内でウムラーオに言い寄っていた顧客を銃で撃ってしまい、以来、コーターに出入りできなくなる。それでもレーカーはスルターンを思い続け、ゴーハルを使って連絡を取り、彼と密会していた。

 ラクナウーでは治安が悪化しており、盗賊が跋扈するようになっていた。あるときカーナムはアミーラン、ビスミッラー、ゴーハル、マウルヴィー、フサイニーなどと共にピクニックしていたが、そのとき盗賊に襲われ、ビスミッラーが誘拐されてしまう。一方、スルターンは別の女性と結婚することになってしまう。このとき、ファイズ・アリー(ラージ・バッバル)という顧客がウムラーオのところに来るようになっていた。傷心のウムラーオはファイズと共にラクナウーを逃げ出す。だが、ファイズは途中で警察官に撃たれて死んでしまう。実はファイズは盗賊だった。ウムラーオは警察官に保護されるが、そこでビスミッラーと再会する。ファイズに誘拐されたビスミッラーは救出され、警察官と一緒にいたのである。

 ラクナウーに戻る気のなかったウムラーオはカーンプルへ行き、そこでコーターを開いて評判になる。あるとき、ウムラーオはカーンプルの貴族の家に呼ばれムジュラー(舞踊)をする。その女主人は、かつてディラーワルに誘拐されたときに一瞬だけ顔を合わせたラームダイー(リター・ラーニー・カウル)だった。しかも、ラームダイーの夫はスルターンだった。その後、ウムラーオはフサイニーとゴーハルによってラクナウーに連れ戻される。ウムラーオは知らない間にゴーハルと結婚させられていた。

 その頃、ラクナウーでは英国東インド会社の軍隊による侵攻があり、カーナムたちもコーターを捨てて逃げ出す。タワーイフたちの一団は途中でファイザーバードに逗留する。ウムラーオはムジュラーを行うついでに実家に立ち寄る。母親は彼女を迎え入れるが、弟は姉を家名を汚す存在扱いし、追い出す。騒乱が収まった後、ウムラーオはラクナウーのコーターに戻るが、廃墟になっていた。

 「Umrao Jaan」では、運命に翻弄されタワーイフとなった一人の女性の栄光と没落の人生が物憂げに描かれていると同時に、かつて栄華を誇った宮廷文化が消失の前に一瞬だけ燃えあがった瞬間が憧憬と共に描かれている。

 「Umrao Jaan」の物語の大部分は、アワド藩王国最後のナワーブ(太守)であるワージド・アリー・シャーの時代に起こる。ワージド・アリー・シャーは、英国人からは国政を顧みず詩作や歌舞にうつつを抜かす愚鈍な統治者として評価されているが、芸術の愛好家でありパトロンでもあった彼は文芸を大いに振興し、宗教にも寛容で、民衆からは慕われた統治者だった。それでも、アワド藩王国が英国東インド会社に併合されるのは時間の問題だった。「Umrao Jaan」の中ではとにかく女性が誘拐されるが、これもナワーブの支配が領内に及ばなくなっていたことと関係あるだろう。レーカー演じるアミーランも、何不自由ない生活を送っていたところを急に誘拐され、人生を狂わされてしまう。

 長編小説の映画化であり、原作の全てが映画に盛り込まれているわけではない。ハイライトをつまみ食いして物語が作り上げられている。よって、所々唐突だったり、登場人物の感情がよく描かれていなかったりする部分も見受けられる。たとえばアミーランがコーターに売られた後、タワーイフ「ウムラーオ・ジャーン」として生きることになるまでの経緯は全く丁寧に描かれていない。一人の少女にとって、タワーイフとして生きなければならなくなることを受け入れるのにはかなりの時間が掛かるはずだが、アミーランは意外にすんなりとタワーイフとしての修行に打ち込んでいく。このスムーズ過ぎる展開には違和感を覚える。原作の「Umrao Jaan Ada」は有名な小説であり、これまでも「Mehndi」(1958年)、「Zindagi Aur Toofan」(1975年)と何度か映画化されていて、アミーランがウムラーオ・ジャーンになることは誰もが知っている事実であるためであろうか。

