Chhal

3.0
Chhal
「Chhal」

 今日は夕方から友人とPVRアヌパム4へ映画を観に行った。当初は「Mujhse Dosti Karoge」(2002年)が目的だったのだが、時間が合わなくて諦めた。代わりに「Chhal」という今日(2002年8月9日)から封切られた映画があったので、それを観ることにした。

 「Chhal(騙す、という意味)」は実は普通のインド映画ではなく、最近徐々に作られるようになった新感覚のインド映画である。上映時間は2時間、キャストに有名なスターはいないし、ミュージカルシーンも最小限に抑えられていた。監督はハンサル・メヘター、主演はケー・ケー・メーナンである。

 警察官のカラン(ケー・ケー・メーナン)はオトリ捜査のため、ムンバイーの地下組織を支配するシャーストリーの組織に潜入することになった。この任務は州首相も関わっており、数ヵ月後に迫った選挙の前に、地下組織一掃という手柄を立てておきたいという政治的な意図によるものだった。まずシャーストリーの腹心ギリーシュの妹を敵ギャングの襲撃から救ってギリーシュに近付く。カランは職を探すためにマドラスからやって来たと語り、それを知ったギリーシュはカランを仲間に雇ってやる。カランはシャーストリーとも会うことができ、彼の組織に潜入することに成功した。カランは警察に地下組織の情報を流し続ける。

  しかし、ギリーシュは短気ですぐに人を殺すことに何の躊躇もない男だが、それ以外は実は妹思いのとてもいい奴だった。ギリーシュの唯一の肉親である妹のパドミニーは美容院で働いている美しい女性で、兄のことをいつも思いやっていた。カランはギリーシュの信頼を徐々に勝ち得て、カランもギリーシュに友情を感じるようになる。やがてシャーストリーもカランを信用するようになる。そしてカランとパドミニーは恋仲となる。

  一方、カランからの情報を得た警察は、ギャングの密会場などに何度も踏み込んでくる。前もってカランに伝えることなしに。このオトリ捜査のことを知っているのは一部の幹部だけで、現場で銃を放ってくる警察官たちはカランが実はオトリ捜査官であることなど全く知らない。カランは警察の上司に「もしオレの前に警察がやって来たら、オレはどうすればいいんだ?」と質問するが、上司は明確な答えを返してくれない。仕方なしにカランは同胞である警察を殺してシャーストリーやギリーシュを助けなくてはならなかった。挙句の果てに、カランは今回のオトリ捜査の司令官の1人までも殺してしまう。

  度々の警察の奇襲により、ギリーシュは仲間の中に誰か密通者がいることに勘付く。警察官を捕らえては拷問にかけ、密告者をなんとか暴き出そうとした。また、警察側は、カランに、ギリーシュやシャーストリーの身柄を引き渡すように要求してくるようになった。だが、既に地下組織の中で絶大な信頼を得ており、カランもギリーシュに友情を感じていたので、その要求を承諾しようとしない。何よりカランは婚約者となったパドミニーのことが心配だった。カランはパドミニーに「何があってもギリーシュを守る」と誓ったのだった。カランは警察とギャングの間で板ばさみとなって悩むことになる。

  しかしついにギリーシュは、カランが密告者であることを知ってしまう。ギリーシュはカランを人気のいないところに呼び出し、カランを追及する。そして一旦はカランに銃を向け殺そうとするが、その銃の弾丸はギリーシュの頭を貫いた。ギリーシュは「妹を頼む」と言い残し、自殺したのだった。カランはパドミニーのもとへ行き、2人で泣き崩れる。

  しかしシャーストリーの耳にもカランがオトリ捜査官であることが届く。シャーストリーはすぐに刺客を差し向けカランを殺そうとする。その際、パドミニーは怪我を負ってしまう。カランは仲間の警察官と共にシャーストリーの隠れ家に押しかけ、待ち構えるシャーストリーの部下たちと激しい銃撃戦を繰り広げる。カランは何発も銃弾を受け、血まみれになりながらも最後にシャーストリーを殺す。カランはすぐに病院に運ばれ、一命を取り留める。パドミニーも無事だった。

  ストーリーは急に数十年後へ。警察の上層部となったカランは、若い警察官を呼び出す。彼も若い頃のカランと同じく、ギャングのオトリ捜査を行うために選ばれたのだった。カランはその若者にオトリ捜査の説明をする。彼は「もし私の前に警察官が銃を持って現れたらどうすればいいんですか?」と問う。その問いにカランは答えるが、何と答えたかは分からなかった。

 ハリウッドのB級映画によくある警官アクション映画という感じだったが、インド映画という範疇で考えたらよく練って作られていたと思う。最後のシーン(数十年後のシーン)が挿入されていたことにより、インド映画の特徴がでていた。インド映画ではなぜか時間の循環性というか、同じことが何度も繰り返される様をわざわざ描くことが多い。また、ギリーシュの妹がギャングをやっている兄に何の疑問を抱いていない点も、インドっぽいような気がした。普通、兄がギャングだったら妹はそれをやめさようとしないだろうか?もしくは自分もギャングとなって兄妹でギャングをしたりとか。しかしこの映画では美容師である妹がギャングの兄を容認しているように見えた。これもインド人の考え方の特徴である「ダルマ(生き方)」だろうか?「教師のダルマは教えること、泥棒のダルマは盗むこと、各人に与えられた仕事をこなせばそれでよい」という考え方がインドにはある。以前に見た「Company」(2002年)もギャングが主人公の映画だったが、その妻はギャングである夫を、ギャングをやめさせようとはせず、サポートしていたのを思い出す。