ムザッファル・アリー監督、レーカー主演の「Umrao Jaan」(1981年)は、19世紀半ば、最後の栄華を誇っていたラクナウーを舞台にし、何不自由ない生活をしていた女性が突然誘拐され、コーターに売り飛ばされ、タワーイフとして生きることになった悲劇的な人生を、1857年のインド大反乱も絡めながら描きだした不朽の名作である。

主人公のアミーランは、コーターに売り飛ばされ、「ウムラーオ・ジャーン」という源氏名を与えられて、タワーイフとしての修行を始める。ウムラーオに歌、舞踊、詩作などを教えたのが、コーターに住み込みでタワーイフたちに技芸を教えていたマウルヴィーであった。
一人前のタワーイフになるためには、まずは歌、音楽、舞踊が必須であり、ウムラーオは「必修科目」としてマウルヴィーからそれらを習い始める。だが、彼女には詩作にも興味があったようで、歌舞を一通りマスターした後、「補習」や「課外活動」のような形でマウルヴィーに対し自主的に詩の手ほどきも願い出る。タワーイフ全盛期である19世紀でも、実際にタワーイフとして一段上の存在になるためには、自ら優れた詩を詠むことも求められていたのだと考えられる。
序盤には、ウムラーオが自作のガザル詩(二行連句の叙情詩)をマウルヴィーに添削・推敲してもらう場面が用意されている。ウルドゥー語のガザル詩のみならず、インド人の詩に対するセンスや趣向がよく表れていたため、非常に高度な内容にはなるが、誰かの参考になるかもしれないと思い、ここで詳しく解説したい。
彼女が自作した段階では、詩は以下のようなものだった。これはガザル詩の用語でいえば「マトラー(Matla)」であり、詩の主題や構成を提示するもっとも重要な第1連だ。マトラーを構成する2行の内、第1行と第2行は脚韻を踏まなければならないという規則がある。
دل ہی نہیں حضور میری جان لیجئے
بس ایک بار میرا کہا ماں لیجئےDil Hi Nahin Huzoor Meri Jaan Lijiye
Bas Ek Baar Mera Kaha Maan Lijiye心だけでなく、旦那様、私の命も奪ってください
一度だけでいいから、私の言うことを聞いてください
それを聞いたマウルヴィーは、まず褒めてからウムラーオに、詩作の際には2つのことに注意するように教える。
- Khyaal Ki Nazaakat
- Alfaaz Ki Bandish
「Kyaal Ki Nazaakat」とは、「着想の繊細さや優雅さ」のことをいう。そして、「Alfaaz Ki Bandish」とは、「言葉の緊密な構成や厳格な配置」のことをいう。そして、マウルヴィーは少し考えた後、以下のような修正案を提示する。
دل چیز کیا ہے آپ میری جان لیجئے
بس ایک بار میرا کہا ماں لیجئےDil Cheez Kya Hai Aap Meri Jaan Lijiye
Bas Ek Baar Mera Kaha Maan Lijiye心などどうでもいいから、あなた、私の命を奪ってください
一度だけでいいから、私の言うことを聞いてください
第1行の前半部分が「Dil Hi Nahin Huzoor」から「Dil Cheez Kya Hai Aap」に変更されている。それに伴って訳の方も「心だけでなく、旦那様」から「心などどうでもいいから、あなた」に変更した。それ以外は手つかずである。では、この変更によってこの詩のどんな欠点が埋められ、新たにどんな美点が生まれたのだろうか。それが本稿の要旨である。
ウムラーオの原案では、「Di Hi Nahin… Meri Jaan Lijiye」、つまり、「私から心だけでなく、命を奪ってください」となっていた。「Dil(心)」と「Jaan(命)」が同じ土俵に載せられている。これらはガザル詩の中で頻出し、よく対比もされる単語のペアだ。どちらも大切なものだが、その大切さに大きな差が付けられておらず、グラデーション的につながっているようにも感じられる。緊張感がなく、凡庸な表現である。「あなたが好きだから、あれもこれもあげる」というストレートな表現は、一般女性の心情描写ならば成り立つかもしれないが、男性の心を巧みにコントロールしなければならないタワーイフにとって、そして熱情的な感情を扱うべきガザル詩の基準から見て、「Nazaakat(繊細さや優雅さ)」に欠け、やや野暮で直情的に映る。
だが、これがマウルヴィー案になると、「Dil Cheez Kya Hai」となって、「Dil(心)」を「Cheez(物)」と呼んでいる。直訳すれば「心はどんな物だろう」「心という物は何だろう」となり、つまり、私の心などどうでもいいということだ。第1行の前半でいったん「私の心」を取るに足らないもの、相手に与えて当然のものに落としておいて、後半で「私の命」をはるかに重要なものとして取り上げ、それを相手に惜しげもなく捧げようとしている。この変更によって「Dil(心)」と「Jaan(命)」に強烈なコントラストが生まれ、詩に劇的な効果をもたらしている。これが「Nazaakat(繊細さ)」である。
また、「Alfaaz Ki Bandish(言葉の構成や配置)」の観点からしても、ウムラーオ案には無駄がある。字数の限られた韻文の中で、「Dil Hi Nahin(心だけでなく)」という単語の並びはあまり多くのことを語っておらず、緩いのである。だが、マウルヴィー案になると「Cheez」という意外性のある単語を持ち出したことで無駄がなく、また、「Kya Hai」という疑問文にすることで反語的な表現になっていて、平叙文よりも詩的な奥行きが生まれている。
これらの推敲の本質は、タワーイフとしてどのような言葉を選び、どのような詩を歌わなければならないかという重要な命題と関係がある。ウムラーオ案の「心だけでなく…」は、洗練されていない生身の叫びであり、純朴で、どこか懇願するような従順な響きがある。一方で、マウルヴィー案の「心なんて何ほどのもの?」という優雅な歪みのある表現には、聴き手をハッとさせるような、知的で、少し不敵で、エレガントな突き放しが生まれる。これこそが、メヘフィル(饗宴)で高貴な男性たちを魅了しなければならないタワーイフの詩人に不可欠な、洗練された言葉の艶なのである。
