「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)の大ヒット以来、大学を舞台にした友情物語が盛んに作られるようになった。「Yaariyan」(2014年)や「Chhichhore」(2019年/きっと、またあえる)が代表例であるが、2019年2月15日公開の「Hum Chaar(我ら4人)」もその筋の映画である。
監督やキャストに有名な名前は見えない。だが、ヒンディー語映画界の老舗プロダクションであるラージシュリー・プロダクションズが製作した映画であり、クリエイティブ・プロデューサーとして「Hum Aapke Hain Koun..!」(1994年)や「Prem Ratan Dhan Payo」(2015年/邦題:プレーム兄貴、王になる)などを監督した大御所スーラジ・バルジャーティヤーの名前があり、侮れない作品であることが容易に予想された。
監督は新人のアビシェーク・ディークシト。キャストは、プリート・カマーニー、スィムラン・シャルマー、アンシュマン・マロートラー、トゥシャール・パーンデーイ、ヒマーンシュ・アショーク・マロートラー、アーローク・パーンデーイなどである。ほとんど新人か無名の俳優たちばかりだ。
ナミト・グプター(プリート・カマーニー)、アビール・カーン(アンシュマン・マロートラー)、スルジョー・クマール・パーンデーイ(トゥシャール・パーンデーイ)は、国立医科大学(NMIH)に通う医学生で、仲良し三人組だった。アビールとスルジョーは寮のルームメイトで、ナミトの部屋は隣だった。
彼らは新入生のマンジャリー・ミシュラー(スィムラン・シャルマー)と仲良くなり、四人組となる。だが、ナミト、アビール、スルジョーは同時にマンジャリーに恋してしまう。彼らは、マンジャリーの誕生日に誰が一番好きかを聞くことにする。
マンジャリーは誕生日パーティーで酔っ払ってしまう。三人は彼女に誰が一番好きか聞くが、マンジャリーは三人とも好きだと答えるばかりだった。とうとうマンジャリーは彼らの部屋で寝込んでしまう。翌朝、マンジャリーは自分の寮に帰って行くが、三人は周辺の学生たちから奇妙な視線を感じ異変に気付く。昨晩、三人がマンジャリーと話している様子を、彼らに恨みがあったアルマーンが盗撮しており、それを加工してネット上で拡散させていたのである。三人はアルマーンに仕返しをするが、彼は誤って酸を浴び重傷を負ってしまう。ナミト、アビール、スルジョーは退学処分となり、マンジャリーも家族に呼び戻されて勉学を続けられなくなる。ナミト、アビール、スルジョーは責任のなすりつけ合いから喧嘩をし、絶交となる。
あれから4年後。ナミトは父親の経営する病院で事務長をしていた。アビールは薬品のセールスマンをしており、スルジョーは結婚し、故郷の村で薬屋を経営していた。彼らのもとに突然、マンジャリーから助けを求めるメッセージが届く。三人はすぐさまNMIHに集結する。
NMIHの大学病院で彼らはマンジャリーと再会するが、彼女は誰にもメッセージを送っていないと言う。彼らは不審に思ったが、その病院には彼女の夫アーランブ(ヒマーンシュ・アショーク・マロートラー)が入院していることが分かる。交通事故に遭い瀕死の状態で、家族からも支援が受けられていなかった。三人に対するマンジャリーの態度は冷たかったが、彼らはアーランブを助けるために全力を尽くす。おかげで手術は成功し、アーランブの意識は戻る。
アーランブは三人を家に招待する。依然としてマンジャリーは三人に冷たい態度を取っていたが、彼らが父親や兄から侮辱されているのを見て、三人をかばい、彼らを「友人」、さらには「家族」だと呼ぶ。