 ひとたびタワーイフに身を落とした女性が、いくらタワーイフとして名声を稼ごうとも、富や財産を築こうとも、もう二度と一般の女性の幸せを享受できなくなることは、多くのタワーイフ映画で悲劇的に描かれる事柄である。ウムラーオはスルターンという若い貴族と恋仲になるが、彼との結婚はかなわなかった。スルターンと入れ替わるように現れたファイズに身を託すが、貴族と思った彼は実は盗賊であり、警察に追われる身だった。一時的に彼女はカーンプルでタワーイフとして独立するが、すぐにラクナウーに連れ戻され、コーターに寄生するヒモ男のゴーハルと無理やり結婚させられる。いくら芸を磨こうとも、いくら美を極めようとも、彼女はもはや普通の家庭を築く権利を持っていなかった。

 運命の分かれ道もより運命の皮肉を演出する。誘拐されたアミーランは、一瞬だけ別の誘拐された少女と同室に閉じこめられる。そのとき出会った少女はラームダイーという名前だった。少女を買いに来た老婆がいたが、彼女は肌の白さでアミーランではなくラームダイーを選んだ。残されたアミーランはラクナウーのコーターに売られるが、ラームダイーは貴族の家で養われる。そして、ウムラーオが愛したスルターンと結婚する。あのとき、もしアミーランが選ばれていたら、スルターンと恋には落ちなかったかもしれないが、結婚はできていたのである。

 ラクナウーに連れ戻されたウムラーオは、おそらく逃亡防止のためであろう、勝手にゴーハルと結婚させられ、しかも彼から訴えられて、裁判に出頭しなくてはならなくなる。だが、そんなとき、ラクナウーが騒乱状態に陥る。これは、1857年のインド大反乱だと考えていいだろう。ラクナウーはインド大反乱の震源地のひとつとなり、英国人に対する大規模な蜂起があった後、巻き返した英国東インド会社軍の侵攻を受けた。その前にはワージド・アリー・シャーが太守を廃位され、アワド藩王国から追放されていた。ラクナウーの宮廷文化は王侯貴族がパトロンになって発展したものであり、この政治状況の激変はタワーイフの生業にも深刻な影響を与えた。しかも、インド大反乱を鎮圧した後、インドの直接統治を始めた英国は、タワーイフから資産を没収し、ビクトリア朝特有のキリスト教的禁欲主義を適用して、彼女たちを売春婦に格下げした。破壊されたコーターに戻ったウムラーオが鏡をのぞき込むシーンで映画は終わるが、このシーンにはウムラーオ一人の悲しみだけでなく、かつてラクナウーの栄華を象徴したタワーイフたちの包括的な悲しみが込められている。

 「Umrao Jaan」で特に優れているのは歌と踊りだ。大半はウムラーオがメヘフィル(饗宴)で披露するムジュラー(舞踊)である。ラクナウーはウルドゥー語文学の中心地のひとつでもあり、歌詞には風雅な宮廷文化を再現するためにウルドゥー語が使われているが、意外なことにそれほど難解な語彙は使われていない。あまり本気を出してしまうと誰も理解できなくなってしまう。あくまで大衆娯楽映画ということを念頭に置き、一般大衆でも楽しめるようにバランスを取った語彙で歌詞が書かれている。歌詞の形式はガザル詩になっており、詩の素養のある人には脚韻から広がる世界観が楽しめる。音楽は19世紀に存在した楽器を使って演奏することにこだわっており、レーカーが踊る優雅なカッタク・ダンスが映画に華を添えている。「Dil Cheez Kya Hai」、「In Ankhon Ki Masti Ke」、「Justuju Jiski Thi」など、名曲揃いであり、それぞれの歌詞はストーリーと密接な関係を持っている。ストーリー部分よりもむしろ、歌と踊りの部分で「Umrao Jaan」は不朽の名作に昇華しているといっていいだろう。

 「Umrao Jaan」は、ミーナー・クマーリー主演「Pakeezah」(1972年)に並ぶタワーイフ映画の傑作であり、インド映画史の金字塔のひとつである。往年の名女優レーカーの代表作でもある。原作の部分的な映画化であり、ストーリー展開には唐突に思えるところもあるが、合間に差し挟まれるムジュラーは眼福と感興の極みである。衰退前の宮廷文化の最後の輝きを映像化したこの作品は、未来永劫残っていくことだろう。