Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri

3.0
Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri
「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」

 2025年のヒンディー語映画界ではロマンス映画復権の兆しが見られたが、2025年12月25日、クリスマスに合わせて公開され、最終週を飾ることになった「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」も、ロマンス映画であった。早口言葉のような題名だが、「君は僕のもの、僕は君のもの、僕は君のもの、君は僕のもの」という意味である。なぜ同じフレーズが繰り返されているのかと不思議だったが、映画を観たら納得した。きちんと内容に沿った題名になっている。

 プロデューサーはカラン・ジョーハルなど。監督は「Satyaprem Ki Katha」(2023年)のサミール・ヴィドワーンス。音楽はヴィシャール=シェーカル。主演はカールティク・アーリヤンとアナンニャー・パーンデーイ。他に、ニーナー・グプター、ジャッキー・シュロフ、チャーンドニー・バブダー、ティークー・タルサーニヤー、グルシャー・カプール、ローケーシュ・ミッタル、モーヒト・ネヘラー、カビール・ジャイ・ベーディーなどが出演している。

 インド滞在中の2025年12月29日にデリーのコンノートプレイスにあるINOXオデオンで鑑賞した。

 米国在住のリハーン・メヘラー、通称レイ(カールティク・アーリヤン)は、母親ピンキー(ニーナー・グプター)と共にウェディングプランナーをしていた。デリーでの結婚式の仕事を終えた後、レイはクロアチアへバカンスに行く。そこでルーミー・ワルダーン(アナンニャー・パーンデーイ)という駆け出しの作家と出会い、二人は恋に落ちる。

 ルーミーの妹ジヤー(チャーンドニー・バブダー)は父親アマル・ワルダーン大佐(ジャッキー・シュロフ)と共にアーグラーに住んでいたが、デートアプリで出会ったカナダ在住インド人スキー(モーヒト・ネヘラー)と結婚することになる。ワルダーン大佐には夢遊病や高血圧の症状があり、これまではジヤーが世話をしてきた。だが、スキーと結婚した後、彼女はカナダへ移住してしまう。ルーミーは、ジヤーに代わって自分が父親の面倒を見なければならないと考える。もし米国在住のレイと結婚してしまったら、彼女も米国に移住することになり、父親はアーグラーで一人残されてしまう。それを考えたルーミーはレイと別れることを決断し、クロアチア旅行を途中で切り上げ帰国する。

 ルーミーに振られてしまったレイは母親に励まされ、アーグラーまでルーミーを追っていく。そして、スキーとジヤーの結婚式のウェディングプランナーを買収して自分がボスに成り代わる。レイはワルダーン大佐に気に入られ、ルーミーとの結婚を持ちかけられる。喜んだルーミーは、実はルーミーとクロアチアで出会い恋に落ちていたと明かしてしまう。また、ピンキーもアーグラーまでやって来て、ワルダーン大佐を老人ホームか米国に送ろうと画策する。それがルーミーを怒らせてしまい、ルーミーがピンキーに対して放った言葉がレイを怒らせてしまう。レイーは米国に帰り、ルーミーは父親とこのままアーグラーに住み続けることを決意する。

 ピンキーは、ルーミーを米国に呼び寄せるのではなく自分たちがアーグラーに移住すればいいと提案する。レイはアーグラーに舞い戻り、ルーミーにプロポーズする。ルーミーもそれを受け入れる。

 「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」のコンセプトは、「2020年代の今、Z世代の若者が、1990年代のような恋愛をする」とのことである。では、1990年代のような恋愛とは何か。それは、愛し合う男女の恋愛結婚を両親が認めないというプロットである。とはいっても、「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」に登場する親は、主人公レイとルーミーの恋愛を妨害しようとはせず、むしろ応援する。では、何がレイとルーミーの結婚の障害になっているかというと、それは親のために子が自らの夢や願望を犠牲にするという価値観である。レイに父親はおらず、母親ピンキーに育てられ、強い絆で結ばれていた一方、ルーミーには母親がおらず、父親ワルダーン大佐の健康を気に掛けていた。この構造が、題名「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」に凝縮されている。つまり、「僕(レイ)は恋人(ルーミー)のものだけど母親(ピンキー)のものでもある、と知らせているのである。

