
「Salaam Bombay!」は、ボンベイのストリートチルドレンを題材にしたリアリズム映画であり、世界で高く評価されインド映画の国際的な地位を高めた記念碑的作品である。1988年5月11日にカンヌ映画祭でプレミア上映され、ミーラー・ナーイル監督はカメラドール(新人監督)賞を受賞した。また、「Mother India」(1957年)に次ぎ、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた2本目のインド映画でもある。
ナーイル監督はインド出身ながら、「Salaam Bombay!」撮影時には米国人写真家ミッチェル・エプスタインと結婚し米国に住んでいた。女優から監督に転向した彼女は、当初はドキュメンタリーを撮っていたが、その中でオールドデリーの地元民やボンベイのバーダンサーたちを主題にしたドキュメンタリーを作っており、「Salaam Bombay!」への地ならしが行われていたといえる。ナーイル監督は、ハーバード時代の友人で脚本家のスーニー・ターラーポールワーラーと共にボンベイのストリートチルドレンを題材にした長編フィクション映画の構想を練り始め、実際にストリートチルドレンを起用して、ワークショップで演技指導などを行いながら、「Salaam Bombay!」を完成させた。
主要キャストの子供たちは、ボンベイの赤線地帯カマーティープラー周辺に住む無名のストリートチルドレンたちである。主役のクリシュナを演じたシャフィーク・サイヤドもストリートチルドレンだった。ただ、大人の役はきちんとした俳優が演じており、ラグビール・ヤーダヴ、ナーナー・パーテーカル、シャウカト・アーズミー、アニーター・カンワル、チャンダー・シャルマー、イルファーン・カーンなどが出演している。
以前にも鑑賞したことがあったが、2026年6月28日に改めて鑑賞し、このレビューを書いている。
少年クリシュナ(シャフィーク・サイヤド)はバンガロール近くに住んでいたが、メカニックの兄が顧客から預かったバイクを怒って燃やしたことで母親から叱られ、サーカスで500ルピーを稼いでこないと家に帰らせないと言われて、サーカスで働いていた。だが、クリシュナが買い物に行っている間にサーカスは撤収をしており、クリシュナは路頭に迷うことになる。そこでクリシュナは駅でボンベイ行きの切符を買い、ボンベイに流れ着く。クリシュナは路上で出会ったチッラム(ラグビール・ヤーダヴ)を兄貴分と見なすようになり、彼から紹介されたチャーイボーイの仕事で500ルピーを貯めようとする。クリシュナは人々から「チャーイパーウ」というあだ名を付けられた。
クリシュナの働くテリトリーには売春街があり、彼は売春婦たちにもチャーイを届けていた。あるとき、売春宿109号にネパール人少女(チャンダー・シャルマー)が連れ込まれる。彼女はヒンディー語が話せなかったが、「ソーラーサール(16歳)」と呼ばれるようになった。売春宿のマダム(シャウカト・アーズミー)は、処女の彼女を上客に高く売ろうとしていた。クリシュナは年上のソーラーサールに惹かれる。また、クリシュナはレーカー(アニーター・カンワル)という売春婦の家にも出入りしていた。レーカーは、この辺り一帯を牛耳るバーバー(ナーナー・パーテーカル)の妻でもあり、彼との間にマンジューという娘がいた。マンジューは少し年上のクリシュナを遊び相手として慕っていた。チッラムはバーバーの下で働いていた。
あるとき、クリシュナは売春宿109号に放火し、ソーラーサールと一緒に逃げようとする。すぐに二人は捕まり、こっぴどく叱られ、クリシュナは出入り禁止になる。バーバーはソーラーサールをなだめるため、優しく接する。ソーラーサールはバーバーに懐くようになる。また、チッラムはバーバーに内緒で外国人に大麻を売って勝手に儲けたことをとがめられ、クビになる。チッラムは麻薬中毒であり、収入が途絶えて麻薬が買えなくなったことで禁断症状に悩まされるようになる。チッラムはクリシュナが必死で貯めた300ルピーを盗んで麻薬を大量摂取し、オーバードーズで死んでしまう。
