ロンドン在住のグリンダル・チャッダー監督と言えば、カナダのトロント在住ディーパー・メヘター監督、米国ニューヨーク在住のミーラー・ナーイル監督と並んで、海外在住インド人女性監督三傑の一人に数えられる。それぞれ異なる作風を持っているのだが、個人的にもっとも評価していないのが残念ながらチャッダー監督だ。なぜそう思うかと言えば、メヘター作品とナーイル作品からはインド愛を感じる一方で、チャッダー作品はどちらかというとインドというルーツの克服をテーマにすることが多いからだ。彼女の出世作「Bend It Like Beckham」(2002年/邦題:ベッカムに恋して)がその典型である。インド好きとしては、なかなか素直に評価できないのが正直なところだ。
2017年8月18日にインドで公開された、チャッダー監督の最新作「Viceroy’s House」が、日本で「英国総督 最後の家」の邦題で、2018年8月11日より一般公開される。マスコミ向け試写会で一足先に鑑賞することができたので、ここにその感想と解説を書く。ネタバレがあるので注意。
チャッダー監督自身は、当時英国の植民地だったケニアのナイロビ出身で、その後英国に移住したが、彼女の家系のルーツはインド北西部パンジャーブ地方にある。パンジャーブ地方は1947年の印パ分離独立時に東西に分割され、双方向に移民が発生し、殺戮と略奪が行われたため、もっとも混乱した。チャッダー家も、パーキスターン領となったラホールから難民となってインド側に逃れてきており、そのとき死者も出している。「Viceroy’s House」は、そんな彼女のルーツを辿る目的で作られた、いわゆる「動乱映画」である。この種の映画はインドで多く作られており、そのこと自体に目新しさはない。
ただ、他の動乱映画と大きく異なるのは、舞台をほぼ総督官邸に限ったことである。総督(Viceroy)とは、英領インドの統治における現場のトップであり、総督官邸とは現在ニューデリーにある大統領官邸そのものである。第2次世界大戦が1945年に終結し、英領インドの独立が決まると、後処理のために、ヴィクトリア女王の曾孫ルイス・マウントバッテンが最後の総督として赴任した。この映画は基本的に、マウントバッテン及び英国統治者層側の視点から印パ分離独立を描写した作品である。
マウントバッテンがインドで直面したのは、国内で急速に激化する宗教対立であった。人口の6割を占めるヒンドゥー教徒と3割を占めるイスラーム教徒が対立し、各地で暴動が頻発していた。その火種は総督官邸で働く500人の労働者にも飛び火していた。問題は、どのような形で独立するかであった。非暴力の独立運動を繰り広げ、庶民から「バープー(お父さん)」と慕われていたマハートマー・ガーンディーは、インド亜大陸がひとつの国として独立することを望んでいたが、イスラーム教徒の利害を代表するムスリム連盟のムハンマド・アリー・ジンナーが、イスラーム教徒多住地域を「パーキスターン」として分離独立させることを要求しており、独立運動で中心的な役割を果たした国民会議派のリーダーであるジャワーハルラール・ネルーもそれに同調し始めていた。マウントバッテンも分離独立しか解決策がないと決断したが、大きな問題は、どこに国境線を引くか、であった。
もっとも困難を極めたのは、パンジャーブ地方とベンガル地方であった。これら2地域では宗教人口比が拮抗しており、どちらの国に所属させるかを単純に決めることができなかった。しかも、ネルーもジンナーも、これらの地域を自国に収めたいと考えていた。そこで、全く中立の立場から国境線を画定するため、英国から、インドのことを何一つ知らない弁護士シリル・ラドクリフが派遣された。ラドクリフは限られた時間の中で、国境線を引くという重要な任務を行う。
結局、ラドクリフがこのとき引いた国境線が、ほぼ現在のパーキスターン~インド~バングラデシュの国境線となっている。この国境線によってパーキスターンとなった地域に住んでいたヒンドゥー教徒やスィク教徒、及び、インドとなった地域に住んでいたイスラーム教徒の多くは、土地や家財を残して国境を越えることになり、その途中で虐殺に遭って命を落とした者も多数出た。
以上は歴史的事実であり、劇中でもそれが忠実になぞられていた。だが、その舞台裏で進んでいたことについては、マウントバッテンの個人秘書を務めていたナレーンドラ・スィン・サリーラー著「The Shadow of the Great Game: The Untold Story of India’s Partition」(Constable, 2005)という一冊の本に準拠しており、ひとつの説であるということを理解した方がいいだろう。もちろん、内部の事情通たりえる著者の経歴から、彼が目撃し記したことに一定の信憑性があることは認めるべきだが、あくまでこの映画はフィクションとして割り切った方が無難だろう。