 1990年代は、両親、特に父親が、子供の恋愛結婚を抑止する力になっていた。その原動力になっていたのは、多くが家族の名誉であり、社会的な理由であった。だが、2020年代は、両親のことを思いやる子供が自ら恋愛結婚を思いとどまる。今回は健康に不安のある親を孤独にさせたくないという個人的な思いやりが主な原動力になっていた。どちらも両親が恋愛結婚の障害になっているのは変わらないが、そのベクトルは正反対だ。現代のインド映画において、1990年代の映画によく登場していたような強権的な父親はもはや絶滅危惧種になっている。だが、親が弱くなったからといって、それに付け込んで子供が好き勝手するのを推奨しているわけではない。2020年代にも引き続きインド映画は家族の大切さを訴え続け、堂々と恋愛よりも家族愛の優先を美徳として広めている。

 ただ、レイとルーミーの親孝行思想は度を超していたように感じられた。レイは映画監督になる夢をあきらめ、母親と共に米国に移住し、母親の仕事を手伝っていた。ルーミーは妹の結婚を機に、父親の世話を最優先して、レイとの結婚を諦め、実家に帰る。彼らは、「親は自分たちのために多くの犠牲を払ってきたのだから、今度は自分たちが親のために犠牲を払う番だ」という考えを共有していた。だが、親の立場に立って考えてみれば、子供にここまで配慮してもらうのは本望ではないはずである。家族愛の礼賛はいいが、親のために自発的に夢を諦め、好きな人と潔く別れるというプロットは、どうも腑に落ちない。それがこの映画を迷走させていた。

 また、父親をアーグラーに一人残して米国に嫁入りできないというルーミーの問題の解決策として提示されていたのはかなりラディカルなものだった。インドでも、結婚後は妻の方が夫の家に住むことになることが大半である。だが、それがあるからルーミーはレイとの結婚に踏み切れなかった。ならば、夫の方が妻の家に住めばいいではないか、というのが「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」の提案だった。インドでは、結婚後に妻の家に住む夫のことを「ガル・ジャマーイー」と呼び、非常に不名誉なことだとされている。「それでも別にいいじゃないか」というのがその提案の本質であり、これはインド社会の因習に対するかなり過激な挑戦状になる。果たしてこの解決法は解決法になっているのだろうか。

 全体のバランスも決して整ってはいなかった。レイとルーミーが恋に落ちるまでの過程はじっくり描きすぎで、非常に退屈だったし、終盤でもスト-リーが飛んでいるような部分が散見された。

 主演カールティク・アーリヤーンの演じたレイも薄っぺらいキャラだった。カールティクの演技に本腰が入っていなかったからだと感じた。サルマーン・カーンを真似しているのか、やたら服を脱いで腹筋を見せつけるシーンが多かったのも不安材料だった。しかも、カールティクは細身なので、サルマーンなどの重量級スターたちとは比べものにならない。

 ヒロインのアナンニャー・パーンデーイは、演技云々よりも、ようやく彼女からスターオーラが放出され始めたことの方が個人的な注目点だった。デビューから6年が経っており、2020年代を代表する若手スターの一人に数えられてはいるものの、まだ代表作と呼べるような作品には恵まれていない。だが、「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」での彼女には存在感があり、名実共にスターになる地ならしが完了したと感じた。

 ベテラン俳優のニーナー・グプターとジャッキー・シュロフにも、脇役ながら重要な出番が用意され、彼らはきっちりと仕事をこなしていた。

 前半はクロアチアでロケが行われていた。しかも、そのシーンがどこで撮られたのか、いちいちロケ地が示されていて、クロアチア観光プロモーション映画の域に達している。クロアチアは近年インドの映画メーカーたちの中で人気のロケ地になっており、「Fan」(2016年)や「Bad Newz」(2024年)などでクロアチア・ロケが敢行された。きっとインド人観光客が増えていることだろう。

 「1990年代のロマンスよ、もう一度」というコンセプトがもっとも顕著に表れていたのは、懐メロを多用した演出であった。「Khal Nayak」(1993年)、「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)などから、インド人なら誰でも知っている有名な曲が現代的にアレンジされて使われており、ファンサービスになっていた。音楽以外にも、ちょっとしたセリフの中に過去の名作へのオマージュがちりばめられており、それらをひとつひとつ見つけていくのも楽しいものだ。

 「Tu Meri Main Tera Main Tera Tu Meri」は、1990年代のロマンス映画を回顧しながら、それを現代まで持って来て現代的なラブコメ映画に仕上げた作品だ。「子は親のために犠牲になるべきか」という命題が提示され、最終的には家族愛の大切さが再確認される流れになっている。興行的には苦戦しているようだが、平均的な出来の映画である。