チャーイ屋をクビになったクリシュナは、ストリートチルドレンの仲間たちやマンジューと共に手当たり次第仕事をしていた。その中には強盗も含まれていた。ある晩、仕事を終えて夜中に道を歩いていたクリシュナとマンジューは警察に捕まってしまう。クリシュナは少年院に入れられ、そこでしばらく過ごすことになる。また、マンジューは児童養護施設に入れられた。レーカーはマンジューを連れに行くが、施設長は売春婦のレーカーにマンジューを引き渡せないと言う。
少年院から脱走したクリシュナは、早速ソーラーサールに会いに行くが、ソーラーサールは最初の顧客のところへ去って行くところだった。ソーラーサールはバーバーにすっかり言いくるめられていた。そこでクリシュナはバーバーのところへ行く。バーバーは、家出しようとするレーカーを止めようとしていた。クリシュナは背後からナイフでバーバーを刺し、レーカーを連れて逃げようとする。だが、ちょうどガネーシャ生誕祭のパレードが行われており、群衆の中でレーカーとはぐれてしまう。
映画産業の中心地ボンベイで作られる映画には、ボンベイを舞台にした映画がとても多いが、その多くは中上流階級層の生活を描いており、しかもセットで撮影されることがほとんどで、現実のボンベイが描写されることは稀である。だが、ボンベイの下町で実際に撮影が行われ、その路上で暮らすストリートチルドレンを起用して作られた「Salaam Bombay!」は、圧倒的リアリティーでボンベイの底辺でもがきながら生きる人々の姿を映し出す。そのリアリティーは、リアルすぎて嘘に思えるほどである。
たとえば、バーバーの生業は多くの日本人には理解不能ではなかろうか。彼は売春婦のレーカーと結婚し、彼女に売春をさせて生きていた。売春を容認していたというよりも、売春をさせていたのである。しかも、レーカーもそういう生活に何の疑問も抱かていなかった。おそらくバーバー自身も売春街で育ち、チッラムのようにポン引きや麻薬の密売などをしながら成長してきた人物であろう。次第に売春街の顔役のような立場になったが、自身は売春宿の運営などからは足を洗い、売春婦の一人と結婚し、娘マンジューをもうけて暮らしていた。もちろん、マンジューが彼の実の子かは分からない。売春宿の運営は止めたものの、妻に売春をさせることは続けていた。そんな立場の人間なのだろう。
クリシュナがボンベイに来るまでのエピソードもよく分からないかもしれない。クリシュナの父が亡くなり、兄が父代わりになったが、兄とケンカして腹いせにバイクを燃やし、それで家を追い出されていた。母親から「メーラーで500ルピーを稼ぐまで帰ってくるな」と言われ、サーカスで小間使いをしていたが、この辺りの話もまだ幼いクリシュナの理解できる範囲で語られただけであり、実際のところは分からない。よくメーラーでは子供が迷子になるようで、インド映画ではそういう展開が非常に多い。その中には、迷子ではなく捨て子もいるのではなかろうか。もしかしたら母親はクリシュナをメーラーに捨てたのかもしれない。クリシュナを捨てなければならなかった理由としては母親の再婚が考えられる。「兄」と呼ばれていた人物も、もしかしたら実の兄ではなく、母親の再婚相手なのかもしれない。クリシュナ役を演じたシャフィーク・サイヤドは、バンガロールに住んでいたが、家出をしてボンベイにやって来てストリートチルドレンをしていたらしい。おそらくクリシュナのバックストーリーには、ミーラー・ナーイル監督やスーニー・ターラーポールワーラーがボンベイの路上で実際に出会った子供たちの身の上話が混ざり込んでいるのではないだろうか。
とにかくクリシュナの幼い脳裏に「500ルピー」という具体的な金額が刻み込まれる。彼は、500ルピーを稼げば再び家に帰ることができると信じ、ボンベイでチャーイ売りやその他の低賃金労働をして働いていたのである。ほぼ無法地帯となっているボンベイの路地の厳しさと、クリシュナが信じ込んでいる500ルピーの幻想が好対照であり、彼の不幸をさらに磨き上げている。