仲良し三人組が一人の女の子を好きになってしまうという序盤の展開は、安っぽい学園ロマンス映画の典型であった。ただ、このような青春ストーリーは、個々の思い出と共鳴することで、しばしば心の中で増幅されて妙味を発揮するものだ。特に筆者はインドで大学生活および寮生活を送ったことがあるので、「Hum Chaar」についても、懐かしい気持ちと共に意外に楽しく観ている自分がいた。それでも、ナミト、アビール、スルジョー、そしてマンジャリー、それぞれのキャラの作り込みは甘かったと思うし、それらの役を演じる俳優たちもまだまだ未熟で、彼らの演技に引き込まれたわけでもなかった。
ありきたりながらも、青春の特権を振りかざしたおかげで底抜けに明るい序盤の雰囲気は、マンジャリーの誕生日パーティーを機にガラリと変わり、途端に重苦しくなる。不幸な事件によって医学を続けられなくなり、大学を去ることになったマンジャリーの怒りがなかなか収まらないため、観ているこちらも気まずくなってくる。最後の最後でようやくマンジャリーは三人を許し、何とか丸く収まるが、それも彼女の家族が彼女に対して抑圧的だったためにその反動で成立した和解であり、多少の強引さは感じずにはいられなかった。
また、意外に終わり方は典型的な青春ロマンス映画からずれている。なにしろ、ナミトもアビールもスルジョーも、意中のマンジャリーとは結ばれないのだ。マンジャリーは大学を去った後、家族の圧力により結婚させられてしまう。そう聞くと彼女は不幸な結婚生活を送っているように勝手に予想してしまうのだが、蓋を開けてみれば夫のアーランブはナミトたちが束になってもかなわないほどの好人物であった。三人は負け犬のように、アーランブとマンジャリーの仲睦まじい様子を見つめるだけだった。結ばれない恋愛を描く「Hum Chaar」は、大人の恋愛映画に分類されうる。そうすると、序盤の明るさと終盤の渋みがどうもアンバランスに思われてくるのだ。
ただ、これを友情の物語だと読み解いてみると、評価は変わってくる。ナミト、アビール、スルジョーはマンジャリーに恋してしまったが、マンジャリーはどうも最初から彼らを友人だとしか考えていなかったようである。三人は「友人」だと言われてガッカリする。だが、4年後に再会し、なかなか許してくれない彼女の口から、「友人」という言葉を聞いて、彼らはようやく許してもらえた気分になる。前半と後半で「友人」の意味合いがガラリと変わった。そしてさらにマンジャリーは彼らを、「友人であり家族である」と呼ぶのである。
インドの大学を舞台にした映画で必ずといっていいほど出て来るのがラギングである。これはいわゆる新入生いじめだ。州によってはラギング禁止法という独立した法律が作られるほど全国各地で撲滅のための努力が払われているが、いまだ完全には根絶されていないと見える。映画によってその描き方は両極端だが、「Hum Chaar」からは否定的な姿勢を感じた。ただ、三人がマンジャリーと知り合いきっかけにもなった点は特筆すべきである。
もはや既に何も珍しくないが、登場人物たちはFacebook、Instagram、WhatsAppなどのSNSを使いこなして大学生活を送っており、画面上でもそれらのコミュニケーションツールによるやり取りが視覚的に表現される。ナミトたちの人生がガラリと変わる転機になったのもSNS上にアップロードされた動画であったし、4年後に彼らが再びNMIHに集ったのもSNSによるメッセージがきっかけだった。さらに、エンドロールではWhatsApp的な会話が延々と流れ、後日譚が語られる仕掛けになっている。SNSに始まりSNSに終わっていた、現代の世相をよく反映した映画であった。
「Hum Chaar」に、クリエイティブ・プロデューサーのスーラジ・バルジャーティヤーがどれだけ関わったのかは分からない。脚本はアビシェーク・ディークシト監督自身が書いているので、ほとんどバルジャーティヤーの介入はなかったのかもしれない。そのおかげで並程度の映画で終わっていたと考えられるが、そのような中でも琴線に触れ心に残る要素がいくつかあったのは、やはりバルジャーティヤーによる力添えがあったからなのではないかと考えてしまう。まだ経験の浅い俳優たちの余裕のない演技を補う何かがあったのは確かだ。惜しい作品であるが、失敗作とまではいえない。