「Viceroy’s House」または「The Shadow of the Great Game」では、印パ分離独立は東西冷戦という大きな展望の中で理解すべき出来事だったと主張されている。ネルーは、東西どちらにも与しない非同盟主義を掲げていたものの、実際にはソビエト連邦と近く、西側陣営に属する英国としては、冷戦の枠組みの中で独立後に全幅の信頼を置ける人物ではなかった。ソ連はかねてから不凍港を求めていた。もしインドが統一国家として独立してソ連と手を結ぶことになれば、ソ連はインドを介して不凍港を手にする恐れがあった。そこで、ジンナーにパーキスターンを建国させて恩を売り、ソ連が狙っていたカラーチー港をインドから切り離すことで、ソ連の野望をくじくことが英国にとって最大の国益であると裏で考えられていた。既にマウントバッテンのインド総督赴任前にジンナーと密約が交わされており、ラドクリフが引いた国境線は、1945年に英国首相を辞任したチャーチルが想定した通りのものであった。
総じて言えば、この映画の観点からすると、マウントバッテンは結局、軽い神輿として担がれただけであったし、分離独立の当事者であるインド人にとっては、政治家も含めて、国際的なグレートゲームの中で翻弄され、とんだとばっちりを受けただけ、ということになる。
これら表裏の政治劇と平行して、架空のインド人男女2人の恋愛劇が織り込まれる。マウントバッテンの付き人として総督官邸に新しく配属されたヒンドゥー教徒ジート・クマールと、マウントバッテンの娘パメラの付き人として雇われたイスラーム教徒アーリヤーである。二人は顔なじみで、総督官邸で久々に再会する。恋仲となるが、印パ分離独立を機にアーリヤーは父親や許嫁と共にパーキスターンへ行くことを決めてしまう。だが、彼らの乗った列車は暴徒に襲撃され、新聞によると生存者はいなかった。しかしながら、アーリヤーは奇跡的に助かり、デリーの難民キャンプで二人は再会を果たす。マウントバッテンのインド総督赴任で物語は始まるものの、最後はこの二人の再会で締めくくられる。印パ分離独立と、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の恋愛を重ね合わせるのは非常に単純な構成だと感じた。
映画を観る前からひとつ気になっていたのは、マウントバッテンの妻エドウィナとネルーの関係をどう描写しているか、であった。知る人ぞ知ることだが、この二人はただならぬ関係にあったとされている。チャッダー監督もこのゴシップを知っていたようで、エドウィナとネルーの間に意味深な目配せを一瞬だけ入れていた。しかし、物語の本筋ではないためか、深入りするのは避けたようである。それ以上、この件に関するシーンは見当たらなかった。
インド映画の視点から見れば、キャストで見られた有名な俳優は、オーム・プリー(アーリヤーの父親)、ダルシャン・ジャリーワーラー(グプタージー)、フマー・クライシー(アーリヤー)、ニーラジ・カビー(マハートマー・ガーンディー)、デンジル・スミス(ジンナー)、ラージ・ズトシー(料理長)、アルノーダイ・スィン(アーリヤーの許嫁)などである。特に2017年に死去したオーム・プリーにとってこの作品は遺作の一本となったため、特筆すべきである。日本語パンフレットや公式ウェブサイトでは、必ずしもインド映画の視点から重要な俳優が紹介されていなかった。
また、あくまでこの作品は英国映画であり、通常のインド娯楽映画のように、歌と踊りが挿入されることはなかった。音楽監督はARレヘマーンだが、彼の出番があったとは思えない。序盤、ジートやアーリヤーの参加する結婚式でハルモニウムを弾きながら「Dama Dum Mast Kalandar」などを歌っていたカッワールは、歌手のハンス・ラージ・ハンスである。
言語はほとんど英語である。インド人役であるジートやアーリヤーも、英語の教養があるという設定であり、基本的には英語で会話をしている。英国人役が時々、インド人部下たちに指示を出すときにヒンディー語を使用していた他、インド人庶民が映し出されるシーンの喧噪の中に現地語が含まれていたくらいであった。
本物の大統領官邸で一部だけロケが行われたようだが、大部分はラージャスターン州ジョードプルにあるウンミード・バヴァン・パレス(Ummed Bhavan Palace)で撮影が行われているようである。ウンミード・バヴァン・パレスは現在でもマハーラージャーが住む宮殿だが、ホテルとしても使われている。一般人に開放されている区画も撮影に使われていたため、ここに行けば「Viceroy’s House」の世界が味わえるだろう。ちなみに一般人が大統領官邸に足を踏み入れることは非常に困難である。
「Viceroy’s House」は、1947年8月14~15日の印パ分離独立をテーマにした動乱映画の一種だが、ストーリーの大部分がインド総督官邸の中で進行するという、かなりユニークな作品だ。また、最後のインド総督として赴任したマウントバッテンの視点から分離独立が語られている点も、今までの動乱映画に見られなかった特徴のひとつである。東西冷戦の中に分離独立を位置づけて筋の通った物語としているところも評価できる。ただ、このような政治劇にチープな恋愛劇を混ぜたために重厚さが欠けてしまっていたきらいがあった。もともとライトな映画を得意とする監督だが、作品ごとにメリハリを付けられるといいだろう。