クリシュナの他に印象的なキャラはソーラーサールだ。顔付きからしてネパール人であり、おそらく寒村の貧しい親に身売りされてボンベイの売春街に届けられたものと思われる。ヒンディー語が話せなかったため、自分の名前を伝えることもできなかったが、「16歳」を意味する「ソーラーサール」という愛称を付けられていた。もちろん、本当に16歳の少女かどうかは不明だ。クリシュナはソーラーサールに心惹かれ、彼女を救い出そうとするが失敗する。そこでバーバーが出番だとばかりに登場する。おそらくバーバーは若い頃、身売りされてきた少女たちを慰め、売春婦への心構えを付けさせる仕事をしていたのだろう。バーバーはソーラーサールに優しく接し、彼女の心を巧みに掴む。クリシュナが少年院に入っている間にソーラーサールはすっかり売春婦の顔になっており、水揚げのために着飾って出て行く。クリシュナにとっては、これも大きな不幸であった。
「Salaam Bombay!」で描かれる散発的な出来事を総括すると、ボンベイの下層社会には全く「信頼」がないことが分かる。クリシュナがボンベイで出会った人々は皆、信頼の置けない人物ばかりだった。自分のことしか考えておらず、信頼しても裏切られるだけだ。兄貴分のチッラムにも裏切られたし、ソーラーサールにも思いは通じなかったし、少年院で出会ったムルタザーにも土壇場で逃げられた。最後にクリシュナが人を殺めてまで手を差し伸べたレーカーともあっけなくはぐれてしまった。だからであろう、ボンベイの路地で生き抜いてきた百戦錬磨の大人たちは、決してクリシュナを信用しようとしなかった。クリシュナに職を与えたチャーイ屋の親父も、バーバーも、絶対にクリシュナを信じなかった。常に生き馬の目を抜こうとし、一瞬でも隙を見せればケツの毛まで抜かれるボンベイの厳しい現実を赤裸々に映し出し、皮肉を込めて「サラーム(平安あれ)」とエールを送っているのがこの「Salaam Bombay!」だといえる。
ただ、ひとつだけ未解決の要素があった。それはマンジューである。まだ幼いながらも、マンジューがクリシュナに恋心を抱いていたのは明らかである。クリシュナの気持ちはソーラーサールに向いていたが、もしソーラーサールがこのまま売春婦として定着しクリシュナを無下にするなら、クリシュナはマンジューをパートナーに選ぶ可能性がある。実際、二人は一緒に仕事をしていた。マンジューは成人まで児童養護施設に入れられることになりそうだが、それを出た後、クリシュナとマンジューが出会い、一緒になることはあるかもしれない。だが、その関係はバーバーとレーカーの相似形になる可能性はある。クリシュナはボンベイの売春街の顔役になり、マンジューはその妻または愛人となるのである。これを単純に不幸の連鎖と呼ぶことは避けたいが、時代が変わり世代が変わってもボンベイ自身の本質は変わらないということになるだろう。
演技面では、まずはシャフィーク・サイヤドを代表とする演技未経験のストリートチルドレンにこれだけの演技をさせることができたミーラー・ナーイル監督が絶賛されるべきであろう。本物のストリートチルドレンにしか出せない雰囲気やセリフ回りの妙があった。ソーラーサール役のチャンダー・シャルマーも何もしゃべらなかったが、表情で雄弁に語っていた。演技は、究極的には監督の手腕でいくらでも引き出せることが分かる。そして、ナーナー・パーテーカル、ラグビール・ヤーダヴ、シャウカト・アーズミーなど、実力派俳優たちが子役たちをしっかり支えていた。
「Salaam Bombay!」には、まだ20歳前後のイルファーン・カーンが端役で出演している。「Salaam Bombay!」後も彼は長い下積み期間をくぐり抜けなければならなかったのだが、国際的に高く評価されたこの傑作に少しだけでも顔を出せていたことは運命的だった。
「Salaam Bombay!」は、インドを代表する国際的な映画監督であるミーラー・ナーイルが初めて撮った長編フィクション映画であり、ボンベイの下層社会の現実をリアルに切り取り、物語にした傑作である。本物のストリートチルドレンを起用して作ったことも画期的で、そのこだわりは確実に映画の完成度を高めている。必見の映画だ。
